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<2> 特集 = 藤枝大祭

 其の壱  舞台は『飽波神社』 
 其の弐  お祭りの主役「山車(だし、やたい)」について 
 其の参 「山車」の上の世界
 其の四 「大祭」のメインイベント的存在!!『引き回し』
 其の五 「大祭」の華!!「地踊り」
 其の六 「祭り」を取り囲む、周りの環境変化?
 其の七 祭りの「正装」とは?
 其の八 左車・平成十三年版番組表の紹介
 其の九 祭りの準備と「例祭」について

 1.舞台は『飽波神社』 (掲載:2001.07.11)

さぁ、今年もガムバんべ〜 もともと旧藤枝地区のお祭りであるため、現在の藤枝市の他地区住民が、直接お祭りに参加することは難しいのは事実。 単に「他地区の住民だから」という理由では決してないと思います。 その気になれば参加は可能ですが、やはり腐っても歴史のあるお祭り!!それなりの"伝統やしきたり"があって、当日に衣装をつけて、ホイホイというわけにはいきません。 お祭りのためには色々と準備が必要で、当然参加するには、本番当日のメインである「地踊り」もマスターしなければなりませんし、衣装も既製品の法被を着て参加というわけにはいかないのです。 地区ごとにお揃いの法被や、襦袢、帯飾り物などなどを事前に注文したりと、準備だけでも結構な出費があります。 実際お祭りにはまだ2ヶ月以上ありますが、「山車」所有の旧藤枝の各地区では、既に準備が始まっているのです。。。

 お祭りを盛り上げているのは、勿論「山車」を引き回している旧藤枝各地区の参加者ですが、各地区とも参加者を年齢で区切って分けています。 大きく分けて、4つの年齢別グループに分けられています。 「大老」「中老」「青年」「子供連」の4つです。 基本的にお祭りの運営は、「青年」が主になって進めます。 そのお目付け役と裏方的にサポートをしているのが「中老」で、「大老」はいわば相談役的な存在です。 「子供連」は小学生以下の子供達が受け持ちます。 各グループの年齢制限は、地区ごとに若干の違いがありますが、「子供連」はどこも小学生以下です。 「青年」は中学生から40歳くらいまで。 「中老」は40〜60歳、「大老」は60歳以上、とこんな感じです。 「青年団」の構成を紹介しておきますと、リーダーは「青年団長」で各地区1名、その補佐をするのが「副団長」で各地区2〜4名ほど、「会計」担当が各地区2〜3名、「交渉員」が各地区1名、その他、子供の世話をする係りですとか、連絡員、警備係りなど地区によって違いはあれど、青年団は組織化されて、各々の役割を持って、お祭りの準備から当日の運営まで行います。 「中老」の組織も「青年」同様に決められていて、各々の係りが「青年」と連携して仕事をします。
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 2.お祭りの主役「山車(だし、やたい)」について。。。

  当然、主役の「山車」の準備も始まっています。 実は今年、新しい山車を新築する地区が二つあります。 「岡出山」と「下伝馬」です。 「岡出山」の新車?は現在お披露目も終わり、噂によると"遠州森町"で造作されたらしいです。 お金持ちが多いのか?立派な山車が完成したらしいので、本番当日お楽しみに! 「下伝馬」の新車は五十海にある地元工務店で造作中。(この工務店は「白子」及び地元の「五十海」の山車も建造した実績があります) 前回のお祭りの時にも、新造した地区が二つほどありました。 その他の地区も「山車」の備品(提灯や飾り)などのチェック、山車の試運転などを行い、大祭の準備に余念はありません。

 「山車」についてもう少し触れておきたいと思います。 現在のように各地区から「山車」を出して引き回し、地踊りを踊るようなお祭りになったのは、明治時代になってからのようです。 大正時代に入ると、各地区とも「山車」の豪華さを競うようになり、屋根の上に歌舞伎役者の人形や、浦島太郎などの飾りを乗せて引き回す時代もあったみたいです。 昭和に入ると、道路には電線が張り巡らされ、豪華な飾りものを乗せた山車は運行不能になり、現在のような形の山車になりました。 松の大輪戦後、何処の地区も大祭が終わると、次の大祭まで山車は分解して保存するのが普通でした。 車輪は"松の大輪"ですから、乾燥によるひび割れや変形を防ぐため、池に沈めて保存します。 現在でも車輪は同様に保存しますが、昭和50年代頃から各地区とも山車を分解せずに、そのまま車輪だけを外して保管するようになりました。 我々が小さい頃は、大祭りが近づくと各地区の公民館脇などで、地元の大工さんなどが「トンテンカン」と山車をくみ上げている光景が目に付き、幼心にワクワクしたのを覚えています。

兄さんの手元に「舵棒」 「山車」の車輪についてですが、殆どの地区は現在"松の大輪"を使用しています。 当然自動車のように、ハンドルで車輪の方向が変わるような構造ではありません。 「舵棒」または「テコ棒」と呼ばれる太い丸太を、男衆が威勢良く押して無理やり?方向転換します。 この際に地面と擦れる大きな「ギィ〜」という音や、引き回しの際に車輪が回るたびに「ギィギィ」ときしむ音にも趣があります。 当日、意識して聞いて見てください! この"松丸太"以外の車輪を使用している地区が二つあります。 「長楽寺」と「左車」です。 所謂「御所車タイプ」の車輪で、舵はやはり「舵棒」で取るのですが、このタイプはしっかりと前輪が舵棒に連動して自動車のように方向が変わります。 以前(昭和50年代)には自動車のシャシーをそのまま山車に流用して、タイヤもそのままでハンドルつきの山車を引き回す地区もありましたが、御所車タイプ現在は上記の二つの伝統タイプです。 特に「左車」地区では、この御所車タイプが伝統となっていて、町名由来でも触れたように、地区の紋(トレードマーク)もこの「源氏車」が採用されています。 前々回(平成7年)の大祭の際に、「左車」の山車はこの町名由来を地でいくトラブルがありました。 飽波神社での「奉納踊り」を終えて、方向転換をして出発する際に、なんと左の前輪がコンクリートの段差で破損してしまったのでした・・・

 山車は2本のロープで引きます。 ロープの先端を「綱先」と呼びます。 2本のロープを目いっぱい伸ばした状態を「綱を張る」といって、この内側が縄張り的なテリトリーとして暗黙の了解があります。 従って、地区の法被を着用していない人や、他地区の人間が入り込むのはタブーとされていて、これが基で過去にも喧嘩に発展することもしばしばありました。 基本的に子供達は綱の先頭近辺につかせます。(勿論一番安全だからです) 大祭当日は交通規制がひかれますので、道の真中に山車を置き、道路いっぱいに綱を広げて引き回します。 この他にも、交通規制がなされて無い道路での引き回しでは、「交通係り」などの人も大変な働きをしますし、乗車中の芸人の世話をする係りなどもあります。 それからナカナカ大変なのが、山車のすれ違いや運行予定に沿った引き回しのための踊りのポイントや、山車の追い越しがあります。 これは「交渉員」と呼ばれる人が山車に先行して、他地区の交渉員とその名の通り交渉するのです。 その交渉結果を連絡員が、山車の側近にいる副団長や団長に連絡して、予定に沿った引き回しをします。 楽しいお祭りの中でも、いろいろなしきたりや、ルールがあって、それを団長を始めとするいろんな係りが各々の仕事をして、大祭が成り立ち楽しいものになるのです。 実際、皆さん普段の仕事よりも相当ハード見たいですナ・・・。
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 3.「山車」の上の世界

オラオラ、何処見て引いてんダーッ 「山車」を引き回すにはそれぞれ役割分担があります。 「山車」の中に乗り込むのは「芸人」と呼ばれる、三味線、笛、太鼓、鼓、上踊り(下伝馬、左車のみ)を担当する人達です。 山車の先端にはその地区の「青年団長」が乗り、威勢良く「ヤレヤレヤレヨ〜」と掛け声を掛けたり、停止、発進、方向転換の合図をします。 屋根の上には「屋根係」と呼ばれる4〜5人が乗って、頭上の電線のさばきや、民家の軒さきや看板との接触を回避するために仕事をします。 縁の下の力持ちならぬ"屋根の上の力持ち"達です。

「芸人」さん 当日、引き回しの際に無くてはならないにも関わらず、地元民以外という参加者も存在します。 「芸人」と呼ばれる人達や、地踊りの「師匠」さん達です。 「芸人」とは地踊りの伴奏をする三味線、太鼓、鼓、笛などの奏者と、長唄、小唄、素唄を歌う人達です。
 各地区ごとで大変大きな違いがありますが、昔から山車に乗る「芸人」は、東京の歌舞伎座などでも活躍するような、一流の人達を招いて演奏してもらうのが殆どの地区の伝統です。 このような一流の芸人を呼ぶには大変な出費を必要とするため、一時期地元の半分素人芸人を採用したり、「レコード」を録音してテープで流すようなことも行われていました。

 「地踊り」も各地区で、お祭りが近づくと地元の公民館などで練習が始まります。 この指導をしてくださるのが、日本舞踊の名取りの「師匠」さんです。 これも各地区でさまざまな流派の「師匠」に指導を受けています。 それから、各地区の参加者は勿論ですが、お祭りの間留守を守る人達も大事な「裏方」です。 主には地元の主婦や婦人会などが、他所から引き回してきた山車のもてなしや、ご祝儀を差し上げる役割があり、留守番もナカナカ大変な仕事です。
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 4.「大祭」のメインイベント的存在!!『引き回し』

 13町内の「山車」が3日間引き回されて行われる「大祭」。 3日間それぞれの行程に沿って、各地区「引き回し」を行います。 初日・金曜日の午後は、殆どの地区が地元で出発式などを行い、それぞれの町内のみを引き回します。 この日は交通規制が行われません。 また平日の昼間で参加者の数も少ないため、各地区ともナカナカ大変です。 初日という事で、徐々に気分を盛上げる為のウォーミングアップ的な引き回しですねぇ。。。 2日目・3日目がいわば「本番」的な引き回しになります! 土曜・日曜はギャラリーも沢山出て、「山車」も他地区まで引き回すのですから、祭り気分は一気に加速します。 2日目・3日目は「延喜式内・飽波神社」において、「奉納踊り」と呼ばれる儀式が行われます。 事前に決められた時刻、順番に従って、各地区の「山車」を神社の正面につけて各々の氏子、つまり「子供連」「青年連」「中老」「大老」の全員が、神主さんの「お祓い」を受けて参拝。 その後「子供連」「青年連」による「奉納踊り」が、3〜4曲ほど行われます。 昔から続いているこの「奉納踊り」が、いわば「メインイベントの中でも軸」になります。

 前回(1998)から「大祭」を「もっと有効な地域活性起爆材的に!」、「より市民が楽しめるように!」、そして「今後も伝統を末永く継承するように!」と、『大祭連合会』なるものが主体となって、千歳区・駿河銀行前の交差点付近において『地踊りコンテスト』が行われるようになりました。 地区毎の「子供」「青年」各々の踊りを審査員が採点し、総得点で順位がつけられて、上位地区には金一封のオマケ付き! この模様は「CATV/コミュニティチャンネル」でも放映されていました。(本年も開催される予定とのことです)

踊り 先にも申し上げましたが、「山車」は行程に沿って、基本的に2日目・3日目で全ての地区に入り、各所で「地踊り」や「上踊り」、「長唄」などを披露して回ります。 その場所は特に決まっていませんが、おおよそ各地区の祭典事務所前や、人が多く集まる広い場所で行います。 この「披露」の目的は、基本的には「戴いた"ご祝儀"のお礼」という意味合いが強いでしょう。 各地区で多額の「ご祝儀」を個人的に下さるお宅が結構あって、その場合には山車をその御宅の玄関前に向けて、「ご祝儀」を下さった方のリクエストに応えて「地踊り」や特別番組にあたる「上踊り」、芸人による本格的な「長唄」の披露をします。

 以前は地元以外の地区に「山車」が近づくと、「祝儀係り」なる人々が各地区のご家庭を回り、「ご祝儀」を戴いたモノでした。 戴けたお宅には「番組表(踊りの番組や、芸人の名前、担当楽器などがかかれている小冊子)」を差し上げるということを行っていたのです。 しかし最近は「大祭連合会」が、この「ご祝儀」にも約束ごとを作りました。 13町内を東部、中部、西部の3つに大分して、「東部地区は他の中、西部地区で「祝儀集め」は行わない」というような取り決めをしたのです。 確かに各家庭の負担を考えると適切な処置かもしれませんネ。 しかし各地区には「お祭り大好き」のお金持ちのご隠居などが結構いらして、祝儀集めをしなくても先方からわざわざもってきてくださる場合が多々あります。 この様な場合は遠慮なく戴いてもOKです。 3年に一度のことですから、皆さん気前よく「ご祝儀」をはずんでくださいます。

夜の祭・もっともっとや〜れよ! 2日目、3日目の夜ともなると、盛り上がりはピークに達します。 街道筋では沢山の見物客が、各地区の地踊りを押し合いへし合い観覧していますし、参加者もアルコールが体内に飽和状態になり、興奮しながらの引き回しとなります。 東部(白子・下伝馬・左車・市部・五十海)の5地区は、夜になると時間の都合から地元方面に進行しなければなりません。 つまり盛り上がりピーク時に、メイン会場付近に「山車」をとどめておくことが出来ないのです。 気分は最高に盛り上がっているのですが、場所は「飽波神社」から街道を東にどんどん離れていってしまい、ギャラリーの数も減ってしまう所。 ←こんなジレンマ的問題を解決しようと、東部5地区は前回の「大祭」から立ち上がりました。>ムクッ! 「我らの力でこの最高潮時間帯に、街道東側の白子付近でも盛り上がりを作ろう!」ということで、連携して打合せを持ったのです。 その結果、一番賑やかな白子商店街に5台の「山車」をとどめ、「地踊り合戦」やその他いろいろ工夫を凝らし、お客さんを呼ぶ試みが始まったのです。 今回もこの東部5地区では「前回より"白子大祭"をパワーアップするように!」と『東部会』なる会合を持って、みんなでアイディアを出し合っているようです。 本年はどんなことをするのか非常に楽しみです。。。
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 5.「大祭」の華!!「地踊り」

 地面を舞台に踊りを披露することから、付いた名称が「地踊り」。 「山車」を引き回す「子供連」「青年連」が、綱を張った状態でその綱を地面に置き、各地区で戴いた「ご祝儀」のお礼としてこの「地踊り」を披露します。 「地踊り」は各地区によって番組(演目)が違います。 同じ曲目でも、指導してくださる日本舞踊の「師匠」の流派などの違いで、振り付けが違ったりします。 どの地区も「子供連」の番組、「青年連」の番組と分けて設定されていますが、殆どの地区では「子供連」と「青年連」共通の番組も持っていて、「合同の地踊り」も披露される場合があります。 基本的に昼間の時間帯は「子供連」の番組が多くなります。 踊りの曲目は、歌舞伎でもおなじみの「長唄」の抜粋や「小唄」などが殆どで、盆踊りで見るような「***音頭」や「民謡踊り」は含まれません。 つまり、本格的な「日本舞踊」となるわけですが、全国的に見てもこのようなお祭りは珍しいそうです。 勿論、盆踊りや民謡も一口にいえば日本舞踊かもしれませんが、多少内容が違うようです。 ですから踊りの振り付けも、「唄」の内容に沿った本格的で難しいものです。 ですから、各地区で会得するために練習会が行われています。 早いところは8月後半から、毎晩公民館などで練習が始まります。 各地区とも「十八番(おはこ)」を持っていて、毎回の「大祭」で必ず披露されています。 子供達も難しい日本舞踊を、一生懸命練習に参加して覚えて、本番当日は粋な法被に身を包み、カッコよく本格的に踊っています。 ギャラリーの皆さんは、ご覧の後には是非とも暖かい拍手を御願いいたします。 昨今、子供のしつけが社会問題になったりしますが、そんな意味でもこの練習会は、子供達が学習することが大変多く、ためになる物だと思います。 練習の時の挨拶や、厳しい「師匠」の言うことをしっかりと聞いて、学校の勉強とはまた違った勉強が出来る貴重な機会だと思います。。。

 「地踊り」の他にも、各地区で色々なパフォーマンスが行われます。 「舵棒」の上で"ひょっとこ"のお面をかぶって踊ったりする地区や、「山車」を交差点でグルグル回転させたり、地踊り以外の番組に無い集団パフォーマンスをする地区もあります。 ご覧になれたらラッキーでしょう! また見ていて、つい一緒に参加したくなるようなパフォーマンスもあります。 ここではあえて詳しく述べませんので、当日のお楽しみといたしましょう!!!

頑張れ、チビッ子! 基本的に各地区とも「地踊り」がメインのパフォーマンスですが、地区によっては「上踊り」と呼ばれる「特別番組」を持つ地区もあります。 「上踊り」とは「山車」の舞台上で踊るもので、「下伝馬」と「左車」のみにある特別番組です。 「山車」には仕掛けがあって、「山車」の前部が引き出されて「舞台」が出来上がる仕組みになっています。 この「舞台」で「地踊り」とは違う演目を披露します。 「左車」では前回の「大祭」から、地元の子供の代表が「上踊り」を披露しています。 聞くところによると、4月からすでに「師匠」に弟子入りして、「上踊り」の練習をしているようです。 これも『見られたら超ラッキ〜』的なものですから、何処で行われるかは当日になって見ないと解りません。 絶対に見てみたい人は、2日目・3日目は「下伝馬」か「左車」にひっついて行動しましょう!!
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 6.「祭り」を取り囲む、周りの環境変化?

 「町名・蘊蓄」でも述べていますが、世帯数の少ない地区は御多分にもれず「少子高齢化」が進み、年々と青年・子供の数が減り、山車の引き回しにも少なからずの影響があり、知人や友人、はたまた外に嫁いだ娘へ応援参加を呼びかけたり、地区内にある企業(銀行、信用金庫、大型スーパーなど)に応援参加依頼するなどしている地区も沢山あります。 逆に大所帯の地区は賑やかで、威勢のいい引き回しを可能としていますが、これはこれで逆に人数が多すぎて、統制を取るのもナカナカの苦労があるそうです。 各地区とも多かれ少なかれの問題を抱えておりますが、その問題を解決しながら皆で「大祭」を楽しく有意義なものにしよう!また昔ながらの伝統を守って行こう!という意識の基に頑張っているのです。

 ひとつ共通して言えることは、何処の地区も老若男女とわず、みんな協力しあって、『お祭りを盛り上げている。伝統を守っている』という"誇り"を持って運営しているということです。 こういう機会は、今となっては他にはナカナカございません。

 さて大祭当日皆さんは、何台の山車を見ることが出来るのでしょうか?? 各地区の「山車」や「地踊り」の違いを見比べて、楽しんでください!!(もっと、記事を追加していきますので、お楽しみに。(^^)v)
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 7.祭りの「正装」、法被を着るまで

こちらはチビッコ・ハッピ 大祭参加者は地区ごとお揃いの法被を着用するのが原則です。 法被は各々地区の紋や、地区にまつわるモノor話をデザイン化しますが、基本は江戸調の半纏(法被)です。 最近「大祭連合会」が発足してからは、各地区とも「中老団長」と「連合会役員」は揃いの"連合会長半纏"を着用します。
肉襦袢(にくじゅばん)
 さて、各地区とも大祭で着用する法被の正装をご紹介いたしましょう。 上半身から説明しますと、一番下に「肉襦袢(にくじゅばん)」という七部袖のボタン付きの木綿(良いものは絹もある)のシャツのようなものを着ます。 模様はいろいろありますが、松葉模様や絣系が一般的で、梃子担当の若衆などは派手な紋々(いれづみのようなデザイン)のものを着用しています。 値段もピンからキリまでいろいろです。 デザインの良い絹のものは数万円もします。。。
腹掛け/ぼく、ドラエもん?
 「肉襦袢」の上に「腹掛け」をかけます。 昔の飛脚などが掛けていた短いエプロンのようなもので、木綿で出来ていて黒か紺で染められています。 たすき掛けで首からさげ、腰紐を後ろからまわし、腹掛けの下で前で結びます。 丁度おなかの所に「どんぶり」と呼ばれるポケットが付いてます。(まるでドラえもん。。。) この中にご祝儀やタバコ、小道具のセンス等をさして入れておきます。 腹掛けをかけたらその上に「下(肌)襦袢」を着ます。 これが一番お金の掛かるもので、基本的に着物と同じく絹で和裁の心得のある方や、呉服屋さんでオーダーメイドします。 一番オシャレをする部分という事ですか。 形は一番上に羽織る法被と同一のものです。 デザインは好みで色々です。 襟の黒い部分に、金の縁取り刺繍で名前や地区名を飾ります。

 さて、上半身の最後ですが、一番上に各地区揃いの法被を着ます。 角帯びで腰の部分で結びとめ、片肌(右側の片方)だけ脱ぎ、下に着ている華やかな「肌襦袢」を見せます。
黒の股引
 下半身は黒(紺)の股引(木綿製)をはきます。 これも不思議な形をしていますが、お尻の部分が分かれていて、紐を通して重ね合わせてはきます。 勿論、ズボンやパンツのようなゴムが入っているわけではございません。
帯と藤倉草履、足袋
 足元は足袋をはき、藤倉草履(わらで編んだ草履)を履きます。 梃子の若衆や屋根係りは、地下足袋を履きます。

 最後にアクセサリー的な小物ですが、各地区揃いの扇子、日本手ぬぐいと腰の部分に「火の用心」と書かれたお守り袋とひょうたん、鈴等をぶら下げます。 昔は背中に「花笠」を背負っていましたが、現在は殆ど見かけません。。。

 最近では若者や子供達も時代の流れでしょうか?上記のような正装をあまりしない人が多いようです。 「中襦袢」を着なかったり、「肉襦袢」と腹掛けだけで参加したり、はたまた、髪の毛を金銀パール!『白黒抹茶、小豆コーヒーゆず桜』と「青柳外郎」のように染めたり、ラメ入りでギンギラにしたり、派手な鉢巻をしたりと、かなりカラフルになってきています。。。
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 8.左車、新調・番組表(平成十三年大祭版)紹介

 今回(平成十三年)の大祭を取材するにあたり、随分お世話になっている「さ組/左車」の”番組表”が出来上がりました! ”番組表”とは大祭当日、ご祝儀を戴いたお宅に対して、感謝の意味を込めて配られるモノです。 番組表には芸人衆の名前や、担当楽器、素唄と踊りの番組などがかかれている小冊子なのです。 番組表からご希望の演目を伺い、山車がそのお宅の前に到着すると、ご祝儀に対してのお礼と演奏・踊りが始まります。

 『 豊秋祭芳栄緑源氏車 』
みのりのあきまつりよしむらゆかりのさぐみのだし

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一、山車の特徴
 「左車」の名は、その昔、鎌倉幕府の六代目の将軍となるために後嵯峨上皇の皇子・宗尊親王が、京から鎌倉への東下りの途中、御所車の左の輪が壊れて修理する間、お休みになられたと云う縁に由来します。 これに因んで、左車の定紋である「源氏車」を山車の輪として使用しています。 前輪は女の厄年、後輪は男の厄年の数から成る部品から作られており、山車を引くことは、厄を落として清めるという意味があります。 また、前輪と後輪で一対の夫婦車が一代を表わしており、左右で二代、そして山車を引く者を合せた三代で、代々繋がるように山車を引いて、引き継いでいくと云う意味があることから、この「源氏車」を大切にして引き継いできました。
 また、山車の懸魚には、左車が末永く栄えるようにと亀を配置しています。
 さらに周りの幕は、歌舞伎の引幕に由来するもので左から黒、萌黄、柿色の順です。 これは<<初代芳村伊三郎>>と、<<初代芳村伊十郎>>が顔見せ番付に初めて名を連ねた市村座の引幕と同じもので、<芳村の創立と市村座の関係>を示しています。 また、上踊りができるよう迫り出し式の舞台となっています。



二、誇る長唄正統の伝統

 長唄・囃子連は左車区自慢のお家芸です。 明治・大正・昭和の初めにかけて豪快な芸風で一世を風靡した長唄名人<<六代目芳村伊十郎>>は左車の出身。 また、鳴物名人<<三代目福原鶴三郎>>も左車の出身です。 飽波神社大祭には、一門を引き連れて出演して大祭を盛り上げ、藤枝に長唄の流行をもたらしたことは、よく知られており、左車の山車には当代一流の専門演奏家が出演する長唄正統の伝統を誇っています。
 この度、長年の夢でありました芳村伊十郎の出演が八十五年ぶりに実現し、左車自慢の特別 番組「素唄」では、芳村宗家の<<八代目芳村伊十郎>>家元が迫力ある長唄を披露します。 また、囃子方には、福原流鶴三郎派の<<福原鶴祐>>家元代行が出演して、名演奏を聞かせ、長唄の芳村と囃方の福原の両家元が共演することにより、二十一世紀初めての大祭にふさわしい伝統を重ねることができました。



三、踊りは華麗な振り付け
 「上踊り」も伝統演目の一つです。 町内の子供が<<花柳太枝静>>師の厳しい指導のもとで稽古を重ね、 その成果を舞台の上で披露し、華やかに色を添えます。
 また、歌舞伎舞台同様の本格的な振り付けによる芸心のこもった「地踊り」も御披露します。 難しいながらも子供連、青年連の熱意により、見事にこなします。 本年の演目は大祭の原点にかえって、長唄づくしとしました。

 小さな町内ですが、老いも若きも心を一つにして、代々伝わる左組の山車と芳村ゆかりの伝統を今年も引き継いでいきます。
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 9.祭りの準備と「例祭」について

 大祭は10月初旬の日曜日が最終日になるように日程が組まれます(従って本年は10月5、6、7の3日間です)。 初日は金曜日になるので、各地区とも午後一番に出発式を執り行い、初日の町内回りに出ます。 旧藤枝地区にある二つの小学校は、伝統行事でもある大祭参加に粋な計らいを見せて、初日は短縮授業で対応していただけます。 子供の頃、お祭りで早く帰れるのが非常にうれしかった覚えがあります。。。(^o^)

 話は少しそれますが・・・
 上の二つの小学校とは「藤枝小学校」と「藤枝中央小学校」です。 大まかに「藤小」が旧藤枝・益津、岡出山、千歳、長楽寺、白子、市部、五十海、下伝馬、左車地区の学区を指し、「中央小」は栄、木町、原、上伝馬、小坂地区が学区となります。 昔は「藤枝尋常小学校」のひとつでしたが、その後「分校(現在の中央小)」が鬼岩寺前に置かれて、西部地区の低学年の生徒が通っていたようです。 後に児童数の増加もありこの分校を「藤枝第二小学校」として西部地区の全児童が通うようになり、現在の名称「藤枝中央小学校」になりました。

 お祭りの時には日本全国で、大きなのぼり旗を立てる光景をよく見かけます。 ここ藤枝地区でも告知の意味を含めて、またお祭りの雰囲気作りに一役買っている風景であります。 近年このような行いは、田舎のお祭りには残っているようですが、こと都市部ではめっきり見かけなくなりました。。。 「飽波神社・祭典」でも以前は市内数箇所にのぼりが立ちましたが、現在は飽波神社入り口の鳥居脇に立つものと、他地区では唯一「左車」の濱小路に残っているだけです。 これは大祭の時だけでは無く、毎年立てられます。 早朝から近所の男衆総出で、拾数メートルある太い柱を人力で立てます。 そこに大きな白い木綿の布に筆書きされた旗を掲げます。 旗の端部にぬいぐるみの「猿」をぶら下げて、花ぼろ、榊、軒提灯で飾り付けて出来上がりです。 因みに左車の「のぼり旗」は
マンキ宅で保管&管理しています。

 大祭は3年に一度行われますが、大祭以外の中2年は例祭として「神輿渡行(みこしとぎょう)」が行われます。 これは神社の祭神を奉った神輿を市中に引き回して、神社に参拝出来ない人たちが参拝できるように行われる行列です。 大祭直後の年は西回り、その翌年は東回りで旧藤枝地区を全て渡行します。 以前は大祭の年も行われていましたが、現在は大祭の年は各町内の山車の引き回しのみです。 例祭では渡行の際に、神社と2〜3箇所設けられた「ご休息所」に神輿を納め、宮司がお払い・ご祈祷をして、「浦安の舞」という踊りが奉納されます。 「浦安の舞」は各地区の小学5・6年生の女の子から2〜4名ほどが代表として選抜されます。 装束は神社の巫女さんのような”赤い袴”と”白装束”です。 大祭の年もこの「浦安の舞」は、神社奉納が行われます。


   
=山車準備編・付録=

 ホンの少しですが、山車の準備風景の画像をUPしてみました。
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