知ってる人だけ行ける場所
《TRAVEL12》


タイ、ミャンマー
2014/12/28-2015/1/4






281.日本人はまだ知らない


 旅をしていると、こんな場所に出合うことが何回かあった。
『外国人観光客が大勢いるような観光地なのに、日本ではほとんど知られていない。』

 そんな場所では、世界中の観光地において圧倒的にメジャーな存在である日本人の姿を見ることがほとんどない。
 なぜこのような場所が存在するのだろう? なぜこのように極端な現象が起こるのだろう?

 結論はあまりにも簡単で単純。
『ロンリープラネットには載っているけど、地球の歩き方には載っていない。』
 たったそれだけのことなのだ。

 去年の正月に行ったインドのブリンダ―ヴァンもこのような場所で、そこではひとりも日本人に会うことはなかった。別に日本人を避けている訳ではないが、オレはそんな場所に魅力を感じてしまう。
 そしてオレは、今年もそんな場所を旅先に選んだ。
 ミャンマーのパアン。
 おそらくバックパッカーでさえ、ほとんどその場所の存在を知らないであろう、 『知る人ぞ知る観光地』 、いや、ではなかった、 『欧米人なら知っている観光地』。
 簡単に説明すると、街の郊外に田園地帯と湿地帯が広がり、そのド真ん中を大河サルウィン川が流れている。そして聖なる山ズェガビンをはじめとして多くの岩山が生えている・・・。山があるのではなく、生えているのだ!
 まったくの平坦な地形に、突然ニョキッと天を衝くように山が立っている。中国の桂林を想像してもらえば近いのかもしれない。
 とにかく風光明媚な場所で、オレの好きなタイプの観光地だ。

 どうやってオレがこの場所を知ったのか?
 実は日本語ではなく、英語でネット検索をしていた時に偶然見つけたというのが答え。
 あることが知りたくて、日本語での検索ではその答えを見つけられず、英語で検索していたのだ。 

 ミャンマーはここ数年で急速に民主化、近代化している。かつてのミャンマーは 『ほぼ鎖国状態』 と呼ばれるほど閉ざされた国だった。そんなかつてのミャンマーは、陸路での越境を許可していなかった。つまり、お隣のタイからミャンマーへは陸路で国境を越えて行くことはできなかったのだ。正確に言うと、1日だけミャンマーへ行って日帰りで帰ることだけが許されていた。
 ところが、2013年8月にタイとミャンマーの国境が、4ヶ所に限って外国人にも開放されることとなった。バックパッカーにとっては衝撃的とも言えるような、待望の瞬間だった。

 こうなったら行くしかないっしょ! と、タイから陸路で国境を越えミャンマーへ入る旅を計画。
 4ヶ所のうちで、一番観光地が多い国境、タイのメーソートとミャンマーのミャワディーの国境を選んだ。が、ミャワディーから先は険しい山岳地帯。しかも、数年前まで山岳少数民族が独立を求めて政府軍と軍事衝突をしていた地域のため、道路も整備されていない。そんな悪路が理由で、この区域は1日おきに東行きと西行きが入れ替わる一方通行なのだ。

 今のオレは、 『時間はあるが金がないバックパッカー』 ではなく、 『金はあるが時間がないリーマンパッカー』。
 タイからミャンマーへ入った後、ミャワディーから先に進める日はいつなのか? それがこの旅の重要なポイントだった。

 その確実な情報を得るには、最近の旅行者のブログが最も有効。
 といった感じでいろいろと検索しているうちに、前記のようにパアンを偶然知ることとなった。
 それからはパアンの情報を調べれば調べるほど、オレはこの場所に惹かれていき・・・、 未だかつてない大きな期待を持ってミャンマーへと向かうオレだった。

 期待が大きすぎると、ろくなことがない。そんなことは充分に、身をもって知ってはいるのだが・・・・・・。



282.ついに越えた

 ここのところ東南アジアへ来る際には毎回利用している、深夜羽田発、早朝バンコク着の便。今回も早朝のバンコク、スワンナプーム空港へ到着。オレはここである男を探す。空港の無料wifiがうまく利用できなくて、出会うまでお互いに苦労したが、偶然にも前方から歩いてくる彼を発見できた。なんで待ち合わせの場所にいねーのよ・・・。
 空港で合流したのはトモヒロくん。何回も一緒に旅をしている友人だが、今回はスワンナプーム空港から、ドンムアン空港までのほんの束の間の2人旅。
 旅の中で知り合ったのだが、もう10年も前のことだ。この男も懲りずに旅を続けている。今回はオレと同じくミャンマーへ行くが、目的地が違うためにドンムアン空港からは別々の飛行機でミャンマーを目指す。

 心配していた渋滞もなく、バスは時間どおりにドンムアン空港に到着。彼と別れたオレは、タイ北西部の街、メーソートへ向かった。メーソートから国境の川に架かる橋を渡ると、そこはもうミャンマーだ。

 メーソートの空港から直接、国境へ向けてバイクタクシーにまたがった。10分もしないで橋の袂の国境ゲートに到着したが・・・、もの凄い数の人が行列をつくっている。
 何人かに 「列の最後尾はあっちだよ」 などと言われたが、遥か彼方・・・。しかも、この長蛇の列はなかなか進まない。今、列の最後尾に並んだら国境を越えるのは夕方かもしれない。
 みんなガンバってねー! と、オレは列には並ばずにイミグレのカウンターへ。当然、外国人は外国人専用のカウンターがあるのですよ。
 すんなり国境を越えてミャンマー側のミャワディーという街へ入った。ついに開かれた、バックパッカーにとって待望だった、タイ、ミャンマー間の国境。オレはそこをついに越えた! 何年もの間、夢見ていたこの瞬間・・・。なんとも感動と達成感のある越境だった。これはバックパッカーにしか理解できないことなのだろう・・・。
 さて、ここからは乗合タクシーで例の山岳路を越えて行く。今日は西へと進める日なのだ。オレの休みの日程と一方通行の方向が合ってラッキーだった。

 ちなみに、オレも出発前の情報収集に苦労したのでここに情報を書いておきましょうね。
 2014年12月28日はミャワディーからパアン方面への通行が可能な日。ここから計算して、予定を立ててください。偶数か奇数かで考えると31日まである月の翌月は逆転するので注意。地道に数えてください。
 ただ、途中の検問所で話をした軍人によると、1年後には新しい道が完成するとのこと。当然一方通行ではない。これも民族紛争が終結したおかげなのだ。新しい道路が整備されてタイとの間で物や人の出入りが活発になれば、この地域は発展していくだろう。そう考えると、オレは最高のタイミングでここへ来ることができた訳だ。
 発展していないミャンマー。それが見たいのだから。

 パアンへ向かう乗合タクシーはすぐに見つかった。が、すでに4人の客が乗っている。にもかかわらず助手席に座っていた若い男は外国人のオレを助手席に座らせ、自分は後部座席へ。オレが来たばかりに4人は後部座席でギュウギュウになってしまった。それでも道中いろいろと気遣ってくれた彼ら。やはりミャンマーの人たちは優しいなぁ。それとも毎回こんな感じなのかな?

 ミャワディーからパアンは5時間という情報だったが、結果は7時間。噂どおり穴ぼこだらけの悪路で、車がパンクしてタイヤ交換。とてつもない砂埃のため、道中2回の洗車。さらにオレが昼飯を食べずに車に乗ったということを知り、途中で食事休憩もとってくれた。そんなことが理由でプラス2時間かかってしまった。
 が、そのおかげで素晴らしい光景を目にすることができた。
 それは夕暮れのパアンだった。

 パアンはカイン州の州都で、街もそれなりの規模だ。都会とまではいかないが、村という規模ではなく完全に町。しかしその郊外は田園、湿地、岩山、川といった、いわゆる田舎。
 到着が遅れたおかげで、パアンの街からではなく郊外の素晴らしい風景の中での夕暮れを見ることができたのだ。
 大きな岩山につくられた巨大な影の向こうには美しい夕焼け空。岩山の所々からは放射線状に光の筋が伸びていて神々しい。焼き畑の煙は地表近くを横に広がっていて、まるで朝もやのようにも見える。まさに神秘的な風景だった。


越えるのが長年の夢だったタイ、ミャンマーの国境



283.サルウィン川

 何事もなくパアンまで辿りついたし、ついでに素晴らしい光景も目にできた。幸先の良い旅のスタートだ。と気を良くして夕食後に宿へ戻ると、事件が!
 長い話なので超簡略化して説明するが・・・、とにかく 『モンゴル人の若い女の旅行者』 というオレが初めて遭遇する人種の、自分勝手な行動が発端でフランス女が怒り出し・・・。宿のミャンマー人が困り果て・・・、自ら犠牲になったのは人の好い日本人。
 オレはこの日、ベランダで寝ることになってしまった。その方が涼しくて良かったが、虫には困った・・・。
 イヤな思いはしたが、各国の民族性が垣間見れて面白い出来事ではあった。

 今回の旅のメインはパアンだ。今はそのパアンにいる。しかし、パアンの観光は今はしない予定でいる。
 ここから南下してモウラミャインという街へ行き、再びパアンへ戻る。その後はさらに来た道を戻ってミャワディー、メーソート、バンコクとまわる予定。同じ道を往復するのは旅の面白みには欠けるが、一番効率が良いルートだった。時間がないリーマンパッカー、そして体力のないオッサンパッカーのオレにはしかたのない選択なのだ。

 とにかく、パアンの観光は後日として、モウラミャインへ向かう。ボートでサルウィン川下り、なんとも旅行者心をくすぐる移動手段ではないか。バスと比べて時間がかかり、金額も8倍と破格だが、それでもバス1US$にボート8US$。そりゃボート選ぶでしょ!
 翌朝、宿のフロントでボートを申込む。泊まっていたのは SOE BROTHERS GUEST HOUSE という名の、街で一番人気の宿。ツアーや各種移動の手配ができて非常に便利だ。
 出発の午後1時までの間はパプー村とパプー山へ行くことにした。

 パアンの街の西を流れるサルウィン川。その対岸はパアンとは比べ物にならないくらい何もない。
 渡し船で5分、対岸へ到着。ここがパプー村だ。赤土のメインストリート沿いに10数件の民家があるだけの、畑と田んぼと牛の村。村人と同じくらいいるのではないか? というほど僧侶の姿が多く見られるが、村にあるパプー山には僧院があるからだ。そして山頂にはパゴダが建っている。それはいかにもミャンマーらしい風景とも言える。
 かなり急勾配な岩山だが、30分で登ることができるそうだ。

 パアンには多くの欧米人が訪れているが、対岸のパプーにはそれほど来ないようで、村の人々は最高に良い感じで旅行者を迎えてくれる。擦れていないし、笑顔で挨拶してくれる。大人も子どもも。
 船着き場から20分ほど歩いて登山口を見つけた。が、10分も階段を登っていくと道が整備されていない場所に出た。いや、見方によっては大雨で登山道が崩れてしまったようにも見える。なんとかそこから100mほど進んではみたものの、崩れやすい足元に急勾配・・・。これ以上は危険と思って断念した。残念ではあったが山からの景色はそこからでも充分に楽しむことができた。逆光なのが残念ではあったが、やはりここの風景はすばらしい!
 最高に牧歌的なパプー村で時間まで過ごし、パアンに戻って昼食。さぁ川下りだ。

 予定時間を少しだけ遅れてボートは出発。乗っているのはドイツ人夫婦とオレの3人だけだ。客が少ないのは良いが、少なすぎるのもね。しかも夫婦。彼らからしてみればオレが邪魔でしょうねぇ・・・。
 そんなことを考えてしまって最初こそは居心地の悪さを感じたが、そんなものはすぐに吹き飛んだ。
 最高の風景だー!! やっぱここを旅先に選んで正解だった! 本当に素晴らしい!

 最初は両岸に奇岩がボコボコ生えている中を進んでいく。どの岩山にもパゴダや仏像があって、ミャンマーの仏教に対する信仰心の厚さを感じる。
 サルウィン川に架かるパアンで唯一の橋を越えると、川岸に民家が現れる。パプー村同様、大人も子どももボートを見つけると手を振ってくるような純朴な人々ばかりだ。
 しばらく行くと民家はなくなり、小舟に乗った漁師以外に人の姿は見えなくなる。漁師たちもこちらに手を振り、こちらも手を振り返す。
 最初からずっと見えているパアンの象徴、ズェガビン山は見える角度が変わるにつれて山容が大きく変化する。川の両岸に何もない場所までボートが進むと、ズェガビン山は最も美しい姿を見せてくれた。
 ここからしばらくは、遠くにズェガビンが見える以外に何もなくなる。川を下るボートの単調なエンジン音と、心地よい風とが眠気を誘い、それがまた気持ちの良い時間となる。
 まどろみの中のオレは最高の気分だった。うとうとしながらも、脳裏にはっきりと焼き付いた至高の風景・・・。

 再び漁師の姿が見え始め、川岸に工場や大きな船が見えてくる。モウラミャインが近くなると急に雰囲気が変わった。現実離れした桃源郷のような世界から、文明世界に戻ったのだ。そして巨大な橋と大型貨物船の登場がさらにオレを現実に引き戻した。

 それでも前方に見える丘には、巨大な黄金のパゴタがいくつもそびえ建っている。ここはまぎれもなくミャンマー。
 オレはまだ、旅という桃源郷の中にいる。

   
何もないパプー村 / 絶景の川下り



284.モウラミャインとその近郊

 ミャンマー第三の町、モン州の州都でもあるモウラミャイン。
 この街の丘にはいくつもの寺院が建っていて、この丘と、そこから見る夕日がみどころ。という程度の街でしかないが、郊外にはいくつかの観光地がある。
 第二次世界大戦時に日本軍が建設した泰緬鉄道の起点となり、今もその機関車が残るタンビュッザヤ。あまり綺麗ではないらしいが、この周辺では有名なビーチのサッセ。海に突き出た岬に建てられ、満潮時には島のようになるために水中寺院と呼ばれる寺があるチャイッカミ。世界一巨大な涅槃仏のあるウィンセントーヤ。岩の上に岩がのっていて、その落ちそうで落ちない微妙なバランスが奇跡とされ、聖なる岩と崇められているノアラボーパヤー。
 距離的に、オレがここで使える時間的に、ミャンマーの交通事情もふまえると行けるのは2ヶ所。オレはノアラボーパヤーとウィンセントーヤへ行くことにした。

 バイクタクシーを1日チャーターし、まずはノアラボーパヤーへ。
 いかにもミャンマーという光景の中を北へ30分走り、山の麓に到着。ここからはダンプカーの荷台に乗って山を登っていく。のだが・・・。25人集まったら出発するとのこと。人が集まらない場合は11時出発だそうだ。この時点で9時・・・。待っているのはオレと他数人。後からやって来る人も、少しだけ待って諦めて帰ってしまうので、なかなか人が集まらない。
 長く旅をしているとこんなことも珍しくなく、こんな時オレは決まってその辺で子どもたちを捕まえて一緒に遊ぶ。今回も手ごろなガキたちを発見。楽しく時間を潰すことができた。

 結局11時になった。が、出発時間を知っていたのか? 直前に人が増え、最終的にはほぼ満席。おい! バイタクの運ちゃん! これ事前に教えてよ!
 ダンプは山道を爆走し、皆は必死にどこかにしがみついている。子どもは泣き出し、老人は嘔吐。
 11年前の記憶がよみがえる・・・・・・。ミャンマーにはノアラボーパヤーと似た場所がある。やはり巨石が落ちそうで落ちないので、岩の上には仏塔が建てられた。ゴールデンロックと呼ばれ、有名な観光地になっている。ノアラボーよりも有名な場所だ。オレはそこを11年前に訪れた。その時も爆走トラックに、難民船のように詰め込まれて山を登った。
 場所こそ違えど、何も変わっていないのは微笑ましい。

 30分も頂上の寺と岩を観光していると、ダンプが帰るぞー! とクラクションを鳴らす。
 帰りはジェットコースター。またしても悲鳴と嘔吐。

 一旦モウラミャインへ戻り、昼食後今度は南へ向かう。ドライバーはオレが払うからと誘っても一緒にレストランでメシを食わず、一人で安食堂へ行ってしまった。ミャンマーの人はほとんどボルこともしないし、この遠慮がちなところも、シャイなところも、親切なところも、日本人に似ている。だからオレはこの国の人が好きなんだろう。

 南へ30分。ウインセントーヤはまるで仏教のテーマパークだった。
 テーマパーク。つまり、人を集めて金を稼ぐための場所。言ってみれば、ツクリモノ。極論・・・、ニセモノ。ディズニーランドと同類。
 世界一巨大という涅槃仏も、なんのありがたみもない。しかも建設中っておい! 

 オレはそんなウィンセントーヤより、その手前にあった岩山の上に建つパゴダが気になった。
 バイクの後ろに乗りながらもその岩山の写真を撮っていたからだろうか? あるいはウィンセントーヤの観光をあっという間に切り上げたからだろうか? とにかくドライバーは、オレが何も言わなくてもその岩山の登り口まで行き、その階段を指差した。
 登って良いか? 上までどのくらいかかる? 一応英語で聞いてはみたが、このドライバーが英語を話さないことは朝から知っている。彼はただ上を指差す。そしてOK、OKとだけ言った。

 ミャンマーへ来る前、この辺りについてはネットで調べまくった。最近ではミャンマーでもwifiが普及しているので、前の晩も宿でいろいろと情報収集をした。が、ウィンセントーヤの近くにこんなスゴイ場所があることは知らなかった。地球の歩き方はもちろん、ロンリープラネットにも書かれていない。ちなみにドライバーに聞いたところによると、チャタルンパヤーというらしい。
 オレは開拓者にでもなった気分でその急な岩山の階段を登り、頂上の寺へたどり着いた。景色は良い。が、それよりも、この場所に偶然出合うことができたことに気分が良くなった。これもこのドライバーのおかげだ。
 モウラミャインへ帰り、今考えるとかなり多めにチップを渡してドライバーと別れた。

 モウラミャインの最後は夕日。この街で最も有名な寺は、この街で最も夕日が良く見える場所だ。まるで、この街に今日滞在している外国人が全員集まったかのように観光客が集まってきた。そして日が沈むと外国人は誰もいなくなる。
 普通の人は夕日を見て「キレイだね」などと言っているが、オレは夕日が沈んだ後の空の方がキレイだと思う。赤と紫と濃紺と黒が同居する空が好きで、いつも夕日を見に行くと一人最後までその場に残ることになる。この日もそうだった。
 そのうち、黄金の仏塔のライトアップが始まる時間となった。すでに空の色は夜の黒色に近い。その暗闇の中で、黄金に輝く仏塔がひときわ存在感を増している。そんな仏塔が南北に続く丘に点在し、そのどれもが同じ輝きを放つ。またもや幻想的な風景に出合うことができた。

 なんでみんな、これ見ないで帰っちゃうのさ? 周りを見回すと、オレの他に外国人はおらず、地元の参拝者だけだった・・・。

   
ノアラボーパヤー / ライトアップされたパゴタ



285.パアンでの大晦日

 翌朝、今度はバスでパアンへ戻る。
 来るときにボートから見た景色に勝るとも劣らない風景の中をバスは北上。運良くバスの右側の席に座ることができたオレは、聖なる山ズェガビン山をずっと車窓から眺めていた。今年の夏から登山を始めたオレは山に興味を持つようになったが、このズェガビン山はとにかくカッコ良い! 高さは低いが形が良い。地元でも聖なる山とされているのは納得だ。

 2時間でパアンへ到着。今回は事前に下見しておいた、少し高い宿に決めた。15US$でテレビ、エアコン付き。部屋からの景色もなかなかだ。オーナーも奥さんも英語がほとんどできないのが問題と言えば問題だったが、奥さんは勢いとノリだけで旅行者たちと会話していた。日本で例えると大阪のおばちゃん風だ。
 そのおばちゃんが、やはり勢いだけでオレをツアーに誘ってきた・・・。

 パアンには見どころとなる寺、山、洞窟などが広範囲に点在している。そのため、ツアーに参加しての観光が一般的になっているようだ。しかしオレは、今までも多くの場合で自力での観光を選んできた。それがオレのスタイルだし、それこそが旅で一番面白い部分だと考えているからだ。
 オレは行きたいところを事前にピックアップしていた。地図で位置と距離から考え、だいたいの予定も立てていた。ミャワディーから来た時、モウラミャインへの往復の道すがら、実際の距離感もなんとなくつかめた。
 よしっ! かなり大変そうだけど、なんとか行けそうだ。すべてチャリでまわるぞーっ!!
 おばちゃんのツアーの勧誘を断り、オレはレンタサイクルでパアンを見てまわることにした。行きたい所をすべてまわるのに2日かかり、一番遠くにあるのは30kmほど離れている。しかし、道路は思ったよりしっかりしているし、街の郊外はド田舎なので道が少なく迷う心配もなさそう。外国人旅行者用に英語の標識もちゃんとある。そしてなにより決め手だったのは、この宿のレンタサイクルが日本製のまだ新しいマウンテンバイクだったからだ。
 これまでミャンマーでレンタサイクルを借りたことは何回もあるが、同じく何回もパンクを経験している。どれもが古びたママチャリ風だった。でもこのマウンテンバイクなら問題ない!
 ま、今日1日走ってみて、無理そうなら明日は他の方法を考えれば良い。

 そんな訳でマウンテンバイクを借りてオレは走り出す。
 街からサルウィン川沿いに南下すると、20分くらいで田園地帯に出た。
 あまりにすばらしい風景の連続で、写真を撮るために自転車を止めることが多い。田園、用水路を泳ぐカモ、聖山ズェガビン、名もなき岩山、そこに建つ寺院、そしてミャンマーの人々・・・。そのためなかなか前に進まないが、これが自転車旅の良いところ。
 さらに南下し、パアンで唯一のサルウィン川に架かる橋を渡り対岸へ。しばらく走るとある標識が目に飛び込んできた。
『AH1』

 今回の旅の目的地パアンと同じく日本での認知度は低いが、実はアジアの東の端、日本の東京から西の端、トルコのイスタンブールまでの区間が1本の道路で結ばれている。福岡から釜山の区間はフェリーを使うことになるが、この道がアジアハイウェイと呼ばれている。AH1は、アジアハイウェイ1号線だ。
 現状、韓国から北朝鮮、北朝鮮から中国、ミャンマーからインドの3区間で政治的な理由から通行ができないが、いつの日かこの道を通って東京からイスタンブールまで行ってみたいものだ。噂によるとミャンマーからインドの区間は開放に向けて準備が進められているそうなので、あとは北朝鮮次第となる。
 考えてみればタイからミャンマーの区間が解放されたのも1年半前のこと。オレはその道を通って来た。少しずつだが、時代は動いているのだ。

 AH1をしばらく走って左折、さらに南へ向かう。最初の目的地はコーグン洞窟寺院だ。
 もともと、のどかな田園地帯を走っていたが、AH1を左折したあたりからは本格的に何もない、『超』 がつくようなド田舎の道になる。腹が減ってきたが、食堂はおろか、喫茶店も雑貨屋もあるわけがない! という雰囲気に・・・、と思った瞬間に目を疑うようなものを発見。なんとこんな場所に 『タイフードレストラン』 と、真新しいキレイな看板が立っている。
 看板の矢印に誘導され、小さな村へ入っていくと・・・、なんとも場違いな、オシャレなレストランが出現した。
 昼食を食べながら店のオーナーと話をした。彼はマレーシア出身のビルマ人。奥さんはタイ人。近年民主化が進み、今まで閉ざされていた国境もオープンしたこのパアンに、ビジネスチャンスがあると考えたのだそうだ。マレーシアからパアンへ移ってきたのは1年前という話だった。このレストランも営業こそしてはいるが、まだ完成はしていなかった。
 オレの考えたとおりだった。このレストランが建ったように、今後このパアンという観光地も急速に変化してしまうだろう。そういえば市街地にも真新しく、地図にも載っていないゲストハウスを2件見かけた。
 今年の旅にここを選んで正解だった。まだ完全に観光地化されていないこのタイミングで、ここへ来ることができたのは本当に良かった。

 そんなこんなでコーグン洞窟寺院に到着。岩山に大きく口を開けた洞窟の内外に、無数のブッダの像が掘り込まれている。これだけの数が並んでいると、少し気持ちが悪いくらいに無数の像だ。なかなか凄い光景。ミャンマーの信仰心の厚さを感じられる場所だ。
 30分も見てまわって、再び自転車を漕ぎ出す。
 来た道をサルウィン川の東岸まで戻ってそこから南下、ズェガビン山が近づいてくる。この山は見る角度によってかなり表情が変化するが、そのズェガビンが最もカッコ良く見えるあたりに寺が建っている。この寺が次の目的地で、パアン観光のメイン。チャウッカラパヤーだ。
 この寺は小さな岩山の上に建っている。いや、小さな岩山というより、大きな岩と表現した方が良いかもしれない。この岩は地面に刺さっている部分より、上の方が大きい。つくしんぼのような形だ。こんな奇怪な岩が、偶然にも聖なる山ズェガビンが最も美しい形状に見える場所にあるのはやはり奇跡ではないか。・・・と思うのはオレだけだったりして・・・。
 この寺の周囲には人口湖が造られ、なんともすばらしい景色を作り出している。奇岩、その上に建つ黄金の仏塔、周囲の湖、そしてズェガビン。絶妙なバランスの風景だ。
 この景色が気に入り、2時間ほど滞在したオレ。次はさらにズェガビンの懐まで走る。

 ルンビニウィンという名の、仏像がこれでもかというほど立ち並んでいる公園と言おうか、仏教テーマパークと言おうか、あるいは寺なのか? とにかくそんな場所の中を通る一本道を抜けると登山口へ出た。
 ここから2時間で山頂まで登れるらしい。
 オレはここに登りたいと思っていた。明日、元旦に登るつもりでいた。が、いろいろと考えると時間と体力がない・・・。バスやタクシーでひょいっと来れる交通環境ではないし、レンタサイクルで来るには体力的にキツすぎる。かと言って今から登るのでは下山までに日が落ちてしまう。
 今回はズェガビン登山は諦めることにした。明日は他にも行きたい場所がいくつもあるし、そちらを優先したい。

 登山口から宿まで、自転車で帰る。疲れた・・・。明日も自転車で観光するつもりだったが、とてもじゃない・・・。38才の体力のなさをナメていた・・・。

   
壁に無数の仏像が彫られたコーグン洞窟 / 奇岩の上に建つチャウッカラパヤーと聖なるズェガビン山



286.パアンでの元旦

 今日は元旦だ。
 昨日の夜は花火が上がったくらいで、特に盛り上がるわけでもなかったが、これが東南アジアの年越し。どちらかと言うと西暦の正月ではなく、タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマーなどは仏教の暦により4月の正月を盛大に祝う。

 昨日に引き続き、今日もパアンの郊外を何ヶ所か観光してまわる。
 最初はレンタサイクルでと考えていたが、やはり昨日の体力消耗度から考えるとやめておいた方が無難そうだった。レンタバイクという手もあるが、オレは日本でも原付に乗っていないし、道も悪く、右側通行のミャンマーを走るのは危険そうだった。実際、宿のバイクを少しだけ貸りて運転させてもらったが・・・、ヤバそうと判断。
 オーナーの奥さんに
「やっぱ危ないから止めとく。」
 と伝えると、
「それならこの子が運転手をするよ。」
 と、宿の従業員の運転で1日バイクを借りることになった。レンタバイクが1日、7US$。運転手付きで10US$。得した気分だ。

 最初に行ったのはコウカッタン洞窟。ここもやはり洞窟内部は寺院になっており、パアン近郊にいくつもある洞窟のうち観光客が一番多く訪れる洞窟らしい。が、一番観光客が多いのは、 「一番良い場所」 というのが理由ではなく、おそらく 「パアンの街から一番近い」 というのが理由ではないだろうか? と思われるような平凡な内容だった。
 オレも最初から、この洞窟を見たくてここへ来た訳ではなかった。洞窟はついでに寄っただけ。オレが行きたかったのは、この洞窟の奥にあるラカナッという小さな村だ。情報によると 『水田が広がる桃源郷のような場所』 だそうだ。桃源郷パアンの中の桃源郷。期待できそう。

 コウカッタン洞窟から細い道を進むと、噂通りの水田地帯に出た。その水田に1本の橋が架けられている。このコンクリートでできた細い橋を渡ると、そこがラカナッ村だ。
 村へ入り少し走ると、再び視界が開けた。今度はさらに広い水田地帯に出たのだ。そしてまた同じように、1本の橋が続いている。この橋はさらに細く、そして長い。
 この細い橋でバイクの2人乗りは危険。バイクを降りて歩いて渡る。そして橋を渡りきって振り返る。どこまでも続く田園、点在するヤシの木。癒される風景だ。
 が、どこか物足りない・・・。人が圧倒的に少ないからだ。橋で一人の僧侶とすれ違い、遠くに農作業をしている女性が2人見えただけで、藁葺の粗末な家が多い村の風景の中に人影はない。村の学校にも子どもは見えず・・・。
 元旦というのが理由なのだろうか? とにかく寂しい・・・。
 もう少しこの景色を楽しみたい気もしたが、これでは・・・。

 気を取り直してバイクを南に走らせる。
 次に向かうのはサダァン洞窟。パアンに無数にある洞窟の中で、オレが一番楽しみにしていた場所だ。

 街から20km以上も距離があるため、周辺はかなりの田舎だ。途中から20分ほどは、未舗装の赤土の道を走っていくことになる。乾季の乾燥しきった赤土。そのタチの悪さは、カンボジア、ラオス、ミャンマーでこれまでにも体験済み。しかもバイクの後ろというのは最悪だということも知っている。2003年のミャンマーでは砂埃でカメラも壊れたが・・・。
 なんと今回もカメラの調子が悪くなってしまった! そりゃ、カメラが茶色くなるほどの砂埃だからね・・・。

 そんな中を走ってサダァン洞窟へ到着した。やはり他と比べて明らかに観光客が多い。
 岩山に大きく口を開けた洞窟へ入ると、やはり他の洞窟と同じく仏像が並んでいたり、壁に仏像が彫られていたりする。ここまでは他と大差ない。サダァンが面白いのはここからだ。
 この洞窟は岩山を貫いていて、そのまま奥へと進んでいくと山の反対側に出ることができる。そしてそこには・・・、秘境と表現しても過言ではないような隠された絶景が待っているのだ!
 言葉のとおり、まさにその場所は隠されている。北と西を湖、東と南を岩山が取り囲んでいて、船で来るか、洞窟を抜けてくるかしないと、この場所へは来ることができないのだ。手つかずの絶景!
 南側の洞窟を抜けてオレはここまで来た。北と西には湖がひろがり、東には絶壁の岩山がそびえたっている。が、その岩山にも洞窟があり、やはり反対側まで抜けているのだ。しかもそれは湖とつながった水路になっている。つまり、ここから小舟に乗り、小舟で東の岩山を突き抜けて反対側の水田地帯まで行ける。景色が良いだけではなく、なんともおもしろい場所だ。

 小舟に乗り湖へと漕ぎ出す。知られざる絶景の中を、東の岸壁目指して。
 5分もすると岸壁に到着。次に、この岸壁に開いた洞窟の中に小舟は入っていく。洞窟へ入ると出口の光がそれほど遠くない場所に見えた。おそらく200mくらい。
 しかし・・・、岩山を東西に貫いているこの洞窟は風の通り道になっていた。もの凄い風が向かい風となっている状態に、船頭も苦笑いを浮かべながらも必死になって櫓を動かしている。風と船頭との勝負・・・。勝ったのはなんと風だった・・・。
 なんとオレの乗った小舟は風に押し戻され、洞窟の入り口まで戻されてしまったのだ。船頭はしばらく休憩をしてから、風に再び勝負を挑んだ。彼は必死だった。外国人の客を乗せていることもあり、本気で焦っている感じだった。なんせ船が進まないのだから・・・。しかも強風は大波を起こし、小舟は揺れ始めた。同乗の欧米人も不安げな顔に変わったのが見てとれた。
 結局、船を壁際に寄せ、欧米人のひとり、オレ、船頭の3人で壁を手で押しながら進むことにした。

 20分ほど風と格闘して、ようやく洞窟を抜けた。すると不思議なことに、洞窟の中ではあれほど吹き荒れていた風が、外ではほとんど感じられない。地形のいたずらなのだろうか? とすると・・・、この船頭は毎日この格闘を?
 とにかく小舟は穏やかな水田地帯へ出た。ここもまた絶景! どこまでも続く田園、ヤシの木と、遠くに点在する岩山。そしてそれらを何倍も美しくしてくれる青空と日の光。おそらく千年以上前から変わらない風景。
 本当に素晴らしい。

 水深の深い水田から、日本でも良く見るような水深の浅い水田に入ってくると、小舟は狭い用水路を進んでいった。洞窟で抜けてきた岩山と平行に水路を行くと、上手いこと一番最初の洞窟の入り口へと出た。これでこの岩山を一周し、ここの観光は終わり、ということになる。なんとも面白い場所だった。

 パアンには他にもいくつもの洞窟寺院があり、ここからの通り道にもいくつか行けそうな場所もあったが、オレはこのまま街まで帰ることにした。風景には大満足した。今度は人に触れたくなったのだ。宿へ戻って一休みした後、市場へ出かけた。
 市場でいろいろな人に声をかけながら写真を撮らせてもらったり、買い物をしたりして過ごした。これも観光地の観光と同じくらい、旅をする大きな理由の一つ。現地の文化に触れ、現地に溶け込む。完全に溶け込むのは無理なことは解っている。少しだけでもそんな気分になれれば、それで楽しいのだ。

 と、市場を一通り歩いて駐車場へ抜けると、一人のバイタクに声をかけられた。
「チャウッカラに行かないか?」

 チャウッカラへは昨日行っていた。が、オレはもう一度行っても良いかなと思っていた。なぜなら、チャウッカラの夕日の写真を見てカッコ良いと思っていたからだった。その場所へその時間に行ってみたかった。
 ちょうど良く声をかけられたので値段交渉をしてみると、良心的な値段まで値を下げてくれた。
 こりゃ行くしかないでしょ〜!

 結局、夕日は期待したような良い撮影ポイントを見つけられず、イマイチになってしまったが、このドライバーに出会えてここへ来ることができただけでも良しとしよう。旅なんて偶然の出会いから自然に流れていくものなのだ。そしてそれはその時点での自分の心が映し出される、言わば鏡のようなもの。心の状態が悪いと、良い出会いはできない。
 今回は・・・、今のところ、かなり好調です!

   
サダァン洞窟を抜けると絶景が / さらに湖のトンネルの先にも絶景



287.友の依頼

 翌朝、宿に迎えの車が来ることになっていた。事前にチケットを買ってあった、ミャワディ行きの車だ。つまりタイへ帰る車。
 時間を少し過ぎて車が到着。オレが一人目だったが、他2件の宿に寄って3人の欧米人を乗せると、車はあの悪路の山道をタイ国境目指して走り出した。しかし! 5日前に来た時と、今日帰る時と、決定的に違うことがひとつある。車だ!
 来るときはオンボロの、エアコンは効かず、窓を閉めていても砂埃が車内に入ってくるような、オレが子どもの頃だろうなと記憶している型のカローラだった。「ミャンマーの田舎だし、どれもこんなでしょ」とその時は思っていたが、今日オレを迎えに来た車はなんだ! 同じカローラだが、なんとフロントガラスのシールを見ると、まだ車検が残っているような真新しい中古車ではないか! 海外で日本の中古車はごく当たり前に見てきたが、おそらく車検が切れていないものは初めてだ。そればかりではなく、お守りも、芳香剤も、そのまま。驚くことに前のユーザーだろうか? 日本の名刺までも残っていて、メモ帳になって活躍していた。ここまで日本からそのまま持ってきましたという感じだと、逆に訳アリな車なのかもしれない・・・。
 この名刺のアドレスにメールして、あなたの車がミャンマーで活躍していますよ。なんて送ったらおもしろいかもな。などと考えているうちに、新品中古車は好調に走ってタイとの国境へ到着した。

 来るときは素通りしたミャワディの街をひと回り歩いてから、オレは国境に架かる橋を渡ってタイへ戻った。バイタクを拾い、事前に決めていた宿まで走らせる。
 チェックインして少しだけ休んでから街へ出て、何人かのバイタクに声をかけた。
「この場所へ行きたいんだけど、知ってる?」
 そう言ってオレはゴミ山の写真を見せた。

 何人目だったか正確に記憶していないが、その場所を知っている運転手をようやく見つけてバイタクの後ろに乗り込んだ。
 オレが行きたいのは、この街にあるゴミ山だった。そこにはゴミの中から資源を探し出す仕事や、ゴミの分別をする仕事をしている人たちがいる。過酷な環境での仕事なのは言うまでもなく、そして彼らはそのゴミ山の中に村を作って暮らしているのだ。
 彼らはミャンマーから来た難民だ。

 世界の途上国の多くにこのような場所がある。先進国のようにゴミをうまく処分できないため、集められた街のゴミは郊外の集積場に集められ、山と積まれる。そしてそこで働く労働力が必要となるのだが、過酷な、不衛生なこの仕事をするのは決まって弱い立場の人たち。貧困層、子供、女性、老人、難民・・・。
 ここメーソートのゴミ山も例外ではなく、隣国ミャンマーからの難民たちが働いている。
 おそらく軍事政権下の政府軍と、迫害されてきた少数民族との争乱を逃れてきた人たちだろう。ここに住んでいるのはカヤ族という少数民族だった。

 街から45分ほど走り、住宅街を抜け、農作地を越え、何もない荒地を過ぎるとゴミ山が現れた。オレはバイクを降り、近くにいた親子に声をかけた。オレと同年代と思われる男女と、小学生くらいの女の子だった。
 英語が通じるはずもないと思ったオレは、何とかカタコトのタイ語で会話を試みる。
「これを見てください。」
「この人たちを知っていますか?」
 オレが見せたのは、このゴミ山で撮られた、このゴミ山で働く、このゴミ山に住んでいる人たちの写真だった。その多くは子どもたちで、写真は5年前に撮られたものだ。撮ったのはトモヒロくん。

 彼は以前、カンボジアやタイに通って、ここのように社会問題となっている人たちの写真を撮っていた。
 今回オレがメーソートへ行くということで、これらの写真を託されたのだった。
「メーソートの子どもたちに渡してきてくれ!」

 最初に声をかけた親子は、写真を一枚一枚確認しながら見てくれた。オレのタイ語力ではうまく会話できなかったが、ジェスチャーとタイ語の本でこんな会話をした(つもり)。
「この子は向こうに住んでいる。」
「渡してくれますか?」
「もちろん!」
「この子、この子、この子も向こうの方に住んでいる。」
「あっちですか?」
「まっすぐ行って、曲がって、曲がって、まっすぐ。」

 その 『曲がって曲がってまっすぐ』 へ行ってみると、ゴミ山のはずれに村があった。村と言っても、家とは言えないような本当に粗末な、雨をしのげるだけ程度の家がほとんど。そんな村の最初の家にいたオバチャンに声をかけた。
 写真を見せると村の数人が集まってきて、 「ああでもないこうでもない」 と言いながら、写真の仕分けが始まった。何枚かは通りがかりの人が 「渡してやる」 とか、 「兄弟だ」 とか言いながら持って行った。中には本人も何人か来て、オレは現在の彼らの写真を撮らせてもらったりしていた。

 そして数分後、なんとも意外な結果が出た。
 なんと1人を除いて、全員を知っていたのだ!
 が・・・、その1人の子は、亡くなってしまったという話だった。
「あっちの方に家がある。」
 と言うので、オレはその子の写真1枚だけを持ってその子の家へ連れて行ってもらった。

 中から出てきたのは若い女性。母親かと思ったが、そうではなかった。母親はもともといなかったらしい。この子が死んでしまったので、父親はミャンマーへ帰ったそうだ。その家に彼女らは住んでいた。
 難民なのに帰ることができるのだろうか? 良く理解できなかったが、ここまでの意思疎通が限界だった。

 しばらく村の子どもらの写真を撮って遊んだあと、最初の家へ戻った。写真を皆に配って歩くつもりだった。が、帰ってみると写真はすべて無くなっていた・・・。全部、本人や家族、近所の人などが持って行ったそうだ。
 少しだけ 「怪しいかも」 と思ってしまったのが正直なところだが、写真が村の皆に渡ってくれればそれでオレの目的は達成だ。
 いや、オレのではなくトモヒロくんの。


友から託された写真たち



288.類は友を呼ぶ

 ゴミ山から街へ戻ったオレは、夕食を食べる店を探して歩いていた。
 メニューを見ると少し高かったが、この辺りでは比較的オシャレな店を選んだ。リーマンパッカーならではの選択。かつてのオレだったら見向きもしなかっただろう。
 オレがひとりで食事をしていると、店員の若い男が話しかけてきた。聞くと彼は大学生だということだったが、なんとパアン出身のカレン族という。偶然だったが、オレもそのパアンから来たのだ。たったの数時間前、オレはゴミ山にいた。タイにいるミャンマーの難民を見てきたが、彼は全く違った。こんなオシャレな店で働いていて、見た目も最近のイケメン風。ミャンマー出身でタイの大学に通っている。
 分からなくなってきた・・・。
 それにしてもいろいろな人がいて、いろいろな事情があるものだ。

 この店ではwifiが使えたため、通訳アプリでいつも以上に意思疎通ができた。まったく凄い時代だ・・・。パアンの話や、カレン族の話、難民の話、日本の話に、学校の話、メーソートの話・・・、会話は盛り上がった。しまいには店が終わった後にディスコへ行こうと誘われるくらいだった。が、そのうち彼は店の先輩らしき店員に怒られてしまった。仕事中だもんな・・・。悪いことをした。
 結局ディスコへは行かず、オレは宿へ戻った。疲れていたということもあったが、それ以上にこの日の昼間目にしてきた村のことが頭に浮かび、そんな気にはなれなかった。

 翌朝、宿を出ようと身支度をしていると、隣の部屋の女性が話しかけてきた。日本人のオバチャンだった。
 彼女はここメーソートに毎年のように通い、ミャンマーの難民キャンプの写真を撮っているという話だった。旅をしていると写真家と知り合いになることが何回かあったが、ここでも。
 彼女の写真集を見せてもらい、活動の話を聞いた。写真集を出していたり、賞を取っていたり、写真展も有名な会場で開催していたりと、かなりの人物のように感じられた。
 そんなオバチャンと話をしているうち、こんなことになった。
「オレも昨日はゴミ山の難民村に行ってきたんですよ。」
「そんなのがあるんですか! 今から行ってきますので、場所を教えてください!!」
「丁度、今日の予定がなくなってヒマだったんですよ〜!」
「バイタクになんて言えば良いの?」
 マシンガンのようにとよく言うが、まさのそんな感じの人だった。オレにも一応予定はあったが、「これも旅だ」 という感じになってきた。これも出会いだと。それに、もう一度行ってみたい気にもなってきたのだった。
「良かったら一緒に行きましょうか?」

『類は友よ呼ぶ』 旅をしているとまさにそう感じる出会いが多い。旅人のためにあるような言葉だ。

 そんなこんなで、再びオレはゴミ山の村へやって来た。
 オバチャンはずけずけと家にまで上がって写真を撮っている。オレは昨日も会った子どもたちと、日本から持ってきた折り紙で遊んでいた。ただ貧しいというだけで、ただ難民というだけで、他の子どもたちと何の変りもないカワイイ子どもたちだった。
 英語を話せる村人が全くいなく、オレのタイ語もほぼ役に立たない。wifiがない村ではiphoneの翻訳アプリも使えない。もっとコミュニケーションをとりたかった。
 昨日の夜、宿に帰った後ネットで調べてみたが、彼らの正体は良くわからなかった。彼らは何者なのか? なぜここへ来たのだろうか? どんなことを思い、ここで生活しているのだろう? 当時のミャンマーはここより酷い状況だったのだろうか?

 いやそんなことより・・・、なんでオレはここにいるんだろう???

 トモヒロくんに感謝しよう。良い体験ができた。

   
村の少女 / 子どもたちと折り紙



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