日本への帰り道
〈アジア周遊編)
UAE(52ヶ国目) 2008/3/20-24
オマーン(53ヶ国目) 3/24-25
UAE 3/25-26
インド 3/26-29
バングラデシュ(54ヶ国目) 3/29-4/2
インド 4/2-3
タイ 4/3-15
台湾(55ヶ国目) 4/15-18
213.アラビア半島初潜入 2008 3/21 (UAE)
まわりが騒がしくなって目が覚めた。時計は2:00を表示している。真夜中だというのに朝食のサービスだ。
オレはモロッコのカサブランカからのフライトでUAEのアブダビへ向かっていた。時差が4時間あるので夕食を食べてすぐに朝食というわけだ。食事を終えしばらくすると日が昇り始め、地上が真っ白なのが目に入ってきた。はじめは曇っているのかと思っていたのだが、そうではなかったことに気付く。砂漠の砂が風に舞い、空気そのものが白く見えている。機体が降下を始めるとその砂の層は薄くなり、うっすらと地上が見えてきた。一面の砂漠の中を川が蛇行しながら流れ、それ以外は一切なにも存在しない風景がひろがっている。町はおろか家や木さえもない砂の世界。そこに川が流れているのは意外だった。オレはその光景に興奮した。いよいよアラビア半島だ!
暑い。東南アジアのような湿度のあるねっとりとした暑さではないが、かと言って北インドやエジプトのようなカラっとした暑さでもない。言葉で表現するのは難しいが、独特の暑さだ。そして空から見たように空気中には砂が浮いているので、地表近くはかすみがかっている。太陽も白く見え、直射日光はそれほど強くない。もしかしてこの独特の暑さの原因はそれだろうか? 日光が空気中の砂の粒子に乱反射し、四方八方から太陽熱が突き刺さる感じだ。
空港を出たオレは、とにかくアブダビの町まで出ようとバスを探していた。すると、オレと同じ飛行機でやって来た人たちのほとんどが同じバスに乗り込んでいることに気付く。話を聞くと、それはドゥバイまでの無料バスだった。
そういえば聞いたことがあった。UAEの正式名称はアラブ首長国連邦。つまりいくつかの首長国の連邦で国を形成している。オレの乗って来たアブダビ首長国のイテハド航空と、ドゥバイ首長国のエミレーツ航空は激しい乗客の奪い合いをしているとか・・・。そこでイテハド航空はドゥバイ、アブダビ間の無料送迎バスを運行しているのだろう。
とにかくオレにとってはうれしいものだった。オレはドゥバイへ行くつもりだったのだが、一度アブダビの町まで出て、そこのバスターミナルからドゥバイへ向かうのが当然だと思っていたのだ。そんなバカなことをする前にこのバスを見つけて良かった。
1時間半でドゥバイへ到着。ところがバスは街のバスターミナルではなく、街はずれにあるイテハド航空のオフィスで止まった。ほとんどの客はツアー会社のバンやミニバス、ホテルの迎え、タクシーでリゾートエリアへ向かった。一人取り残されたオレはゴールドスークへ向かうため、バスを探す。
ゴールドスーク。実を言うとオレはそれが何なのかさえ知らない。とにかくネットで調べて得られた情報によると、そのゴールドスークの周辺に安宿がいくつかあるらしいのだ。今のところオレが持っているUAEの情報は「ドゥバイのゴールドスークの周辺に安宿があるが、それでもかなり高い」、「アルアインという町からオマーンへ1日限定でビザなし入国ができる」たったのこれだけ。あとはドゥバイが世界的なビーチリゾートであること、オイルマネーで巨額の富を得たこの国が建設ラッシュに沸いていること、そのため観光業と建設業には海外からの出稼ぎ労働者が多い、といった一般常識程度のもの。
とにかくオレはゴールドスークへ向かうしかない。航空会社の人や近くにいた人に、どのバスに乗れば良いのかを尋ねる。が、誰もそれを知らない。しかたがなく近くのバス停でバスを待ち、運転手に聞いてみることにした。しばらくしてバスが来た。
「ゴールドスークまで行きたいんだけど」
「おう、分かった乗れ乗れ」
「いくら?」
「金はいらない」
「へっ?? フリー?」
「このバスはゴールドスークへは行かない。ゴールドスークへ行くバスのバス停まで行ってやるから、そこまでなら金はいいよ」
なんて良い運転手に出会えたんだろう! 他の人だったら「行かない」、「知らない」と言われてタクシーに乗り、大金を使うハメになるところだったかもしれない。彼のおかげでなんとかゴールドスークまで辿り着いた。
ゴールドスークは文字どおり金の市場だった。貴金属の店がひしめき合い、そのショウウィンドウには宝石や金が輝いている。これまでにも中国や東南アジアで金を扱う店が並んでいる通りを目にしてきたが、まったくレベルが違う世界だ。
そのゴールドスークの裏通りで安宿を探す。1泊50USドル(約5500円)! これがドゥバイの安宿。旅を始めてから最高額の宿・・・。質は中の上と言ったところか。ヨーロッパから来た今の金銭感覚だからこそ泊まることにしたが、そうでもなければ野宿でもしていただろう・・・。
それにしてもこのゴールドスーク、ドゥバイの街に建っている近未来的なデザインの高層ビル群、巨大ショッピングモール、この街を見てオイルマネーの凄まじさをまざまざと感じさせられた。これだけ景気が良ければ外国人労働者もここを目指して来るわけだ。
オレの泊っている宿はオーナーをはじめ、従業員はみなバングラデシュ出身だし、親切にしてくれたバスの運転手はマレー人だった。やはり外国人労働者は多いらしい。聞くところによるとドゥバイの人口の80%は出稼ぎ労働者なのだとか。信じられない数字だ。そういえばスリランカで知り合って家に招待してくれた人のお兄さんもUAEで働いていると言っていたし、マレーシアで知り合った人の息子もUAEにいると言っていた。前にTVで「バングラデシュから大量の出稼ぎ労働者を斡旋する業者」を取材していたのも視た。インド、スリランカ、バングラデシュ、パキスタン、インドネシア、マレーシア、中国、アフリカ諸国・・・。特にインド人とバングラデシュ人が多く、顔が似ている彼らはやたらと多く感じる。ここインドかよ! と思ってしまうくらいだ。
ところで前にも書いたように、UAEについての情報はほとんどない。どこを見れば良いのかさえ分からない状態なのだが、このゴールドスークと、それに隣り合うバードバイという地域には旅行者が多い。まずはそこから攻めながら情報を得ていくとしよう。右も左も分からない場所を旅する楽しさを、久々に感じてワクワクしている。
バードバイの運河 / ゴールドスークはキンキラキン
214.世界一の高級ビーチリゾート 2008 3/26 (UAE、オマーン)
ドゥバイ。UAE最大の、いや唯一のリゾート地。今や世界有数のビーチリゾートだ。もともと砂漠地帯の何もない海岸に、巨大なホテルや巨大ショッピングモールをバンバンと建てたオイルマネーの賜物的なリゾートは、その高級志向を売りにしている。ホテルとしては建物の高さが世界一のバージュ・アル・アラブはメディアにも頻繁にとりあげられ、日本でも有名だ。
つまり! オレのような貧乏旅行者はこの世界一の高級ビーチリゾートには場違いなのだ。
たしかにそうだった。ビーチはほとんどがホテルのプライベートビーチだし、何ヵ所か存在するそれ以外のビーチは何と有料! 有料なだけにビーチには柵があって狭いし、屋台もなければアルコールも禁止、レストランはとんでもなく高い、おまけに海もきれいではない。こんなのは楽しくもなんともない。最近新婚旅行でドゥバイへ行くカップルが多いそうだが、オレは絶対に勧めない。
ここは金持ちだけが高級ホテルに泊まって、ショッピングして楽しむ場所だった。
ビーチと並んで旅行者が多いエリアが、オレの泊っている宿のあるゴールドスークと、そこから運河の対岸にあるバードバイという地域だ。バードバイには博物館、2つの大きなモスク、昔の街並みを再現したショッピング街があり、どこも一見「おおーっ」と思えるような外観だったが、そのうちそれが全くおもしろくないことに気付く。どこも真新しいからだ。いかにもツーリスト向けに造られましたという感じが出ていて、同じものが昔から残っていますというのとはわけが違う。つまりディズニーランドのようなニセモノなのだ。オレはモロッコのマラケシュを思い出した。それをさらに極端にした場所。それがドゥバイだった。
ドゥバイでは物価の高さと情報の無さに加えてもうひとつ困ったことがあった。市バスの本数が人口に比べると極端に少ないのだ。そのためバスはどれも満員。しかも満員のバスはバス停を通りすぎてしまうのだ。毎回バス停で長時間待たされることとなった。ビーチへ行った帰りには3時間も待ったくらいだ。金持ち旅行者はタクシーを使うのだが、そのタクシーも数が少ないので争奪戦になる。欧米人旅行者たちもイライラしている姿が目立った。やはりこの街ではホテルの中で過ごすのが一番なようだ。そんなのが世界一の高級ビーチリゾート? 過剰広告以外のなにものでもない。
次はアルアインという町へ移動。ビーチを離れたオマーンとの国境近く、砂漠の中オアシス都市だ。この町からオマーンへ入国でき、ビザなしでも1日限定の入国が許可される。アルアインには何もないのだが、オマーンに入った隣町のブライミにはいくつか見どころがあるらしい。
ブライミまで1時間半。その間はずっと砂漠だったが、さすがオアシスのアルアインは緑と水にあふれていた。バスターミナルに着いて国境行きのバスを探す。が、何人に聞いても「無い」という答えだった。そして皆同じことを言う。「タクシーで行け」。
しかたがなくタクシーに乗ったが、これが意外と安かった。もしかしたらタクシーが庶民の足なのかもしれない。こんなことならドゥバイでも長々とバスを待つんじゃなかった・・・。
国境を越えオマーンに入った。宿を探して長時間歩いたが、とにかく暑い! 風も強くて、それがドライヤーのような熱風なのだ! 隣町のアルアインはオアシスだったが、ブライミまでくるとそのオアシスの外。容赦なく砂漠の砂が飛んでくる。暑くて痛い。
結局、ブライミではほとんどの時間を宿のクーラーの中で過ごしてしまった。とはいっても外出したわずかな時間で、すべてを観光できてしまうような町だったのだが・・・。
1日でUAEへ戻り、アブダビへ。この町はオイルマネーの経済を支えるビジネス街だと聞いていたが、そのとおりで見るような場所はまったくなかった。ここにいてもしかたがないし、安宿も存在しない。翌日は朝のフライトなので、オレは早々と空港へ向かってしまった。空港で夜を明かし、インドへ帰る。
アラビア半島・・・。おもしろいのはイエメンだけだとは聞いていたが、残念ながらそれが正しいようだ。ただ未知の地域を体験し、久々にドキドキの旅を思い出すことができたのは収穫だ。いつかイエメンへ行こう。
今や世界一有名なホテル,バージュ・アル・アラブ / オマーンのブライミにはこの砦以外なーんもない
215.スターはつらい 2008 4/1 (インド、バングラデシュ)
UAEのアブダビからインドのデリーへ戻り、機内にハエが飛び交うインド国内線に乗り換えてカルカッタへ。この1週間後にはタイのバンコクへ飛ぶ予定だが、その間に陸路でバングラデシュを往復する。
ここでオレはひとつの失敗に気が付いた。バングラデシュのビザを事前に取っておくべきだったのだ。5週間前にデリーで取っておくべきだった。その時は日本人宿でダラダラと過ごしてしまい、そのツケが今にまわってきてしまった。ビザの申請と受け取りに2日間が無駄になり、バングラデシュにはたったの4泊しかできなくなってしまった。
本当かウソか分からないが、WHO(世界保健機関)はバングラデシュの首都ダッカを世界で一番汚い町と認定しているという話を聞いたことがある。特に見どころがある街ではないが、オレもその汚さと人口過密による極限のゴチャゴチャ具合を見てみたかった。しかし4泊しかできないので、ダッカまで行くとなると他の町に行く時間はなくなってしまう。それにヨーロッパはもちろんモロッコ、UAE、オマーンと比較的清潔な国を旅してきた最近のオレは、今いるカルカッタでさえ汚いと感じてイヤになってしまうほどなのだ。
ということで、世界一汚いダッカへ行くのはヤメだ。比較的インドから近い町をいくつかまわることにした。
最初に向かったのはクルナという町。国境を越えると一気に感じが変わった。自然の風景も町の風景もインドと同じ、人々の顔も服も同じ、食べ物も飲み物も売られている物もほとんど同じ。しかし人間の中身がまったく違うのだ。
ツーリストの少ないこの国では外国人は珍しく、オレが歩くと町中の人の注目を浴びることとなる。たしかに国境付近では外国人を誰一人見かけなかった。すれ違った人は皆立ち止まって振り、リキシャに乗れば自転車で追いかけてくる人がいる、食道に入れば店の外にまで人だかりができる始末・・・。そしてありとあらゆる場所から視線が突き刺さる。まるでハリウッドスターになった気分だ。バングラデシュへ行ったことがある旅行者からはこのことを良く聞かされていたが、まさに話のとおりだった。
最初はみんな遠くでじっとこちらを見ている。とにかくガン見だ。例え宇宙人に遭遇したとしてもここまではしないだろうというくらい。そのうち英語を話せる人が現れると、今度は一気に質問攻めにあう。それまで遠くで見ていた人たちはダムが決壊したかのごとく集まってくるのだ。
そしてチャイを御馳走してくれたり、家に招待されたり、街を案内してくれたりということになる。少し仲良くなった後、アドレスを交換してくれという人もやたらと多く、あっという間にメモ帳は無くなってしまった。
そして彼らに悪意はまったく感じられず、とにかく人は良かった。
クルナには世界遺産のモスクがあり、バングラデシュで最大の観光地になっている。ところが、オレが見かけた外国人旅行者はたったの3人・・・。モスクもまったくつまらないし、凄くもない・・・。次に行ったクシュティアという町の聖者廟も同じく・・・。クルナ、クシュティア、ジョソールという3つの町へ行ったが、町そのものも特におもしろくもなんともなく・・・。結局「この国最大の見どころは人間なんだ」ということになった。
その人間。最初のうちは人が良いなどと感じていたが、3日がオレには限界だった・・・。やはりここまでつきまとわれると「ウザい」と感じてくるようになってしまった。ここの人たちに悪意はないのだ。悪いわけではないのだが、「見るな!」、「話しかけるな!」と思ってしまうようになる。
悪意のあるしつこさに対応する術は旅の中で身につけてきたが、今回のような場合のうまい対処法が見つからない。そっけない対応をしてしまうのも悪いし、かといってすべてを相手にしてもいられない・・・。困り果てて逃げるようにしてインドへ戻ったオレだった。
バングラデシュは世界の最貧国のひとつにあげられる。物価はあのインドよりもさらに安く、オレの行った国の中では最安の国だ。もちろん人々も貧しそうだし、建物も、乗り物も、食べ物も、製品も質は悪い。電気もまともには来ていない。
しかし、そんなこの国の人々からは苦しそうな感じは見てとれない。話をしていてもバングラデシュに誇りを持っている人が多いし、先進国の人間よりも生き生きとしている。結局、いったい何が幸せなのか? 前回の旅でイヤというほど考えていたそのことを、また少し思い出した。だが、その答えを今のオレは知っている。そして、彼らと出会ってそれを再確認した。
インドへ戻ったオレはカルカッタの街まで行かずに、国境からそのまま空港へ向かった。翌朝のフライトが朝早いからだ。それにしても何でオレの乗る飛行機はこうも毎回早朝発だったり、深夜着だったりするんだろう? その度にオレは空港のベンチで朝を待つことになり、エアコンの効きすぎた空港内で体調を崩すことも多かった。もっとも、オレのような貧乏旅行者が買うチケットはこの日程のために安いのだろうけど・・・。
空港まで最も近い鉄道駅のダムダムで列車を降りる。バスを探して歩いていたオレは、ここが懐かしい風景だったことに気付いた。この辺りはオレが初めてインドに来た時に何も分からない状態でバスを降ろされ、インド人に道を尋ねながらあっちへ行き、こっちへ行きと右往左往していた場所だ。
もう4年も前のことになる。懐かしさを感じるとともに、当時のオレのことを思い出していた・・・。まだ旅に軟弱で、初めてのインドにビビっていたオレ。しかし、今のオレはそんな4年前のオレのことを羨ましくも思える。このすばらしい国にこれから出会うことのできるオレを。このグチャグチャな国に衝撃を受けることになるオレを。このメチャクチャな国にムカツきまくるオレを。そしてこの意味不明な国を旅して成長し、世界がひろがることになるオレを。
オレはまたこの国へ来ることがあるのだろうか? インドへはインドに呼ばれた人しか行くことができない。良く聞く言葉だが、オレはまた呼ばれることがあるのだろうか?
どちらにしても、オレはこの国と別れる今、声を大にして、そして最大限の尊敬と愛情をこめてこう言いたい。
「こんな国! 2度と来るかっ!!」
バングラといえばリキシャ / バングラではどこへ行っても人に囲まれる
216.帰国日決定 2008 4/3 (タイ)
空港を一歩出ると、ムワっとした空気に全身の毛穴が瞬時に反応したように感じた。久々の感覚だ。UAEもインドもバングラデシュも暑かった。オマーンにいたっては昼間は出歩けないほど暑かった。が、湿気のある重い空気にまとわりつかれると、それ以上に暑く感じる。この不快な空気が懐かしく、心地よい。
ついにタイまで戻って来た。いよいよオレの旅も終わる・・・。
空港で出迎えてくれたのはこの空気と、前回の旅で知り合ったトモヒロくんだ。彼とは去年の11月にタイで会う予定をしていたが、チベットにいたオレはタイまで辿り着けずに結局会うことはできなかった。
フォトジャーナリストを目指す彼は今回、タイ南部のムスリム独立運動を取材するためにタイへやって来た。
友人とも再会したのですぐにでも遊びに行きたかったが、オレには仕事がある。日本へ帰る航空券を早めに買わなければならない。宿へチェックインすると早速、カオサンの旅行会社をあたった。希望していた日、そしてその前日も満席。本当だったら希望日の翌日、あるいは2日後で探してみるのだが、今回は事情がある。日本に帰ってから失業保険の申請をしなければならないのだ。帰国は遅らせたくない。
結局、予定していたよりも2日早く旅を終えることになった。4/18の帰国。
タイの正月である4月の中旬、新年を祝う祭りが3日間盛大に行われる。「ソンクラーン」と呼ばれる水掛け祭りで、タイ最大の祭りだ。祭りが終わってからその翌日に帰るつもりだったが、これで祭りの途中でタイを発つことになってしまった・・・。
最後の悪あがきで台湾に3日間寄ってからの帰国だ。
前回の旅では帰国2週間前にパスポートを盗られるというヘマをやらかしたオレだ。最後にテンションダウンしてしまった失敗を繰り返してはならない。終わり良ければすべて良しなのだ。とにかく最後まで気を抜かないように気を付けよう。と、思っていた矢先にこんなことがあった。少し前の話になるが、バングラデシュにいた時のことだ。
オレはジョソールという町からバスに乗り、インドへ帰るために国境の町ベナポールへ向かっていた。広大な水田がひろがる中のまっすぐな1本道。交通量も少なく、バスは快調に飛ばしていた。オレは一番前の席に座り、その景色を楽しんでいた。
そして、バスにトラブルが起こった。ハンドルが効かなくなったらしく、ドライバーはハンドルを左に6周も7周も回している。いや・・・、それだけ回っちゃう時点でかなりヤバいでしょ・・・。オレの席は一番前なので運転席も良く見えたのだ。バスは猛スピードのまま右へ右へと道を外れていき、ついにはそのまま水田に落ちてしまった。運良く街路樹の大木まであと30pというところで激突をまのがれていたが、水田に落ちたバスは横転ギリギリのバランスで不安定な状態だ。乗客はパニックになり、我先にと出口に殺到・・・。
と、こんなことがあったのだが、オレはビックリしてしまった。といっても事故に驚いたわけではない。オレがビックリしたのはオレ自身についてだった。一歩間違えば一番前の席にいたオレは大木に激突して大ケガだったかもしれない。それほどの事故だったにもかかわらず、オレはまったく冷静だったのだ。心臓はまったく平常どおりの脈を刻んでいる。オレはそんなオレ自身にビックリしてしまった。「危ない!」、「ヤバい!」と思うよりも先に、「またかよ」、「めんどくさいことになったな」ということが頭の中にあった。それにパニックになった人たちを見て、「何でこの程度のことでそんなに慌てるの?」と思ったくらいだ。
旅に慣れすぎて、何が起こっても驚かなくなってしまうほど多くの経験をしてきたのは事実だが、ここまできてしまうとそれは逆に危ない。危険に対して鈍感になりすぎている・・・。気をつけなくては・・・。特にタイ、台湾という比較的治安の良い国で気を抜くと大変なことになるかもしれない・・・。
ソンクラーンの近いバンコクは早くも祭りモード / 旅はここから始まりここで終わる
217.ソンクラーン 2008 4/15 (タイ)
日本へ帰るチケットを手配し、最後に寄る台湾のガイドブックもコピーさせてもらった。これでもう旅のめんどうな仕事はすべて終了だ。遊ぶぞー! ということでトモヒロくんとバンコクを満喫。やっぱここは楽しい!! 旅も終りに近づき、「やっと日本に帰れる」と思っていたが、タイに来てあっという間に「日本に帰りたくない」になってしまった。
タイ南部へ取材へ出かけるトモヒロくんとは一旦お別れだ。ソンクラーンの前日にバンコクで再会する予定でいる。
その間、オレはビーチだ! やっぱオレは海が好き。前にも一度行っていて気に入っているタオ島へ行く。金に余裕があればダイビングをやるのも良いし、いつものように海を眺め何も考えないのも良い。
バンコクから列車でチュンポーンへ。そこからバスで港まで行き、そこからボートでタオ島へ。港に長く伸びた、木造の桟橋の上を進んでいくと気分は盛り上がった。何度も経験しているが、毎回オレは「これからバカンスだぜー!」という夏休みの初日のようなワクワクした気分になる。旅の中でオレが好きな時間のひとつだ。
タオ島に到着し、いつもより少し高めの宿に泊まった。最後はささやかな贅沢だ。インドの後半からここまでかなりハイペースの旅になってしまったので、久々にのんびりできてサイコーだった。海を眺めているうちに、オレはこの「のんびりモード」にどっぷりと浸かりたくなってきた。ダイビングはヤメにして、もっと海がキレイで静かなビーチを目指す。そこでさらにのんびりするのだ。
バンコクの日本食屋で得た情報を頼りに、アオルークビーチというビーチへ来た。島の奥にあり、まだ開発の手が及んでいないビーチだ。宿は2件しかなく、レストランや売店もその宿に併設されたものだけ。観光客も少なく、今のオレが求めていた理想のビーチに近い場所だった。海もキレイだ。特に崖の上にあるレストランからの眺めはサイコー! そのうちここも開発されてしまうかと思うと寂しいが、かなりの隠れ家的ビーチを発見した気分になった。
ここでは日本人のカップルと一緒になった。彼らもこの隠れ家を求めてやって来たそうだ。しかも新婚旅行だとか・・・、おじゃましちゃってすんませーん・・・。
とにかく、旅の最後のビーチは心に残るものになった。ビーチ最高!!
祭りの2日前にバンコクへ帰り、その翌朝にはトモヒロくんも帰って来た。インドのハンピで知り合ったケイゾウさんとも偶然再会し、3人で祭りに備えた。銃(水鉄砲)と手りゅう弾(水風船)で武装だ!! ラストは祭りで燃え尽きるぞー!!!
ソンクラーンと呼ばれるこの水掛け祭りはタイ正月を祝うもので、「天の恵みである水を掛け合って皆で幸せになりましょう」というものらしい。タイ正月は4月で、4月はインドシナ半島が1年で最も暑くなる季節だ。つまり、文字どおり「盆と正月が一緒に来る」ということになる。盛り上がらないわけがないのだ! 人々はだれかれかまわず水を掛けまくる。そして意味は分からなかったが、白い粉を塗りまくる。もちろん外国人だろうとおかまいなしだ。いや、むしろ欧米人たちが一番盛り上がっていたほど。祭りの前から待ち切れなくなってフライングしていたのも欧米人だった。
水鉄砲で、ペットボトルで、バケツで、ホースで、とにかく水を掛け合う。子どもも大人も老人も、男も女も水を掛け合う。友達だろうと他人だろうと、とにかく水を掛け合う。かつては消防車まで登場したこともあったそうだ。
水鉄砲も空気圧縮式の強力なものが売られていて、それに氷水を入れられるとかなりのダメージを受ける。一番強いのはバケツで、やはり氷が入っていると最強だ!
宿を一歩表へ出れば、ズブ濡れは覚悟しなければならない。バスに乗っていても窓を開けられて水を掛けられてしまうのだ。毎年ソンクラーンの期間中は、交通事故が絶えないのだとか。
3日間行われる祭りの最終日にタイを離れることになってしまったが、ナゼか祭りの前日から水の掛け合いは始まっていたため、結局オレも3日間ソンクラーンを楽しんだ。3人でバンコクの街をかけずりまわり、特に2日目は深夜までこの戦闘に参戦した。もうクタクタだ。濡れると体力を使うことを学習した。乾く時に体温を奪われるからだろう。かなり楽しい祭りだが、体力がもたない・・・。
それにしても良いタイミングだった。旅の最後が一番楽しいというサイコーの終わり方になった。最後に不運が続いてテンションダウンして帰った、前回の旅とはえらい違いだ。終わり良ければすべて良し! 今回は良い気分で帰国できそうだ。
もちろんあと3日間、台湾で何事も起こらなければの話だが・・・。
ソンクラーン最高! タイ最高!! I Love バンコク!!!
タオ島で見つけたサイコーの隠れ家的ビーチ / ラストはソンクラーンで燃え尽きる!!
218.ありがとう 2008 4/18 (台湾)
インドで知り合いバンコクで偶然再会したケイゾウさんとは、これまた偶然にも台北へのフライトも同じ便だった。こんな偶然があるなんてスゴい! と思うかもしれないが、旅なんてこんなものだ。世界は広いが旅人の世界は狭い。
ケイゾウさんは台北で乗り換えてそのまま日本へ帰国するそうだが、オレは最後の3日間を台湾で過ごす。早朝2人で空港へ向かい、台北へ。空港で彼と別れて市内行きのバスに乗った。ついに最後の国だ。
噂は聞いていたので特に驚きはしなかったが、街はまるで日本のようだった。日本語であふれていて、日本のものであふれている。日本食屋も多いし、CDのヒットチャートの上位半分くらいは日本の曲、テレビやラジオでもそれが頻繁に流れていて、日本製品のCMなんかは日本語のままで放送されていたりもする。年配の人を中心に日本語を話せる台湾人はかなり多く、かつて日本が植民地として台湾を支配していた歴史を感じずにはいられない。それに、良く考えてみればここから沖縄はもう目と鼻の先なのだ。島国の日本は国境を持たないが、ここが日本との国境の町と考えれば何の不思議もないのかもしれない。
そんな「ほとんど日本」という台北の街では、今までの旅で感じたおもしろさとは別のおもしろさを感じた。が、それは日本へ帰った時の感動を薄れさせることになるだろう。とはいっても今のオレが久しぶりの帰国に感動するのかは疑問だが・・・。
台北にはそれほど見どころが多いわけでもなく、ここでの過ごし方はもっぱら食べ歩きだ。東南アジアのように屋台が多いのがうれしい。
台北から列車に乗り、九フンという町へ行って来た。ここは映画『千と千尋の神隠し』の舞台のモデルになった町で、台湾の映画やドラマでも舞台になっているという情緒ある町だ。雨が降ってしまいせっかくの風景が霞んでしまったが、感じの良い町で気にいった。
山の斜面に家々が連なり、こぢんまりとしていて日本の温泉街のような雰囲気。山の上からは海が見え、坂や階段の多い風景も良い。このような観光地といえば日本では老人たちの姿が目立つのだが・・・、やはりここもそうだった。老人たちが見晴らしの良い茶屋のテラスで茶をすすっている。彼らはこの風景を眺めながら人生でも振り返っているのだろうか? などと考えながらオレも旅を振り返っていた・・・。
ついに旅が終わる・・・。終わってしまう・・・。
今回もいろいろあった。シルクロードではその風景に感動し、多民族文化のおもしろさにも触れた。そしてチベットではさらなる絶景に息をのみ、チベタンの祈りに深く考えさせられた。東南アジアではやっぱここが一番なんだということを再確認し、久々の開放感を味わった。しかしスリランカとインドの前半、オレは旅に負けそうになってしまい、心が折れる寸前だった。それを救ってくれたのはやはりインド、そしてインド人だった。オレは完全にフッ切れてインドの後半は充実した時間を過ごした。そしてあの事件・・・。
モロッコではモロッコの人たちをキライになってしまい、モロッコ人にやられそうになった。ヨーロッパやアラビア半島では、今までの旅のノウハウが通用せずに新鮮なとまどいがあった。バングラデシュでは忘れかけていた大切なことを思い出し、ラストのタイはサイコーに楽しかった!!
オレは多くの人に感謝している。旅で知り合ったすべての友人たち、旅で出会ったすべての人、そして日本で待ってくれていたすべての人に・・・。みんな本当にありがとう!!!
台北では日本人宿に泊まっていた。旅の最後の夜、その屋上でビールを飲む。日本人3人、韓国人1人、オレはささやかに祝杯をあげた。その中の一人はこれから世界一周の旅に出るという。彼は世界一周をしたオレのことを神様のように言ったが、そのオレも旅を始めたころはこの彼のようだった。そして世界一周をしてきた旅人と会うと、今の彼のように尊敬の眼差しでその人と接したものだ。
今までもこれからも、旅人たちは世界のどこかですれ違い、旅を共にし、旅を紡ぎ合っていく。オレの旅はここに終わりをむかえたが、オレタチの旅は終わらない。永遠に途切れることなく歩き続けるだろう。
山にある中国寺院 / 千と千尋の舞台のモデルになった街
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