ふたつの聖地
《TRAVEL19》
インド、タイ 2019/4/28-5/6
320.インド
オレの会社の正月休みは6日間と決まっている。毎年海外に来ているが、6日だと遠くへは行けず、毎回東南アジアへの旅をしている。
ところが、何年かおきに土日のタイミングがうまく合い、8連休になることがある。そんな時にはインドや、ネパールなど、少し遠くまで足を延ばすのだ。
そして今回は、元号の変わるタイミングのGWが10連休! オレの会社は9連休しかないが、それでもこんなチャンスはもう二度とない。
最初はキューバへ行きたいと思っていたが、航空券が高すぎる・・・。となるとパキスタンのフンザやインド北部のレーあたりが次の候補だったが、なんとなく気分的に違う場所を選んだ。
今回オレが行くことにしたのは、インド。バラナシとブッダガヤが目的地だ。
旅の業界では飽きるほど聞く言葉だが、
「インドで世界観が変わる」
「インドには呼ばれた人間しか行くことができない」
「人生に迷ったらインドへ行け」
「インドにはすべての答えがある」
などなど・・・。
先入観や、固定観念によるところも大きいかもしれないが、オレがインドへ行った過去の何回かの旅も、オレ自身が悩みをかかえていたことが多く、そしてやはりインドがその答えを導き出してくれた。
インドを知らない人はそんなことがある訳ないと思うだろうが、本当のことなのだ。インドはそんな不思議な国なのだ。
と、言いたいところだが、オレは自分で解っている。そんなインドが大好きなオレが、自分でも知らぬ間に、自己暗示をかけてしまっているだけのこと。おそらくインドで何かを感じた旅人は、みんなそうなのだと思う。
インドでは何かを得るはずだ。インドでは何かを感じるはずだ。
そんな自己暗示で勝手なことを感じ取るだけ・・・。
でも・・・、それでいいんです! それがインドなのです!!
今回、気分的にバラナシとブッダガヤを選択したと冒頭に書いたが、実は・・・、オレは去年の年末あたりから、精神的にあまり良くない状態にあるのです・・・。大きな問題をかかえてしまったのです・・・。
インドに救いを求めたい気分だったのだ・・・。それに最もふさわしい場所。それがインドで最もインドな場所であるヒンドゥー教の聖地バラナシと、ブッダが悟りをひらいた地で、かつてオレもオレなりの悟りをひらいたブッダガヤ。この2ヶ所という訳だ。
しかし・・・、インドの魔力なのだろうか、なんとGW直前にもうひとつの大きな問題が生まれてしまった・・・。正直、心が折れる寸前の状態でインドへ行くことになってしまったのだ。
この日記はネット上で公開するので、どちらの問題も具体的に書くことはできないが、どちらもオレの人生の中で重大な問題。
今回のオレも、悩みの答えをインドから探り出す旅になってしまった・・・。
インドで完全に心を折られる、という恐怖も少しだけ持ちながら・・・。
321.バラナシ
オレの旅では定番パターンになっているのだが、深夜日本を発つ飛行機に乗り、早朝のバンコクに降り立つ。そこから目的地への飛行機に乗り換えるのだ。時間を一番有効に使える移動方法。
今回もバンコクでバラナシ行きの飛行機に乗り、目的地までダイレクトに入ることができた。
バラナシの空港から市街地までは乗合タクシーで向かう。街が近くなるにつれ熱気と喧騒の、いつものインドの風景が見られるようになった。そして渋滞にハマる。お決まりのようにイラつくドライバー。そしてインドあるある。イラついて運転が荒くなり、事故ってケンカ。何も変わっていない・・・。
その悪い 『気』 がオレにも伝播してしまったのか? 目的地でタクシーを降りたオレにインドの洗礼が!
降りる際にスマホのストラップが何かにひっかかり、スマホが道路に落ちてしまったではないか・・・。そして、そこには当然のように、アレがあった。アレです、アレ。インドに入ってから、未だかつてアレを踏まずにインドを出たことがない。アレ。しかもフレッシュな柔らかいヤツ・・・。
スマホは牛のフンの深くまで突き刺さり・・・。もういいか。とにかくたいへんだった・・・。
逆にこの最高のクッションがなければ割れて壊れていた、ツイていた、と思うことにしよう。
オレがタクシーを降りたのは、ゴードリヤー交差点。バラナシに来る旅行者のほとんどが、まず最初に目指す場所だ。車で入ることができる終着点の場所というのがその理由。ガンジス川沿いのツーリストエリアへ向かうには、ここから先は徒歩で行かなければならない。
10分も歩くとガートに出た。ガートとはガンジス川の川岸に設けられた階段状のもので、様々なガートがある。水浴びをするガート、祈りを捧げるガート、船に乗るためのガート、洗濯をするガート、死体を焼くガートなどなど。
この無数のガートこそが、バラナシをバラナシたらしめているものなのだ。
宿にチェックインした後、少し街をぶらつき、昼飯を食べてからそのガートの並ぶガンジスを歩いた。
早速、声を掛けられる。
「ボートに乗らないか?」
100mも歩かずに、次の声が。
「コンニチワ、ニホンジン?」
さらに50m。
「うちの店を見て行ってくれ。とても近いから。ついてきて。」
「火葬場ミル?」
「ワタシハニホンニスンデイマシタ」
「オミヤゲ! ミルダケタダ!」
声を掛けてくるインド人たちの90%は、詐欺師やボッタクリ商売人などで、いわゆる真っ当な日本人の感覚で言うところの、悪人たち。
しかし彼らの存在は、オレたちインド大好きなバックパッカーからすれば、インドの旅の醍醐味でもあり、インドやインド人の魅力でもあり、大げさに言うとインドのすべてでもあり、少しおかしな表現をするのであれば、自分自身を写す鏡でもある。
前回インドに来たのは5年前。オレはあまりインド人から声を掛けられなかった。インド人たちがおとなしくなってしまったと心配になっていた。旅仲間の何人かも、最近のインド人たちを同じように感じていたようだった。
だが、ここバラナシのインド人たちは昔のまま、とまではいかないが、それなりに声を掛けてきた。
ヤツらはまだ健在だ。オレの好きなインド人たちは、まだ滅んではいない。
とは言っても、オレはあえて、声を掛けられるようにふるまっていたのだが・・・。
彼らはプロだ。プロ中のプロと言っても良い。彼らは 『数撃ちゃ当たる』 ではなく、可能性が少しでも高い標的を、実に的確に見極めて声を掛けているのだ。つまり、騙しやすい旅の初心者や短期の旅行者を、見た目だけで認識できる。
それはオレ自身が身をもって体感していることで、インドに初めて来た時期と、インドに慣れてきた時期とでは、声を掛けてくるインド人の数が明らかに違っていたのだ。
今回はわざとキレイな服を着て、カメラを持ち、ガイドブック片手に、辺りをキョロキョロしながら歩いた。効果はてきめん。
初めてインドに来た時のように、次々に声を掛けられる。それが楽しい。バカな遊びだとは思うが、そんなことをして半日を過ごした。
オレが何をしたかったのか? それは、昔を懐かしみたかったから。原点に戻りたかったから。インドを楽しみたかったから。インドを感じたかったから。旅をしたかったから。
そして、そこに答えを求めていたから・・・。
その答え。
そんなもの・・・、簡単に見つかる訳がない・・・。
カーストの頂点に立つバラモン / カオスなバラナシのガート
322.やっぱりバラナシ
バラナシの夜といえばプジャーだ。バラモンたちがガンガの女神に祈りを捧げる儀式で、宗教的な儀式であるとともに、観光客を集めるためのものでもある。か、どうかは定かではないが、オレは、いや、多くの旅行者はそう思っている。
つまり、聖なるものであり、また俗なるものでもある。
この聖と俗の共存こそがバラナシの魅力なのだ。
プジャーを見るために階段状になったガートに腰をおろし、儀式が始まるのを待つ。階段が良い具合に観客席になっているのだ。
待っている間、いろいろな人が外国人であるオレに声を掛けてきて退屈はしなかった。当然のように現れる物売り、国内旅行で来たのであろう家族連れ、欧米人の旅行者、隣町から来た先生と生徒、昼に仲良くなったマッサージ師、外国人が珍しくてしょうがない少年・・・。
こんな俗な空間のすぐ先には、バラモンたちが今まさに儀式を始めようとしている聖なる空間が存在している。
お経の心地よい響きと、音楽、楽器の音、日が暮れて暗くなりつつある会場を幻想的に照らす電飾と炎、そしてそれらの神秘性をさらに高めるお香の匂いと、そこからあがる白煙。
儀式が進むにつれ、聖がオレの心の中にひろがっていく・・・。
が、ふと気づいて辺りを見回すと、インド人も外国人もスマホで写真や動画を撮っている。あっという間に俗に支配されるオレ。そしてオレもその一人となった。
翌日も、朝からガートを西へ東へと歩いた。
今日は少しだけ小汚い、いや、バックパッカー風の服装で、ガイドブックも持っていないため、面白いくらいに声を掛けられる回数が減った。今日は一人になって、ガンガとガートとインド人たちを、ただただ眺めていたい気分だった。
それでも何人かが声を掛けてくる。
「おにいさん、さっき、あっちの方でも何か考え事してたよね?」
「なにか悩みでもあるの?」
実に流暢な日本語だった。
オレは確かに悩み事がある。考え事をしているし、彼の言う、さっきあっちの方でも考え事をしていた。だが、他人から見れば、ただぼーっとしているだけにしか見えないだろう。それなのに彼のこの言葉・・・。
それだけバラナシには悩みがある日本人が多いのか? そんなヤツばっか??
それともオレが、よほど難しい顔をして考え込んでいたのだろうか?
とにかく、こんなことが起こるのがインドなのだ。さすがインド、やっぱりバラナシ。
旅に慣れていない、インドに慣れていない旅行者がこんな風に声を掛けられたら、それこそインドにハマり、この若者にハマってしまったことだろう。
彼は、近いうちに日本人と結婚することになっているらしい。日本にも住んでいたことがあって、日本語が上手いわけだった。
オレは良い機会だと思い、見ず知らずの、どこの誰かも分からないインド人の若者を相手に、人生相談。オレの悩みを話してみた。彼もその大阪の彼女とのことで悩んでいたそうで、お互いに意見を聞きあって、しばらく話し込んでいた。
彼と話して、オレの答えが出る訳もないのだが、それでも意見は参考にはなったし、答えに少しは近づいたのかもしれない。
気分良く彼と別れ、さらにガートを歩く。
バラナシのガート周辺で、一番人が多い辺りを中心とするならば、そこから東の方に5分の場所と、反対に西に15分の場所に火葬場のガートがある。
東のガートへ行ってみることにした。2人の遺体を燃やしている。その写真を撮っている欧米人旅行者。・・・・・・、ん? 写真撮ってる?? 火葬場は撮影禁止のはずだが・・・。恐る恐るインド人に聞いてみた。
なんと今は撮影OKらしい・・・。
かつては撮影禁止で、それを厳しく監視していた。カメラを出すだけで、もの凄い剣幕で怒られたものだ。ボートで川からこっそり隠し撮りするのが旅行者のお決まりだった。まさかそこを曲げちゃうとはね・・・。スマホのせいかな?
ところで、この火葬場のガートは以前と比べるとまるで活気がない。人が少ない。聞くところによると、日本と同じような近代的な火葬施設ができて、そちらで焼くことが多いらしい。
バラナシも変わったものだ。
そう言えば不浄の地とされて忌み嫌われ、誰も人がいなかったガンガの対岸にも人が大勢いたし、ヒンドゥーの聖地であるこの街では肉も酒もNGだったのが、今ではどちらも普通にレストランにある。
旅行者としては嬉しいけど・・・、どうなのかね・・・。ツーリストで成り立っている街の、当然の変化なのだろうか?
この日も夜はプジャーを見に行った。
プジャーでのスマホが、全てを物語っているような気がした・・・。
バラナシが、インドが変わったのではない。時代が変わったのだ。
スマホが世界を変えてしまった / 聖と俗のプジャー
323.ブッダガヤへ
インドの旅での重要な要素。地域にもよるが、北部平野部の旅の場合は、列車のチケット手配がその一つだろう。
今回のオレの場合、まず日本での手配にチャレンジした。上手くやれば取れるのだが、システムが複雑、かつ難解、そして不可解で、1週間もの時間をかけていろいろとやってみたが上手くいかなかった。
ネットで調べると、最近では旅行会社や駅で、比較的簡単に取れるようになったらしい。以前は駅での争奪戦を戦い抜かなければならなかったのだが・・・。
実際、バラナシの旅行会社で簡単にチケットをゲットできた。とは言え、希望の時間やクラスのものは満席で、だいぶ予定が狂ってしまった。
夜行で移動するつもりが昼の便になって時間が無駄になり、バラナシ滞在3日間の予定が2日になってしまった。その分ブッダガヤの滞在が増えたのならまだ良かったが、増えたのはどうでも良いコルカタでの滞在時間・・・。
さらに、ブッダガヤからコルカタへの移動はファーストクラスしか空いておらず、快適ではあるが無駄に高い金を払うことになった。
だがその程度はまだ想定内で、許容範囲だった。
ところがその後、想定外のことが起こるのだが、それはまた後ほど・・・。
バラナシを発ち、ブッダガヤへ向かう。バラナシには二つの駅があり、オレはそのうちの遠い方のムガルサライ駅から列車に乗る。ムガルサライ駅へ向かうには、オートと呼ばれる三輪タクシーで行く。オートに乗るには、ゴードリヤー交差点まで宿から歩いて行かなくてはならない。
早朝のバラナシを歩くオレ。朝早いのに、ガートやその周辺の路地には多くのインド人がたむろしていた。オレがこの街に来てから1日半の間で、何人かのインド人と知り合いになったが、なぜかそのうちの4人もの人物と次々に出くわした。全員と一言二言と別れの挨拶をし、握手をして別れた。
偶然にしてはすごい確率・・・。
いったい何なのだろう? 彼らはこんな朝早く、何をしていたのだろう?
インドではこんな不思議なことが良く起こる。ただの偶然以外の何ものでもないのだが、このようなささいな出来事で何かを感じる旅人も少なくはない。かつてのオレがそうだったように・・・。
しかし今のオレには、そこから何かを感じ取る能力が欠如していた・・・。
ゴードリヤー交差点からオートに乗り、ムガルサライ駅へ到着。
まずは電光掲示板をチェック。オレの乗る列車は・・・、早速のディレイ表示だ。
列車を待つ。掲示板の表示が出ない。駅員に尋ねる。スマホのアプリで調べてくれる。1時間遅れだ。
列車を待つ。掲示板の表示が出ない。駅員に尋ねる。スマホのアプリで調べてくれる。2時間遅れだ。
列車を待つ。掲示板の表示が出ない。駅員に尋ねる。スマホのアプリで調べてくれる。もう到着するそうだ。駅から5kmの地点にいるらしい。
列車を待つ。
結局その5kmに1時間がかかった。オレが走った方が、倍以上早い。
最終的に3時間遅れで列車に乗り、ブッダガヤへ。
そこから先はスムーズに進んだ。少しだけ遅れを取戻し、予定より2時間半遅れでガヤに到着し、ガヤからブッダガヤへのオートもすんなりと、まともな金額で乗せてもらい、ブッダガヤでは宿もすぐに見つかった。
暑いことを除けばすべてが順調のように思えた・・・。そう、暑さを除けば・・・。
オレは暑さに強い。インドのように湿度の低い暑さであれば、40度でも平気なくらいだ。ところがここブッダガヤは48度! バラナシも相当な暑さだったが、ここまでではなかった。
この時期のインドは、1年で最も暑い時期。観光的にはオフシーズンなのだ。観光客がいない、暑すぎる、となると、屋台や土産物屋も店をたたんでしまう・・・。
灼熱のインド・・・。なんとも懐かしい・・・。
ブッダガヤでの初日は、街にいくつも点在している各国の仏教寺院を見てまわった。当然その中には日本の寺も存在する。
15年前にここへ来た時には、その日本寺で日課になっている夕方の座禅に毎日参加していた。今でも張り紙がされていて、同じように毎日行われているようだ。
今回も参加しようかと思っていたのだが、オフシーズンなので日本人観光客をあまり見かけなかったことが気になっていた。
「参加者がオレひとりだったらイヤだな・・・。」
などと思ってしまい・・・、二の足を踏んでいるうちに時間になってしまった。
この時間帯になるといくらか涼しくなり、土産物屋がそろって店をひろげ出した。何件かを見てまわってから、エアコンの効いたレストランを見つけて夕飯を食べる。当たり! エアコンだけでなく、味も美味い! なるほど。美味い、儲かる、エアコン付ける、さらに儲かる、の図式だな。
結果、ブッダガヤにいる間、毎日この店に通うことになった。
食事を食べた後、ライトアップされたブッダガヤのメインテンプル、マハボディ寺院の夜の観光に向かうつもりだったのだが、雷鳴とともに雨が降り出してしまう。雨はそれほど強くはなかったのだが、とにかく雷が凄い! インドらしいなと思いながら宿へ急いだ。
列車で隣の席だった兄弟 / マハボディ寺院
324.セーナー村
翌朝、15年前にブッダガヤへ来た時に、朝食を食べに通っていた店へ行った。ブッダガヤには15年前と変わっていない店がいくつかあり、懐かしく、また嬉しくもあった。村の入り口にあるこの店も変わっていない。
そこからネーランジャ川沿いに延びる道を北へ15分ほど歩き、橋を渡ると対岸がセーナー村だ。
かつてブッダが苦行の末に、生死を彷徨いながら辿り着いたのがこの村だった。村のスジャータという娘がミルク粥をブッダに与え、生気を取り戻したブッダはその後ブッダガヤで悟りをひらく。そんな逸話があるため、セーナー村はスジャータ村とも呼ばれている。
実は、オレが今回のインドの旅で、一番楽しみにしていた場所。一番来たかった場所がこのセーナー村だった。
インドの典型的な貧しい農村。オレはそんな場所の風景と人間が大好きだった。久々にそんなものに触れたかった。
15年前に見たセーナー村は、水と緑に溢れ、菜の花の黄色がとても印象的だった。農作業をする女性たちの色鮮やかなサリーを見ながら、田んぼのあぜ道を歩き、村の広場で子どもたちと遊んだ。貧しいこの村では外国人が支援する学校も多く、そのうちの何ヶ所かも遊びに行かせてもらった。
最高の風景に出合った思い出、子どもたちとの楽しい思い出、そして真剣に何かを考えた思い出、それらが忘れられなかった。
そんな場所を再訪すると、変わってしまった現状にガッカリすることが多い。今回もその怖さはあった。良い思い出を壊したくはない・・・。今までにいったい何回、来なきゃ良かったと後悔したことか。
それでも行きたかった。バラナシにも、ブッダガヤにも、セーナー村にも。
セーナー村は、さすがに道や建物が良くなってはいたし、村の規模も大きくなってはいた。昔のままとは決して言えないが、オレの好きなセーナー村はまだ残っていた。
そしてこの村でオレに起こったことは、15年前と全く同じだった。風景は少し変わったが、村人は何も変わっていなかった。特に子供たちは。
オレが村を歩いていると、遠くからオレを見つけた子どもたちが走って近寄ってくる。オレがカメラを持っていることに気付くと、写真を撮って欲しいということになる。撮ってあげると(実際には撮らせてもらっているのだが)、ボクも私もと、次々と子どもたちが集まってくるのだ。10人以上の人だかりになることも多かった。
子どもたちはそのうち撮影会に飽きてしまうのだが、これだけ子どもが集まると、必ず一人くらいは金をくれだの、お菓子を買ってくれだのと言い始める子がいるものだ。そうなるとみんなもマネをして全員でおねだりが始まる。
すると毎回のパターンで、その中の年長者の子どもが、他のみんなを追い払ってしまう。言葉は分からないが、外国人にねだったりしたらダメだ! と言っているのは明白。さっきまでみんなで仲良くしていたのに、急にえばり始めるのだ。
歳なのか? カーストなのか? オレには解らないが、とにかくこの効果は絶大で、年下の子どもたちは雲の子を散らすように走っていってしまう・・・。
年長の子どもたちは英語を話し、
「村の子どもたちにお金をあげるのは良くない。」
などと話しているのだが、・・・、最終的には彼らも金を要求してくる・・・。
何のことはない、ただ単に独り占めしたいだけなのだ・・・。
村を一周するうちに、あちらでもこちらでも同じパターンが繰り返される。
そしてそれを楽しむオレ。
そのうち、決まって今度は大人が出てくる。
「学校に寄付をしてください。」
15年前と全く変わっていない。それがたまらなく嬉しかった。
桃源郷のような風景と、まさに純粋無垢な子どもたち・・・。オレが好きなインドの農村。
セーナー村の小学校 / セーナー村の子どもたち
325.SATORI
2500年以上も前のはなし。ブッダはブッダガヤの菩提樹の下で覚りをひらいた。
その菩提樹を祀ったマハボディ寺院は、今でも世界中の仏教徒の信仰の中心地だ。
15年前、オレもブッダガヤであることを覚った。
親しくなったインド人たちから、
「未来を追うのではなく、今を大切にしなければならない。」
ということを感じ取ったのだ。
その後のオレはどう生きてきたのだろう? 今を大切に生きてきただろうか?
と、そんなことを振り返ることができただけでも、今回ブッダガヤに来た意味は充分にあったのかもしれない。
しかし・・・、今のオレは・・・、状況が少し普通ではない・・・。
今こそ、今を大切にしなければいけない! 未来のために!!
『オレタチFUTURE』 が 『NO FUTURE』 になりかけている今こそ・・・。
何かを感じるには、何かを覚るには、きっかけが必要、環境が必要。
そんな意味でも、最高の場所だったのだ。マハボディ―寺院は。
ブッダガヤに滞在している間、マハボディ―寺院には4度、足を運んだ。昼、早朝2回、夜。その度に違った顔を見せるこの寺院が好きだ。15年前も、オレはこの寺院が気に入り、長い時間をこの寺院で過ごしていた。
一番好きなのは、菩提樹の周辺に集まった各国の仏教徒たちが、祈りながら唱えるお経の音色。そしてそれを聞きながらの瞑想。
オレの悩みの答えもここにあればな・・・。ここなら答えを導き出せる・・・。
病んでいるからこそ、そんなふうに考えていたのだ。
そして・・・、それは突然やってくるものなのだ・・・。
ブッダガヤを離れる日、早朝の寺院を訪れた。タイ人僧侶の団体が菩提樹の南側に、台湾人僧侶の団体がその北側に陣取り、お経を唱えている。
オレは菩提樹の近くに座り、彼らのお経を聞きながら、目を閉じ、深く考えていた。
今のオレを支配しているふたつの大きな問題。今ここでなら、不思議とそれらの問題と自分とを、客観的に見つめることができる。なぜかそんな気がした・・・。
そして・・・、おぼろげながら、その答えに近づき、何かのヒントを感じ取れそうになったその瞬間・・・!
オレのすぐ横で犬が吠えはじめた! 目を閉じていたため、犬が近くにいることには気づいていなかったのだ。
そして、犬の鳴き声で我に返ったオレは、近づきつつあったその答えを、一瞬にして忘れてしまった。
その答えは頭から完全に消え失せてしまったが、オレは次の瞬間こう思った。
「今ここで犬が鳴いてオレの覚りが消え失せてしまったように、人生もいつ何が起こるかわからない。そして、なるようにしかならないのだ。」
なるようにしかならない・・・。
この 「人生なるようにしかならない。」
これが今回のオレの覚りだった。
でもね・・・、正直・・・、それじゃ困るんですけど・・・・・・。
タイ人の僧侶たち / 菩提樹と僧侶
326.サイクロンとコルカタ
早朝のマハボディ寺院で今回の覚りをひらいたオレは、宿へ戻って荷物をまとめると、オートを拾ってガヤ駅へ向かった。
駅に到着し、まずは電光掲示板で列車の遅れをチェック。
早速、順調に遅れているではないか!
列車が到着するまでの間、駅の周辺を少し歩いて朝食を食べ、電光掲示板のある場所まで戻る。さらに到着予定が遅くなっている・・・。
インドでは良くあることなのだが、例えば1km先の目的地へ行くとしよう。
インド人に道を訊ねると、1km先だとは言わない。100m先だと答えが返ってくる。その目的地ではない100m先でまた別のインド人に道を訊ねると、再び100m先だと言われる。
これを10回繰り返すと、めでたく1km先の目的地へ到着という訳だ。
列車もこれと同じで、10時間列車が遅れる場合、電光掲示板は1時間遅れますよ、を10回繰り返す・・・。
最初から10時間遅れることが分かれば、もう一度ブッダガヤまで戻るなり、他のどこかへ行くなり、時間を有効に使えるのだが、いつ来るかわからない、どの1時間後かも分からない、信用できない1時間後を、延々と待つしかないのだ。
結果、オレの乗る列車は7時間遅れで到着した・・・。信用できないが、信用しないと乗り遅れる1時間後を、7回待った結果だった・・・。駅で何もせずに、ただただ待った結果だ。
当然、夕方に到着予定だったコルカタには深夜の到着。
そして、オレはそこで初めて、列車が7時間も遅れた原因だろうと思われる状況を知る・・・。
サイクロンが来ていた・・・。
wifiとスマホというものがありながら、あれだけインドにいながら日本の友人たちと連絡をとっていながら、あれだけネットでいろいろなものを見ていながら、オレは天気予報を見ていなかった・・・。
コルカタは大雨、暴風雨! 駅から一歩外へ出ようものなら、5秒もしないで全身ズブ濡れだ。深夜なので地下鉄は動いていないし、頼みのタクシーもこの雨で1台も見当たらない。
インド人たちは平然として駅で野宿していた。当然、ベンチはすでに全て使われてしまっていて、多くの人たちが地面にシートを敷いて寝ている。駅は雨漏りしているので、そこを避けるように人だかりができていた。
そしてオレもそれに混ざる。荷物も心配なので、なるべく家族連れの近くの空いているスペースを探して横になった。
ほとんど眠れなかったが、いつの間にか外は明るくなり、強風は収まっていた。相変わらず雨は強めに降り続いているが、オレは外へ出てタクシーを探した。
理由は良く分からなかったが、ほとんどのタクシーに乗車拒否され、1時間以上もタクシー探しをするハメになってしまった・・・。
ようやくつかまったタクシーに乗り、コルカタの安宿街であるサダルストリートへ向かう。
が、大変なのはここからの宿探しだった。
オレはこの日の夜のフライトで、タイのバンコクへ飛ぶ予定だった。つまりホテルに泊まる必要はないのだが、ずっと荷物を持っているのは大変だし、何より濡れてしまった体をシャワーで温めたかった。いつの間にかオレはズブ寝れになっていたのだ・・・。
この暑いインドでさえも体が冷えきってしまうほど。オレは傘を持っておらず、駅でも売っていなかったからだ。
ところが、どの宿も満室。サイクロンが原因でチェックアウトする人がいないから。というウソかホントか分からない理由だった。雨の中で宿を探すうちに、さらに消耗するオレ・・・。
かと言って、高い中級ホテルにチェックインする気にはなれない。1泊もしないのだから・・・。
駅でのタクシー探し同様、サダルでの宿探しも1時間以上がかかってしまったが、ようやく空き部屋をゲット。安宿にしては高かったが、ついにオレも諦めた・・・。
熱いシャワーを浴びてから少し眠ると、オレの体温は戻り、また暑いインドも戻って来た。
エアコンの無い部屋に耐え切れず外へ出ると、雨が止んでいる。閉まっていた店も開きだし、屋台も出始めた。
助かった。そう思いながら屋台で朝食を食べていると、見る見るうちに青空が広がる。暑いインドを通り越し、あっという間に灼熱のインドに逆戻り・・・。
インドの最終日にあちらこちらと動き回りたくはなかったので、サダル周辺とビクトリア記念堂周辺をブラつき、ニューマーケットで買い物をして過ごした。
あっという間に夕方になり、タクシーに乗り空港へ。
オレは通常よりも早めに空港へ向かうことにした。サイクロンの影響が残っているかもしれないと思ったからだ。
しかし、うれしい誤算で何の混乱もなく、いや、むしろキャンセル便が出たからだろうか、空港には人が少なく、何事もすんなりと進んだ。
時刻どおりのフライトでバンコクへ向かったが、この飛行機がオレの経験上、最少搭乗率でのフライトとなった。おそらくサイクロンを気にして、キャンセルした客が多かったのだろう。なんとこのフライトには20人程度の乗客しか乗っていなかった!
これではサイクロンではなく、採算がとれなくてフライトキャンセルでもおかしくない!
飛んでくれて助かった・・・。
コルカタの駅で野宿 / サダル周辺の喧騒
327.時代の節目
インドの、どこかすっきりとしない白く霞んだ水色の空とは違い、バンコクのそれはいかにも夏といった感じの、気持ちの良い青い色だった。
しかし、それはオレが泊まっていたホテルが空港の近く、つまり大都会の郊外だったからで、電車で都心へと移動すると、インドと同じ空に変わってしまった・・・。
ちなみにこの日、電車は無料で乗ることができた。今日はメデタイ日なのだ!
タイの前国王が亡くなったのは2年半も前のこと。しかし、新国王の戴冠式はまだ行われていなかった。それがこの日に行われたのだ。さすがタイを愛するオレとでも言おうか。凄いタイミングでタイに来たものだ。
夕方から行われる戴冠式のパレードを見に行くために、王宮周辺へ向かった。
街は王室カラーの黄色一色。ほとんどの人が黄色のTシャツを着ていて、当然オレも黄色。
泊まっていたホテル周辺から運河を走るボートに乗り込んだ。当然、乗客はみんな黄色、ボートも無料。終点の船着き場を降りると、すぐに長蛇の列に並ぶことになった。ここから先の王宮エリアへ進むには厳しい、2重のセキュリティチェックがあり、特に外国人やカメラを持った人にはさらに別のチェックがあった。
これを済ませるのに2時間・・・。
大変なのはまだまだこれからだった!
黄色い人で埋め尽くされた沿道に場所を確保し、熱く焼けて、硬いアスファルトの上に座って、ぎゅうぎゅう詰めで身動きもとれないまま待つこと3時間。飲み物も無くなり、熱中症で気分が悪くなる人が続出する中を、耐えて耐えて耐え抜く。オレも少し気分が悪くなり、ケツが痛くて感覚がなくなりながらも待つしかない。この人混みで、帰るにも帰れないからだ・・・。
なんでオレはここまでしているのだろう? 最初からこれを知っていたらたぶん来なかった! そんなことを思い始めた頃に、ようやくパレードがやって来た。延々と続く鼓笛隊や衛兵の列・・・。
そして・・・、国王はあっという間に通り過ぎて行った・・・。
とにかく、オレはタイという国の、時代の節目に立ち会ったわけだが、日本でもこのGW期間中に元号が平成から令和へと変わった。
そしてそんなタイミングで、オレ自身も人生の岐路に立たされている。
今回の旅も目的地をインドに決めた時から、インドに救いを求める旅になってしまっていたが、そのインドでオレが覚ったのは 「人生なるようにしかならない。」 というものだった。
でもそれでは困るのだ。
確かに 「なるようにしかならない」 のかもしれないが、 「ならない」 としても 「なる」 ように、全力であがいてみようかな。今はそう思っている・・・。
黄色に染まったバンコク / 国王の御輿
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