VOL. 29 
 Dead or Alive  〜今、話そう〜

第4話  【悔恨】

 救急車に乗せられてからどれだけの時間が経過したでしょうか? 救急車の天井を見つめ、やたらと耳に残るサイレンを聞きながら事故現場から20分近くを要してようやく豊橋市内の病院に到着しました。まったく土地勘が無いので、どこの病院に搬送されたのかも分かりません。救急センターに搬送されてすぐに救急隊からの状況報告と共に医療処置が始まりました。看護師の方が事故状況の聞き取り調査をして身元確認、実家への連絡などを行ってくれました。自分では両脚がどの様な状態になっているか全く見えていませんでしたが、ドクターの話では事故状況から考えれば普通は即死か下半身切断になっていてもおかしくない状況だとの事でした。また事故直後に気絶しなかったのは幸いで気絶していたらショック死の危険もあったとの事でした。「よく頑張ったね。」ドクターのこの一言で自分が危険な状況に置かれていた事を初めて理解したのでした。
 ウインターパンツはこの冬に新調したばかりだったのに処置の時にジーンズと共に切り刻まれ下着も脱がされます。上半身もジャケット類は脱がされTシャツ1枚になりました。この時両脚はありえない方向に曲がっているのだけはチラリと見えました。痛い部位の問診があり、両脚は痛いを通り越して感覚がなく、右手首と右手中指に痛みがある事を告げてストレッチャーに乗せられたままレントゲン室に連れて行かれました。両脚に加えて頸部、腰椎部のレントゲンを撮影した後、再び救急センターに連れ戻され消毒や入院に際しての準備が始まりました。
 医療処置が終了しエレベーターの乗せられて一般病棟へ。その建屋の造りから比較的、新しい病院である事がうかがい知れましたが依然、何という病院か分かりません。病棟は西6病棟という事だったので、6階にいる事は分かりました。看護士長さんや当直の看護師らが入れ替わり立ち替わり来て
付帯設備やベットの準備、入院に際しての説明をしていきます。渡された書類によると搬送されたのは国立行政法人・豊橋医療センターという総合病院でした。
 その後、当直の整形外科のドクターが来て、レントゲンを見ながら状況の怪我の説明をしてくれましたが、この頃から疲労と緊張から意識が朦朧として何を言ったのか覚えていませんでした。そして「右脚の足首と大腿骨か骨折しているので、手術が行われるまでワイヤーとおもりで吊り下げて足が縮まらない処置を行います。
」と言い残し、右脚に麻酔をかけて大腿骨付近にドリルで穴をあけて左右から鉄棒を突き刺し、ワイヤーでおもりを吊り下げていきました。完全にフランケン状態です。
怪我の状況は
・右大腿骨骨折
・右腓骨骨折(足首)
・左足甲挫傷

で約6週間の加療見込みとの事でした。
 20:00過ぎに家族や親族が来院し、状況説明や入院手続きを済ませ病室にやってきました。またボクを轢いたトラックドライバーや豊橋警察署の交通課署員も病室に来て事故状況の聴取を行いました。今回は事故の目撃者が大勢いたので事故状況検分は本人不在にも関わらず比較的スムーズに行われた様です。またボクも2回の衝撃を受けた事を証言したので、トラックドライバーに重大な過失は求められないとの事でした。まぁ、結構なスピード(厳密には制限速度オーバー)でボクの上を乗り越えていった様ですが、そんな事は過失を逆転させる材料にはなり得ない事はすぐに理解できたので、自損事故として処理される事になりました。交通課署員の話では、トラックが下手にブレーキでもかけていたら本当に両脚は踏み潰されてその場で切断されていただろうという事でした。なまじ、ある程度のスピードで乗り越えていった事で、これだけの怪我で(十分に重体ですが・・・)済んだとの事でした
 家族や親族からは散々、文句を言われたのは言うまでもありません。家族には前回の入院の経験から持ってきて欲しい物を頼んで帰ってもらいました。また日曜日だった事もあり会社の上司に電話連絡して翌日から暫く会社を休む事を告げました。また携帯電話のバッテリー残量が残り少なくなってきたので自分のホームページの掲示板に事故にあった書き込みをしてバッテリー終了。
 その晩は両脚の感覚が戻ってきて激痛に襲われて全く眠れませんでした。「豊橋に来るまでにどこかで休憩していれば・・・」、「なんであの車はあんなところで急ブレーキをしてコンビニに入ったんだ・・・」、「なんでフロントブレーキだけ掛けてしまったんだ・・・」、「なんで俺ばっかり昨年からこんな目に会うんだ・・・」、「こんな思いをするのならいっそ即死して楽になれれば良かったのに・・・」、「なんで・・・、なんで・・・」とやり場のない怒りと後悔の念が頭を支配し、溢れ出る涙をこらえる事が出来ませんでした。


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