今しか行けない場所
《TRAVEL9》
タイ、ミャンマー 2012/12/30-2013/1/6
259.考えることは同じ
夏の終わり、静岡市でタイフェスタが開催された。タイ雑貨やタイ料理の屋台が出て、ステージではタイの文化を紹介する祭りだ。愛知からトモヒロくんが遊びに来て一緒に行ったのだが、その会場近くで「カンボジアの写真展」があることを知り、そちらへも足を延ばしてみることになった。
写真展を開催していたのは今のオレたちと同じリーマンパッカーの人だった。会場で少し話をさせてもらうと、
「近いうちにミャンマーへ行く予定なんですよ。」
という話が出た。実はオレも正月休みにはミャンマーへ行くつもりだったのだ。
「またゆっくり旅の話でもしましょう。」
ということでアドレスを交換し、後日飲みに行くことになった。
日を改めて酒を飲みながら話をした。
彼は今回、ミャンマーのヤンゴン、バガン、マンダレーへ行くつもりらしい。しかもエアアジアを利用してのヤンゴンイン、マンダレーアウト。オレの予定と全く同じ! エアアジアのこの路線は最近就航したばかりで、2人とも
「おっ、新しいルートが使えるぞ。」
と飛びついたわけだ・・・。バックパッカーは考えることが同じで笑えてきた・・・。
トモヒロくんもこの夏にはタイ、ラオス、カンボジアへ行ってきて、次は正月の休みでインドへ行くと言い出した。
と、そんなこんなで旅の話ばかりしているうちに、旅気分が盛り上がってしまい・・・、前にも書いたように急遽韓国へ「旅をしないと死んじゃう病」の治療に行ってきたわけだ。
というわけで、2012年から13年にかけての年末年始でミャンマーへ行く。
ミャンマーへは4回目になるが、2回目と3回目は国境の町へ1日入国のみだったので、実質2回目だ。前回旅をしたのは2003年の秋。もう9年も前ということになる。
ミャンマーへ行く一番の理由は、やはりここ数年で急速に民主化、近代化しているこの国の今を見ておきたかった。多くの国が近代化と同時に失ったもの。それを持っていた9年前のミャンマー。それを失ってしまう前に、どうしてももう1回行きたかった。
そして、前回の旅の時にカメラが壊れてしまい、旅後半のデータが半分以上消えてしまった、ということも理由の一つだ。
そのため、行ったことがない町へ行くのではなく、あえて前回も行った町へ行くことにした。9年前との変化を感じながら、失ってしまった記録を撮り直す旅だ。ちなみに記録ではなく記憶はハッキリと脳裏に刻まれている。
そこで、前記のエアアジアのマンダレー、バンコク線が就航したということで自然とルートが決定した。ヤンゴン、バガン、マンダレー、行き帰りともちょっとだけバンコクで寄り道。そんな8日間の旅。
260.懐かしのドンムアン
2年前のタイ、ラオスの旅と同じく、今回も羽田を深夜発でバンコクに早朝着の便を利用した。つまり0日目の深夜出発で1日目の朝から時間を使える、という時間的には最も有効なスケジュール。時間のないリーマンパッカーには利用価値大だ。
早朝のバンコクに到着し、エアポートリンクという名の空港と市街地をつなぐ電車で市内へ向かう。夕方発のヤンゴン行のフライトまでの間、5時間くらい町をぶらぶらできる計算だ。駅を出てからまず、バスでバンコクの街を眺めながら王宮の周辺へ行き、カオサンをひと回りしてからファランポーン駅へ、そこから列車に乗ってドンムアン空港へ向かうことにした。
懐かしいドンムアン空港・・・。
初めて海外へ行ったのが15年前。右も左も分からず到着したのがこのドンムアン空港だった。その後、旅を始めるきっかけになった旅行の時も、旅を始めた時も、このドンムアンに着いて、キター! とテンションが上がったものだ。そしてドンムアンの匂いをアジアの匂いとして脳裏に刻みこんできたほど、印象の深い空港だった。新しくスワンナプームができてからは国内線の空港として細々と利用されてきたが、エアアジアだけは国内線もスワンナプーム発着だった。
しかし、今年の秋からエアアジアは拠点をスワンナプームからその「懐かしのドンムアン」に移した。混雑を避けることが理由だそうだが、たしかに正しい選択だったように思える。2年前にはエアアジアでバンコクからウボンへ行ったのだが、その時にはチェックインカウンターがもの凄い混雑で、時間ギリギリになってひやひやした経験がある。が、今回はほとんど並ばずにすんなりとチェックインできた。
混雑は見事に解消されたわけだが、逆に早めに空港へ向かったのが失敗して空港で2時間以上も待つハメになってしまった・・・。懐かしさに浸るにしても長すぎる・・・。
今は閑散としているドンムアン
261.ミャンマーの9年
9年前にミャンマーへ行ったときには、バンコクからビーマンバングラデシュ航空でヤンゴンへ飛んだ。
「フライト中、機内に煙が出るけど、いつものことだから大丈夫。」
という話が有名な、あのビーマンだ。実際のところ煙というよりは空調の水蒸気のようにオレには見えたが、とにかくそのビーマンが5時間以上も遅れたのだ。その結果、ヤンゴン到着が夜になってしまった。そして停電中の真っ暗なヤンゴンに
「これで首都かよ? とんでもない国へ来てしまった。」
と驚いたオレだった。
あれから9年。オレが降り立ったヤンゴンは、まるでオレの知っているヤンゴンとは別の街だった。
違いを挙げればきりがないが、中でも特に大きく変化した点だけでも5つもある。
まずは車だ。9年前は日本からの中古車、しかもスクラップ寸前のボコボコで年季の入った「社用車」がほとんどだった。○○商事やら××建設などと社名が入っている車ばかりが走っていた。しかし今はどうだろう。中古には変わりないだろうが、日本を走っている中古車と同レベルのものが走っている。黒煙をあげている車など皆無に近い。それに、圧倒的に車の数が増えている。帰ってから調べた数字だが、ここ10年で5倍以上になったらしい。
次に電力供給。9年前の到着時に驚かされたように、毎日停電があった。いや、正確に言うと「電気が来ることもあった」だ。ところが今回22時間くらいのヤンゴン滞在中に停電は30分程度。街にはネオンや街灯、信号機が増え、夜のヤンゴンは一変した。
そして人。みんなオシャレになった・・・。民族衣装とも言える巻きスカートの「ロンジー」をはいている人は半分くらいに減り、服も靴もバッグも小奇麗で、髪型、化粧、すべてが変化している。物質的に豊かになったのだ。
当然かもしれないが、携帯を持っている人が増えた。なんとそのほとんどがスマホだ! 多くの途上国にありがちなことではあるが、まるで階段を2段、3段飛ばしで上っているかのように急速に国が発展していく。つまり発展の過程において、どこかが抜けていたりするのだ。
固定電話が普及する前に携帯電話が普及した国は多いが、ミャンマーでは固定電話はもちろんパソコンより先にスマホまで行ってしまった・・・。ネットもなかった国に、光より先に Wi-Fi って・・・。
最後に政府による規制。これも山ほどあるだろうが、旅行者のオレにも明らかに分かったのはテレビとネット。9年前はテレビのチャンネルが2つしかなかった。両方とも軍事政権が運営する局で、ことあるごとに軍事パレードの映像が流れていた。軍事政権らしく、海外の情報などは特に規制が多く入っていたようだが、今はチャンネルが増えて海外のニュースなども普通に見ることができる。
そして同じく情報統制の対象とされ厳しく制限されていたインターネットが解禁され、9年前には皆無だったネットカフェが登場、レストランやホテルでは Wi-Fi が使える。ここ数年でゼロからここまできたのだから凄い。
こんなぐあいに、急速な民主化は”見かけ上”は国を豊かにしていた。が、その中身は? 今回はそれを見極める旅となった・・・。
車が圧倒的に増えた / バスもキレイになった
262.世界一の列車
夕方のヤンゴンに到着したオレは予約していた宿へタクシーで向かった。予約していた・・・。予約していた!?
そう、今回は日本から宿を予約してきたのだった。というのも、最近のミャンマーブームにより、ミャンマー全土で宿不足が発生しているという情報があったからだ。
今流行りのチャイナプラスワンでミャンマーへ進出した企業は多く、その出張者が増えている。また、民主化により安全になったという間違った情報により、旅行者も増えていることが原因だ。ちなみに何が間違っているかというと、「安全になった」のではなく、前から「安全だった」が正しい。たしかにミャンマーに住む人からすれば安全になったのかもしれないが、その危険の対象はドロボウや強盗ではなく政府の秘密警察。つまり旅行者にはあまり関係のない世界であって、旅行者目線で見ればむしろ以前の方が安全であったと言えなくもない。
とにかく、宿は不足している。ネットで調べた状況や最近ミャンマーへ行った人の情報からしても、日本から予約していくのが無難だった。そんな状況であったため、ヤンゴンとマンダレーの宿は日本で予約してきたのだ。バスで早朝に到着する予定のバガンでは、「何とか空室が見つかるだろう」という考えだった。
旅を始めてから宿の予約をするということは初めてだ。しかも予約を入れられる宿となると必然的に中級ホテル以上に限られてしまい、出張以外では海外で最高額のホテルに泊まることとなった・・・。と言っても60US$。予約を入れた時点のレートで5000円弱なのだが・・・。
その初めて予約した宿、いやホテルにチェックインし、その後すぐに部屋を出てまたタクシーを拾った。夜のシュエダゴンパゴダへ向かうためだ。
シュエダゴンパゴダはヤンゴンの中心にある丘の上に建つ仏教寺院で、金箔で覆われてキンキラキンに輝いている。夜はライトアップされるのだが、停電している時間がほとんどだった9年前のヤンゴンの夜でも、このシュエダゴンパゴダと、市街地のど真ん中にあるスーレーパゴダだけは黄金に輝いていた。自分たちは暗闇の中でも仏様だけは照らさないと! というミャンマーの人たちの仏教感が感じられる風景だった。
その黄金に輝くシュエダゴンを、9年前のオレは遠くで見ただけだった。実際そこへ行ったのは昼だったからだ。
というわけで今回は夜のシュエダゴンへ行ってみることにした。
夜だというのに参拝の人たちで混雑していた。旅行者の外国人も多かったが、ほとんどは地元の人で、熱心に祈っている姿が印象的だった。これだけ熱心に祈っているのもチベット以外では珍しいのではないか? と思うほどだ。
国が近代化していけば、おのずとこんな人たちも減ってしまうのだろうが、今でもこれだけの人たちがいることに少しほっとした。
そして次の日も、今度は昼のシュエダゴンで祈る人々を飽きずに眺めていた。宗教心のない日本人のオレだからだろうか? いろいろな国へ行っても宗教的な場所には不思議な魅力を感じる。仏教であろうと、イスラム教であろうと、キリスト教であろうと、ヒンドゥー教であろうと。
そんなミャンマー最大の聖地シュエダゴンに、列車の時間までゆっくりしてしまった。今回のヤンゴンは半分以上の時間をここで過ごしたことになる。
次の町バガンへは、列車で移動することにした。当初はバスで行くつもりだったが、意外にも列車のチケットが買えたからだ。
本当は列車で行きたかった。が、オレの乗りたい寝台車となると席が16席しかないために、満席だろうと予想してあきらめていたのだ。宿でさえ予約がなければ部屋がないという状況で、たった16席の寝台席はプラチナシートだと思い込んでいた。しかし鉄道の駅はバスのチケットを買いに行く通り道だ。オレは一応駅に寄って聞いてみることにしたのだが、なんと寝台席は空いていた。しかも4人用コンパートメントの3人目だというではないか。これはうれしい誤算だった。
チケットを買ったオレはシュエダゴンへ向かい、発車までの時間を過ごしていたというわけだ。
時間になり、駅へ。途中でホテルに荷物を取りに行き、列車で食べる食料も買い物して行ったため、時間ギリギリになってしまった。席に案内されると、2人の日本人にあいさつ。3人ともそれぞれ一人旅で、みんなリーマンパッカーだった。
列車は定刻通り午後4:00に発車。ヤンゴンを発ち、バガンへ向う。
それぞれ自己紹介後に旅の話などをしつつ、車窓の牧歌的な風景を楽しみながら、缶ビールを開け、それぞれが買ってきた菓子をひろげる。そして2012年最後の美しい夕日が森に落ちた。
と、そこまでは良かったが・・・、そこからが長かった。暗闇で車窓も何もなく、乗務員もビールを売りに回ってこなくなった。そこでオレたちは・・・、年越しを盛り上がることもなく・・・、寝た!
紹介が遅れたが、オレが乗っているこの列車は「世界一」の称号を与えられた列車で、旅行者には有名だ。何が世界一かって?
「世界一激しく揺れるのです。」
シェイキングトレインとも呼ばれている。
本当に常に揺れているのだが、寝台で横になっていると1時間に1回くらいは大揺れがやってくる。全身が5cmくらいベッドから浮き、硬いベッドに背中を打ち付けて目が覚める。座っていても気を付けていないと首をやられてしまう。縦揺れ、横揺れ、ともに文句なしで世界一! よくも脱線しないものだ・・・。
そんな揺れで起きたのか? あまりに早く寝すぎて起きたのか? おそらく目覚ましで起きたのだが、初日の出が昇る前に全員起床。
間もなくして、草原を走る列車の車窓にオレンジの日が昇った。そしてその美しい光景を見て、ただ漠然とこう思った。
「今年は良い年になるな。」
この列車に乗り合わせたみなが、そう感じたに違いない。そんな力強い太陽だった。
夜のシュエダゴン / 昼のシュエダゴン
263.神のバガン
バガンは世界三大仏教遺跡のひとつにあげられる仏教遺跡群だ。エーヤワーディー川の東岸一帯の乾燥した大地に、パゴダ(仏塔)や寺院が無数に建ちならんでいる。その数は大小合わせて千以上を数えるらしい。
仏教遺跡、仏教聖地のバガンだが、
「バガンといえば夕日。夕日といえばバガン。」
というくらい夕日がキレイなことで有名な場所だ。
列車で一緒になったオレたち3人は、宿を決めると馬車をチャーターしてオールドバガンへ観光に出かけた。オールドバガンとは歴史的な建造物が密集する考古学保護区のことを言う。いくつか有名な寺を見てまわり、最後は上まで登ることができる背の高いパゴダから夕日を見る。これがバガンの定番コースなのだ。
夕日まで少し時間があったが、パゴダに登った。バガンに滞在している外国人観光客のほぼ全員が、数ヶ所しかない夕日絶景スポット目指しているのだ。その混雑はかなりのもので、1時間も前から場所取りが必要になる。が、それだけ価値のある瞬間と言えるだろう。
そしてこの日の夕日も、9年前のオレに与えてくれたのと同じ感動を与えてくれた。いや、旅が日常だった当時のオレと、旅が非日常になった今のオレでは、今のオレの方が感動が大きいのかもしれない。
翌日はもう1日バガン滞在。今度は馬車ではなくレンタサイクルでの観光だ。
その始まりは当然朝日。ちなみにここバガンは、
「バガンといえば朝日。朝日といえばバガン。」
というくらい朝日がキレイなことで有名な場所だ。
どっちだよ!? と言われるかもしれないが、とにかく両方だよ!!
朝のバガンは朝もやに包まれる。前に来た時も時期は違うが同じ光景だったので、おそらく年間を通してこうなのだろう。その朝もやの中に無数の仏塔のシルエットが浮かび、朝日によって創られたその光の境界は時間とともに神々しさを増していく。まさに神が降臨したかのような光景だ。
もしかしたらこの光景を日常的に見ることができるこの土地を、昔の人々が「聖地」として信仰するようになり、バガンがつくられていったのではないか? そしてそこには多くの仏塔こそが、その神々しさを際立たせるものとして最良だった。それが故にこれだけの数の仏塔が建てられた。きっとそうに違いない。つまりバガンが栄えた理由はこの朝日だった! 古の人々は、バガンの朝日に神を見たのだ!!
このオレの新説が考古学の歴史を覆すことになるかもね・・・。
バガンの夕日 / バガンの朝日
264.擦れていたのは・・・
バガンでは、遺跡、夕日、朝日の他にもうひとつ目的があった。
それは村だ。
バガン観光の拠点となる町ニャンウー、遺跡が密集するオールドバガン、旅行者を呼び込むために新しく開発されつつあるニューバガン。この3つのエリアからなるバガンだが、その中間地点には小さな村が点在している。そしてその村々のいくつかには電気も来ておらず、昔ながらの素朴な生活を送る村人たちがいる。そんな情報を得ていたのだ。
自転車に乗り、道なのか何なのか分からないような道を行き、迷いながら数ヶ所の村を訪れた。が、どの村でも最初に迎えてくれたのは番犬だった。犬がオレを外敵と見なし、村へ入れようとしない・・・。
結局ほとんどの村へ入るのを諦めてしまった。それほど危険を感じさせるほどの犬たちだったのだ。
まともに村を見て歩けたのは2つの村だけ。どちらも100年前の日本のような雰囲気は感じられたし、文明とは程遠いような場所ではあったのだが、外国人観光客がエコツアーやボランティアツアーで良く訪れる場所だった・・・。
オレは、外国人などほとんど来ないような場所へ行きたかった。村へ入れば誰もが珍しがって寄ってくるような、そんな村を想像していたのだ。
今回行った村の人たちは「擦れている」とまではいかないが、「外国人慣れ」していて、イマイチ。学校へ行ってもみたが、子供たちですら外国人に対するリアクションは薄かった。
「こうやって外国人が来るようになれば、素朴な田舎の人たちも徐々に変わっていき、そのうち擦れてきてしまうんだよな・・・。」
などと考えていた次の瞬間、あることに気付いた。
「いや、違う・・・。」
「擦れてしまったのは彼らではない・・・、オレだったんだ・・・。」
いくら有名な観光地の近くとは言え、この村には宿はおろか店さえもない、近代文明とは隔絶された小さな村なのだ。普通の日本人だったらここへ来ただけでも「すごい経験をした」ということになるのかもしれない。しかしオレは、外国人に驚かない村の人々を見て、「外国人慣れしているなぁ。」と感じていた。そして、そんなオレこそが「擦れている」ことに気付かされたのだ。
考えてみれば長く旅をしていた頃のオレは、旅の前半と後半でモノの感じ方、考え方がずいぶんと違っていたのは事実。「成長した」部分もあるだろうが、「擦れた」部分も多い。そしてそれは、旅を終えてこうしてリーマンパッカーとなった今でも、リセットされることがない。
「旅を始めた頃の、まだ旅に純粋だったあの頃のオレだったら、この村をどう感じたのだろう?」
そんなことを考えてしまった・・・。
村の風景 / 村の学校にて
265.アマラプラも夕日
バガンからはバスでマンダレーへ移動した。マンダレーは王宮を中心に栄えたかつての都だ。
9年前の旅でも同じルートを同じくバスで移動しているので、今回はエーヤワーディー川を遡るボートに乗りたいとも思った。のんびり風景も楽しみたかった。が、悲しいかな休みの短いリーマンパッカーに時間はない・・・。やはりバスを選んでしまった。
9年前の記録によると、バガンからマンダレーへは7時間かかっている。それが今回は、チケットを買う時に確認すると、5時間という答えが返ってきた。そして実際には・・・、なんと4時間半。しかも途中で1時間弱の昼食休憩をはさんでの時間だ。つまり約半分の時間で移動できるようになったのだ。
その原因は道路。道が格段に良くなっているのだ。しかもこの区間には高速道路まで開通していて、この驚きの差となった。
国の発展もまずはインフラから、というまさにその真っ最中なわけだ。今後インフラがある程度整えば、街はさらに加速度を増しながら近代化していくのだろう。
マンダレーに到着して市内を少し歩いてから、ピックアップトラックを拾ってアマラプラへ向かった。
アマラプラはマンダレーから南へ30分ほどに位置する街で、かつては都が置かれたこともあるのだが、そんなものを感じさせるものは全くないようなのどかな場所だ。湖に架かる木造の橋が有名で、このウーベイン橋は1.2kmという長さがある。本来なら世界一長い木造の橋ということになるのだが、ところどころをコンクリートで補修してしまったため、世界一の座を失ってしまった。ちなみに、世界一はオレの地元、静岡にある蓬莱橋で、長さは約900m。蓬莱橋より300mも長いというのに残念・・・。
そのウーベイン橋が最も美しい瞬間と言われているのが夕暮れ時だ。赤く染まった空を背景に、橋とそこを歩く人々のシルエットが絵になる、というわけ。
マンダレーから来ると橋の西側に着く。橋を渡って夕日と橋が同時に見える東側まで行き、少し休憩していると日が落ち始める。
キレイな夕焼けが湖に映り、橋のシルエットも湖面にシンメトリーを描く。釣りをしていた地元の人たちが魚と竿を手に橋を行く。近くには僧院があるため僧侶の姿も多く、彼らのシルエットがカッコいい。なるほど、たしかに美しい光景だ。ただ・・・、バガンと同じで観光客が多すぎ・・・。場所取りがたいへんです・・・。
アマラプラからマンダレーへはバイクタクシーで帰った。湖沿いののどかな風景を眺めながら北上。徐々に街に入っていくと、屋台や食堂から良い匂いが路上まで溢れ出している。これぞアジアの夕方だ! 暑い昼間は動きを休めていた街が、にわかに活気づく。
オレが好きな時間のひとつだ。
そして夜が来る。ミャンマーといえば生ビールだ! とにかく生ビールが安いし、うまい! ミャンマーのビールは、いくつかの銘柄が世界のコンテストでグランプリに輝いているほど。知る人ぞ知るビール天国なのだ。
日本人3人だったバガンはもちろん、オレひとりになったマンダレーでも毎晩ビール、そしてマンダレー名物の串焼き。これぞアジアの夜だ!
ピックアップに乗り合わせた少女 / 夕日のウーベイン橋
266.マンダレーも夕日
翌日は朝からザガインという街へ向かった。ザガインヒルという丘にはなんと、150以上もの寺が建っている! ザガインはエーヤワーディー川沿いに位置しているため、マンダレーから来ると川を渡る橋からザガインヒルの全景を見ることができる。すごい! まるで丘全体が巨大な寺院かのように寺が林立している。
ところが、丘に登って上から眺めると、逆に寺の密集具合が分かりにくかった。イマイチ迫力不足なので、再度橋からの風景を見ようと橋へ向かったが、歩行者は進入禁止。しょうがなく車の車窓から見るしか方法がなく、写真も満足に撮れなかったのが残念だった。
午後はマンダレーへ戻り、レンタサイクルを借りて市内観光。いくつか寺を見て回り、今度はマンダレーヒル登った。ザガインヒルほどではないが、こちらの丘も同様にいくつもの寺が建っている。ここが王宮に次ぐマンダレーのみどころで、頂上からの景色はすばらしい。山がそびえる東、近代化しつつあり高い建物も増えてきた南、エーヤワーディー川を望む西、延々と田園風景が続く北。どちらを見ていても飽きないし、ここを訪れている地元の人たちを見ていても飽きない。
ただやはり、ここもまた最大の見どころは夕日。ここからの夕日は絶景なのだが、それを9年前に見たオレは、今日は違う場所でサンセットを過ごすことにした。
自転車をこいで西へ走る。規則正しく区画が並んでいる市街地はしだいにその規則性を失い、道路も細くなり迷路のように入り組んでくる。コンクリート造りのビルや商店が多かった市街地と対照的に、粗末な家や小さな市場が目立ちはじめる。
こうして自転車で走っていると、明らかにマンダレーの人の生活レベルが西へ向かうにつれ低下していくのが感じられる。そしてそれはエーヤワーディー川で終点を迎える。つまり、川の河川敷に住む人たちがここの最下層の人たち。
オレは河川敷からの夕日がキレイという話を聞いてここへ来たが、ここのスラムとも呼べる光景も見ておきたかったのだ。
9年前の旅で、エーヤワーディー川の対岸にあるミングォンという村へ行こうとして船着き場まで歩いた。今回と同じようにこの貧しい人たちを目にして、オレはショックを受けた。まだ旅を始めて3ヶ月のオレには、考えさせられることが多い光景だったのだ。そしてミングォンへは行かずにこの周辺を歩き、ここの生活を目に焼き付けた。
そんな光景は9年後の今、いったいどうなっているのだろう? という思いでここへ来たのだ。
「何も変わっていない。」
ミャンマーはもの凄い速度で発展している。最大都市ヤンゴンではその変化も顕著だが、北部のマンダレーではそのスピードも緩やかだ。ただ、緩やかではあるが明らかに変化している。
しかし、ここエーヤワーディー川の河川敷のスラムはどうだろう。9年前と何も変わっていないのだ。国の発展も、街の変化も、底辺までは届いてはいない。ここに変化が現れた時、それが本当の発展なのだろう。
結局今回の旅でオレが見たミャンマーは、「発展の代償に失ってしまうだろうもの」を、まだ失っていなかった。それどころか、地方や農村部にいたっては9年前と何も変わっていないことを知った。それは良い一面もあり、悪い一面もあるのだが、それでもオレは嬉しくなった。オレの好きな国、ミャンマーは、オレの好きなミャンマーだった。
こりゃ、近いうちにまた行くしかないですな!!
エーヤワーディー川のスラム / スラムの子どもたち
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