無断転用禁止 2014.06.24

<お断り>
今迄生きて来て、各方面より影響を受けた作品の影響を多分に受けております。
お許し頂けるならお読みくださいませ。


   闇の用尺師(やみのようじゃくし)

用尺師 2に進む

 古来税制は、穀物を納める「租」、労働を対価とする「庸」、そして織物を納める「調」があった。その中の「調」を
管理、指導する部署があった。
 聖徳太子の時代、諜報を司る「使能備」というものが存在したと言われるが、その源流も末裔も諸説ある。それとは全く別に、
神事、仏事、加持祈祷、から護摩調伏、大葬、寿ぎに至るまで、それに要する布の量の算出と調達課程や原料の生産、運搬、備蓄
管理する天皇直轄の組織があった。
 彼らには、市井の瑣末な事から国家の大事、又は宗教上の秘事秘伝に関するあらゆる知識がもとめられた。
諸国を歩き、その地域に溶け込み、深く静かに活動する。次第にその任務は、多岐に亘るようになり、為政者の命を受け
諜報・暗殺をも司る公事方と本来の勝手方になったのは、当然の流れである。
 江戸中期以降は、この組織は事実上その役目が少なくなり、明治新政府の樹立以降にいたっては、組織はほぼ解体されていた。
ただ、地方においては、これら一子相伝の技は受け継がれたが、直系の惣領以外は、家族にすら明かさないこともあった。


-用尺師-
 天皇の命にて動いてきた一門。故に、脅かす者が在るとすれば排除する。
歴代の武家政権が、皇室を排除出来なかったのは、用尺師が裏で動いたという説もある。

<布役>
 織物生産管理の家柄。
 端に鋼線を折り込んで切る「鬼爪布」、青酸を塗りこんだ「青凱布」等様々な織物を使う。

<糸役>
 各地を渡り歩き原料調達、連絡等のつなぎをする家柄。かつては、禁裏警護もした。
 数々のトラップを仕込んだり、諜報、侵入を行ったりする。

<針役>
 用具運搬、備蓄管理をする家柄。用尺師の中では人数も多い。
 針で経絡をつき、外傷を見せずに暗殺したり、仕込み刀等も使う。

-風水師-

<地の音(ちのね)>
 用尺師と表立っての対立はしてないが、常に時の政権を影で操ろうとする風水師の一門。
宮中に文官としても多く潜り込んでいた。

-鬼道師-
<水鏡(みずかがみ)>
 対価をもって動く呪詛術師の集団。その源流は、卑弥呼に雇われていた祭祀の集団とも。
「地の音」とは、かなり深い確執がある。呪詛を専門に行う「鬼道寮」と、諸々の事の
実行部隊の「隠行寮」とがある。


<その1.火の無い処にけむりは立たず>

 
  何事も
    無かった様にが
   最上手
      波も煙も
        誰も気付かず


それは、茹だる様な暑い日の午後であった。 

 「先の大葬では、どれ位の白布をつかいましたか?」

 口開きの言葉とは凡そ似つかわしくない、ましてや市井の人から出る世間話の題材ではない。
その言葉に振り向き、視界に入ったのは、この炎天下でも涼しげにしている一人の女性であった。
 「なぜそんなことを・・・」言いかけて言葉を飲み込むのと、身構えるのはほぼ同時であった。
むしろ反射的に必殺の間合いを取った方がやや速かったかもしれない。
見覚えのあるような顔であった。
 「何故そんな事をお聞きなさるね。」
その見覚えのある顔の照合に時間稼ぎの質問をした。
事態は、その女性の方が把握している様であった。
 「布役のお家柄ですね 布山さん。またの名を座枯らしのソク」。

 「お孫さんがいたとはね。」
 呼ばれたふたつ名でようやく気がついた。彼女の曾祖母に面識があった。
 「千手のお珠さんは、息災で?」
 彼女もそのふたつ名を聞いて安堵したようであった。「千手のお珠」とは、
伝説の用尺師である。伝説と言ってもそう昔の話では無い。時間的に
尾鰭が付かないだけ現実味がある伝説の人物である。
 日本中の老人ホームや公民館を渡り歩き、街のスーパー等に入り込んだら判別不能、平凡な
何処にでも居るおばあちゃんなのである。身体的には衰えは否めないであろうが、
その諜報の速さ、正確さ、洞察力は余人の追従出来る枠を超えている。
何より、齢80にして繰り出していた千手羅糸という技は、過去何百人もの刺客を返り討ちにしてきたのは、
誰よりもこの布山は知っている。彼の事を「座枯らし」と呼んだのも、他でもないこのお珠さんなのである。

 「お前さんの近くにいると、こっちまで巻き添えくらっちまうよ。席を立つ時ゃ誰も生きちゃあいない。
ほんっと「座枯らし」だねえ~。」四半世紀も昔の話である。
まだ駆け出しの布山をそう呼んで目をかけてくれた。その面影が、その女性にあった。

 「何かあった時の為に」。かつては行き来していた用尺師どうしをバラバラにしたのも、明治以降
天皇直轄でなくなった故の食べて行く為のお珠さんの配慮であった。全滅をさけ、後世に残すのが
目的であったからだ。「もう時代が違う、会わんほうがええ。」そう言い出したのも、他ならぬ
お珠さんであった。族長、家長も、長老の言葉は重んじる。そんな習わしもあった。
 そんなお珠さんの身内の者が来た。これは、尋常ならざる事態ではなかろうか。

 「曾祖母は、昨年亡くなりました。」
 「さんざんお世話になっといて、御無礼しました。ここではなんですから中へでも。」

 「知らせるなと、常々言われてましたから。私と糸繰りをしていて、眠るように。」

「大往生じゃないか!あれだけ裏仕事していて。畳の上で死ぬ用尺師の話なんて聞いた事ないぞ!」
布山は心の中でさけんだ。「やっぱりお珠さんだ。誰も真似出来ませんや。」布山は、静かに笑った。
布山の脳裏には、どやされたり、諭されたりした思いでが浮かんだ。


 14の時に初仕事を掛け、15年間組んだ。
他にも大勢の用尺師が居た。一人減り、二人減り、討たれたり、病になったり、事故にあったり。10年前に
別れた時、仲間は、30人に満たなくなっていた。

 「天皇が、伯家の秘事を行わなくなってから100年経つと、国体は滅びるという。それを阻止せよ。」
 119代光格天皇の時代に下された命であった。次代仁孝天皇、そして明治天皇となり、1912年大正天皇の御世となるが、
その時には、伯家の秘事は、執り行われなかった。伯家は、1906年の資訓氏を最後に廃家したからだ。
 人の心は弱い。「衣食足りて礼節を知る」とは良く言ったものだ。直轄を離れてから後で、100年後を守れと言われても、
今日明日も儘ならなくなっては、「御恩」「御役目」処では無い。会えば愚痴が出る。血気に逸る者も出よう。

 「もう会わんほうがええ。其の通りでしたね、お珠さん。」

 布山は、用尺師解散には、疑問を感じた。今までやって来た事は何だったのか?こうもあっけなく、何百年と続いた組織に
簡単に見切りをつけられるのか。意見を言える立場でなかっただけに、余計に腹立たしかった。皆と会えない寂しさや、
今までの人生を否定されたようで、虚しさを感じながら時間が過ぎた。ただ、普通の生活をしだすと毎日がバタバタと終わり、
一年も速く、そして10年が経っていた。荒い仕事も最後の方は、ほとんど無かった。敵対する方も、同じように
疲弊していたのである。何の為に、何と戦っていたのか。我々が戦っても、戦わなくても、毎日の三面記事は事欠かない。
感慨にひたり、ふと我に返った。この女性は、何をしに来たのだ?

「で、今日の御用向きは?」と切り出すのと「実は」と切り出されるのは同時であった。
「実は。曾祖母が、これを布山様に渡すようにと。」
小さな箱であった。
「私の所在を御存じだったんで?」
「それは、私がさがしまして。半年かかちゃいましたけど。」

血は争えない。おっと、そう思うのがそもそもの油断か。お珠さんだって、刺客が「なんだババアか!」と言い終わるか終らないうちに
相手をあの世行きにする。まさかスゴ腕の殺し屋が80歳の老婆だなんて誰も思わない。消息は、完全に消したつもりだったのに、
それが半年で見つかってしまった。あなどれんな、この子、糸役の家柄か。布山は、そう思った。

「拝見してよろしいでようか?」
「どうぞ。」

 小さな箱の中には、さらに小さな入れ物と、手紙がはいっていた。」

 「前略
 ソクよ。元気でやっておるか。この手紙が、お前さんに届いたという事は、ワシはもうこの世にはおらん。
元気な時分に、何ぞ会いたいと思ったかもしれんが、言い出した手前会えんかった。許しとくれ。
この手紙を持たせたんは、ワシの曾孫じゃ。娘も孫も用尺師の事は知らん。この子にだけ伝えた。
娘も孫も無理じゃと思った。いくら血縁じゃといっても、資質の無いモンには話も出来ん。
今度、地の青龍が向きを変えよる。その時、水鏡の者どもがまた暴れだしよる気配がある。
こんな手紙いまさら迷惑やもしれん。関係を切っといて、手伝ってくれもあったもんじゃ無いかもしれん。
重々承知の上でのばばあの手紙じゃ。あと曾孫は、今年29じゃ。草々」

 手紙を読み終えて、布山は懐かしさで一杯になった。
 「迷惑だなんて思ってませんよ。」涙がすーーと流れた。
 ただいくつかの疑問起こった。
 「お珠さんが、「水鏡」の動きを掴んでいるなら、おっつけ「地の音」も動く筈。ましてや、地の龍脈は、「地の音」の専門。
何故、「水鏡」が先に動く?第一何歳まで諜報活動してんだ、あのばーさん。」
 布山の顔に思わず笑みがこぼれた。
 「糸役は、死んだ後も糸役か。やっぱ生きてる時にもう一度会いたかったですね。」心の中でかみしめた。
 顔をあげて、お茶を飲んでいる女性をみつめる。
 「お名前を伺っていませんでした。」
 「申し遅れました。糸川珠の曾孫で編夢(あむ)と申します。」
 布山は、思った。この女性もお珠さんのように、「千手羅糸」の使い手なのだろうか?30年前、同時に祖父と父親を
失ったため、布役を任された。針役は、針や、刀を様々な所に仕込み敵を倒す。体力、技量を試される技が多い。
人数も多いので、針役の仕事あとは壮絶であった。一方、糸役は、頭脳戦である。敵の情報、侵入経路、逃走経路、天候、
気温、季節全てを瞬時に計算し、「羅糸」と呼ばれる鋼線を張り巡らせる。テコや滑車の力学を利用し僅かな指運で
動く糸は、3次元の地雷原の様になり、迷い込んだら生きては出られない。最後は、糸全てを焼き払う芸術的な必殺技である。
それに引き換え、布役の技は稚技に等しいと思った。はっきり言ってだまし討ちなのである。
両役の仕事を観て自らの技を「子供だまし」と自虐まじりに言った時。
 「用尺師に狩られる様な奴らは、子供以下、人間以下、さらにそれ以下だ。だったら騙しておやり。褒めて調子に載られても
困るがねぇ。お前さんの腕は、おやじ以上だね。じいさまだってハタチの時分はそこまでの腕を持っていなさらなかったよ。
せいぜい精進するこった。まあ用尺師の腕が錆び付く方が良いんだけどねぇ。」お珠さんは、そう諭した。
他の用尺師達も同じ意見だったようだ。事実 布山の技の冴えは、素晴らしかった。お珠さんをして、「座枯らし」と言わしめるほど、
その場に居合わせた者全てを葬り去る。「鬼爪布」の殺陣は、他のベテラン用尺師を唸らせるほどであった。

「俺達ゃ一人、次また一人と仕留める。ソクの奴ぁ5~6人纏めてやりやがる。」仲間意識はもちろん、若くして跡を継いだ
スゴ腕のひよっ子を皆かわいがり、輪のなかに置いた。親を失ったソクへの憐れみもあったかもしれない。

 「編夢さん。貴方も糸をお使いになるんで?」思わず聞いて後悔した。でも聞きたかった。かなり興味があった。
 「曾祖母の様に千本も操れませんけど。10本くらいなら。」そう言って彼女はわらった。
 「こういう手合いが一番厄介だ。腕は同等かそれ以上だな、第一まるで殺気を感じない。お珠さんもそうだった。」
布山は思った。聞いてまずかったかとも思った。昔、大仕事で仕込みを掛ける時に、脇に待ち伏せしてた針役の
凄い殺気に気付かれ乱戦になった事があった。

 「鼻くそほじるのに殺気立つ奴が居るかい?気を出しすぎるんだよ!」仕掛けるのも、鼻くそほじる程度にやれとのことだ。
 「千手の。俺たちゃ剣技だ、無理言うない。」屈強の針役衆も、お珠さんには弱い。
それ位何でもないようにやれと針役の連中をドヤしていた。「人殺しと鼻くそほじるのと同列かよ。」と若い日の布山には面白かった。

 1990年代、世界滅亡にかこつけて、いろいろな宗教組織が台頭した。お遊戯程度のものから、かなりヤバイ物まで。
ただ、国家警察や公安が優秀なので、用尺師は、ほとんど段取り支援しかしなかった。仕事を済ましてから、市民を装い
通報する位である。下手をするとこちらが捕まる。

「彼女は、俺の事を色々知っているようだが、俺は彼女の事は何も知らない。かといって、初対面で色々きくのもなー。」
 ともかくスグに動こうにも動けないのは、表の仕事が結構忙しいのである。
 「普段のお仕事は何をしているんですか?」取りあえず聞いた。
 「八百屋です。あと食べ歩きの雑誌の記事を書いています。もっとも店は、両親と祖母がやってくれてますんで。」
 「なるほど、昔から産地周りの多い糸役らしいな。」布山は思った。これならごく自然に別系統で回れる。
「お珠さんの話をを追うには、針役も探さないと、ただ協力してくれるだろうか。」気が重かった。
 「昔の仲間のツナギなら、私が付けますけど。どなたですか?」事も無げに言う。
 「いや、まずある程度の下調べをしないと誰に頼むかも決まりません。」布山は焦った。
 箱に入っていたもう一つの箱を思い出した。焦りを隠すように箱を開けた。
 「何じゃこりゃー!」開けてびっくりした。どう見ても「臍のお」だった。
「説明書いてよ、説明を。これじゃあ判らん!」布山は、愕然とした。
 「何か聞いてませんか?これ。」
 「いいえ、何にも。スルメみたいですね。」
「お珠さん。ギャグか?謎掛けか?頼み事しといて、俺を困らしてど-する。」布山の頭の中で、本業の納品スケジュールと
謎解きがグルグル回った。「スルメじゃ無いよ、スルメじゃ。」
 


<その2.千里の道も一歩から>

 布山の頭の中は、もはやパニックだった。「ともかく知りすぎている謎の多い美女。いまいち状況が掴めない自分。
何処に居るか判らない仲間。第一敵は、何処の誰だ?そ-だ!敵はまだ姿を見せて無いじゃないか!あーー
ゆっくり茶ー飲んでるし。何杯目だ?そんな事はどーでもいいや。落ち着けソク!まず状況を整理しよう。
謎の美女・・美女と言うほどでもないか。それは褒めすぎだろ  あーーーそんな事はどうでもいい。ともかく
お珠さんの曾孫。29歳だっけ?そのこが、自力で俺を探し出した。どうやって?しかも、さっきツナギ付けるって
言ったよな。どーやって??このこだけコネもってんのか?そもそもこの臍のおは誰んのだ???しかもなんで
俺に託す????」
 「なんかさっきよりヤツレタみたいですけど。」
 「君が原因なんですけど。」声に出しかけた。
 「ともかく今日の仕事終わらせなくちゃ。編夢さん今日はどちらにお泊まりで?」
 「宿は、これから捜します。」
 「ウチで良かったらどうぞ。」
「男の人の家に泊っていいのかな。」
 編夢は躊躇したが、男一人で生きてきたソクには、そんな女性の心の機微は感じ取れない。
 「何にも無いですけどどうぞ。」
 本当になんにもなかった。テレビも、ビデオも、ラジオも、雑誌も。比較的広い部屋の中央に
布団が畳まれているだけだった。
 「お風呂は、奥です。トイレはここ。」
 男一人とは思えない程片付いていた。台所も綺麗だ。
 「綺麗ですね。あっゴメンなさい。男のひとだと、もっとゴチャゴチャしているのかなーって。」
 「僕を弔ってくれる人は、いませんから。」少し寂しげであった。
 今度は、編夢が、はっとした。言わなきゃよかったと思った。少しだけ時間が経った。
「ソクさん一人なんだ。ずーーと。今までも。これからも。」編夢は、なんだか目頭が熱くなった。
 「どうかしましたか?」
 「なっ何でもないです。」取り繕った。
「おばあちゃん達が、こんな味気ない人生にしちゃったのかな。」と思った。
 まるで生活感の無い部屋だった。写真らしきものも、仏壇もない。誰の部屋なのか判らない。
「何か楽しめる事とか無いのかなぁ。趣味とか。」編夢は会話の糸口をと思ったが、取っ掛かりが無い。
 「落ち着いたらUSJ行きましょう。」唐突だが、取りあえず言ってみた。
 「遊園地ですか?」
 「動物園でもいいですけど。」
 「どちらでも良いですけど。」
 「どっ、どんなアトラクションが好きですか?」会話は、好調に思えた。
 「どっちも行った事ないんで。」申し訳なさそうに布山は言った。
「えーーー。行った事ないの!!!何故???」編夢は仰天だった。普通行った事あるだろと思った。
 「別に行こうとも思いませんでしたし。第一 連れもいませんから。何となく毎日仕事に追われちゃって。」
 「楽しいですか。毎日。」恐る恐るきいてみた。
 「ええ、子供とかおばあちゃんとか来ますし。」
「そういう楽しいじゃなくて、発散させるような楽しさなんだけど。」何処か生活感の無い部屋が余計に
気になった。人が楽しむ様を横目でみてる。羨ましいとも思わない。人は人、自分は、自分なのだ。
思春期に裏稼業に入った。殺めた人の数も、顔も、20人から後は覚えていない。だから、はしゃぐ様な
楽しみ方を知らないのだ。それを不幸とも思わない。誘われれば、行ったかもしれない。でも誰も誘わない。

 お互いに、微妙に噛み合わずどうしたものかと思った。そうしてるうちに、ソクは、配達があると出かけていった。
店内を見回すと、いろいろな布がある。「きっと色々な思いが在って仕入れたんだろうな。」そう思った。店内も程良く
整理されてる。無理に売ったり、過剰にサ-ビスしたりしない。ただコツコツやるだけの仕事の様であった。
 小1時間ほどでソクは帰ってきた。手には、魚とネギと豆腐の入った袋を持っていた。
 「夕飯の支度しますんで。」店は開いたままだった。
 「あの~店は?」
 「この時間じゃあ誰も来ませんよ。」
 「じゃあ私やります。」
 「えっ、でも。」
 「泊めていただくんですから、これ位しなくちゃ。台所に有るもの使わせてもらっていいですか?」
 「すいません。どうぞご自由に。」と言いながらソクは、嬉しそうだった。

 「お待たせしました。」編夢の料理は、曾祖母、祖母、母親の仕込みなので、少く、限られた材料でいかに
豪華に見せるか、それをいかに短時間で行うかという主婦の知恵が詰まっていた。
 「うわぁ、すごい。こんなの食べた事無いです。」ソクも嬉しがった。今までと同じ材料なのに、まるで別物だった。
ソクは、食事を楽しむ事は無い。ただ食べるだけ。豆腐も醤油かけるだけ。魚の調理方法も単純に焼くだけ。
酒蒸しとかムニエルなんてしないし、出来ない。
 その間も店は開けたまま。しばらくして、
 「開いてた~。良かった~。糸下さい。」そう言っておばあさんが入って来た。
 「ミシン糸ですか?手縫い糸ですか?」
 「手で縫います。」
 「手縫い糸は、綿と、絹と、ポリエステルがあります。どんな色をお探しですか?」
 「水色っぽい色なのよ。孫が急に明日持って行くって言うもんで。」そう言って、袋から布端を出した。
 「この色は、変わってますね。あまり使わない色だから、長期間品質の変わらないポリエステルの糸がどうでしょうか。」
 「それでいいです。あ~開いてて良かった。おいくら?」
 「151円です。後、綿や絹の糸は、斜めに切って、舐めて糸を通す方が多いですけど、ポリエステルの糸は、
垂直に切って、舐めずにやった方が良く通りますから。」
 「ああそうなの、良い事聞いた。ほとんど絹か綿しか使わないから。ありがとね。ありがとね。」」
 「有難うございました。お気をつけて。」おばあさんは、何度も御礼を言いながら帰っていった。
「こんなに、丁寧なんだ。」編夢は感心した。
そんな事をしたり、片づけをしているうちに、9時近くになった。

 「お風呂入れてきます。」ソクは、ようやく店を閉めた。
「結構大変だな。」編夢は思った。

 「お風呂入りましたよ。先どうぞ。」
編夢は、少し焦った。
 「私後で結構ですので、お先にどうぞ。」
 「それじゃあ、お先に。」

 5分位で、ソクは出てきた。「速っ!」編夢は、また焦った。
 「編夢さん、寝巻持ってます?これでよかったらどうぞ。」スエットの上下であった。
 「僕は、店で寝ますんでそれじゃあ。」
 「あの、その前にお話しが。」
 「実は、曾祖母が亡くなる前に一緒に旅行に行きまして、そこで変な人たちと揉めまして。」
 「編夢さん。貴方 人を殺した事は?」布山の顔が、心なしか鋭くなった。
 「いえ。」
 「では、お珠さんが、人を殺したところは見た事がありますか?」
 「何度か、・・・見ました。最初は、6歳の時でした。」
 「それでも、用尺師になりますか?」
 「曾祖母は、どうしろこうしろと言わず、ただ自分の知っている事を全て教えてくれました。
用尺師の事も。ただ、後は自分で考えて私の良いようにと。」
 「色々聞いてすいません。で、殺せますか?」
 「無理だと思います。多分・・・。」
 「今の世の中はは平和です。でも、いったん事を構えると、どちらかが倒れるまで殺し合わなくてはならない。
明日の朝お帰り下さい。手紙と箱はお預かりいたします。後は、私の方で対処しますから。」


 「どうしたらいいんだろう。」編夢は少し寂しくなった。

 翌朝、編夢を送り出した。その翌日は定休日なので、夜の内に最後の仕事をした一宮まで足をのばした。
とある神社に、天津金木を納めたからである。天津金木は、ちょっと見は、積み木の様なものである。
この国の平安を願い、仲間達と納めた。その時に千手の珠は、解散を宣言したのだ。
 「ここで何か判るかもしれない。」
 神社に行くと、どうも普段と違った感覚であった。昔感じた様なピリピリする様な気配である。
「誰か居るな。」そう思い人気の無い裏山に回った。
木立を縫って、山道を進むと急にその気配は強くなった。

 急にあたりが静かになった。その瞬間何かが飛んできた。
反射的にかわした。昔の勘である。吹き矢の様であった。
「何人だ?」
 草木のすれる音を数える。「少し多いな。」
 ソクは、更に奥へ走り出した。
「4人いや5人か。」
 わざと疲れた振りをして、その場にしゃがみ込んだ。
 追手は4人で、すぐ取り囲まれた。少し遅れて頭目らしき者が来た。
 「何者だ?」
 「これで全員で?」ソクは尋ねた。
 「何を~。」頭目と思しき者がいきり立った。
 その言葉が、終わるか終らない内に、ソクの鬼爪布が、宙を裂いた。ほんの2振りで総崩れとなった。
ソクの鬼爪布は、両端に刃物を折り込んだ布である。手の振りと、スナップ、指の弾きで布を繰り出す。
その時、中指を軸に親指と小指を巧みに上下させて、まるで蛇の様にくねらせて、相手の喉笛を掻き切る。
両端が切れるので、一度に二人まで切る事も可能である。絡め取ろうとしても、途中で自在に方向を変えるので、
まず防ぎきれない。これを両手で操るので、ソクを取り囲む事は、「死」を招く。但しこの技は、大勢を一度に
葬る事に長けても、一人ずつ順番に倒す技では無い。ネタばれするのである。故に敵を十分引きつけて、
一度に倒すのが効率が良いのである。だから、ギリギリの技量が求められる。当然軌道上に居れば、
味方も巻き沿いを食らう。もっとも、ソクの腕を持ってすれば、味方のを避け、背後にいる敵を倒すのは
造作もないが、喉元を掠める刃物は気持ちの良いものではない。周りで戦う味方も命がけである。
手練の用尺師をして「座枯らし」と言わしめる所以である。

 5人を倒して、その場を立ち去り、また戻る。残党やその他の者が居ないか、念には念を入れる。
 遺留品を探したが、それらしき物は、持っていなかった。「当然か。」ソクは諦めた。ただし吹き矢の矢だけは、
持ち帰った。
 「あまりうろつくと、こちらが素性を探られる。取りあえず名古屋まで戻ろう。」夜が明けてから新幹線と在来線
の始発を乗り継ぎ静岡まで戻った。追ってに対する警戒である。11時近くになっていた。
 「矢」を持ち帰ってみたものの、なんだか判らない。第一このご時世に吹き矢もなかろうと思ったが、
鬼爪布を持ち歩く自分も自分だと思うと可笑しかった。クスクス笑っていると電話が鳴った。
出ると編夢であった。
 「あのう、針役の辰さんご夫妻が見つかりました。今、厚木です。」
 「あのね~。」ソクは、ふるえた。


<3.犬も歩けば棒に当たる>

 ソクは、また訳が判らなくなって来た。
 「何故こうも簡単に、所在を突き止める。俺なんか、皆が何処で何をしているかなんて、全く判らない。
もっとも、お珠さんに「もう会うな」って言われたからっていうのもあるけど。そんな簡単に所在が判るものなのか?」
 気を取り直して尋ねた。
 「編夢さん、あなたそこで何をしてるんですか?」
 影の仕事には、乱戦中に一人だけ軽く怪我をさせて、わざと逃し、別働隊がその者の根城まで跡を付け、
強襲する事がある。心得の希薄な者が、ちょこまか動き廻るのは危険なのである。
 「決してコンタクト取らないようにして下さい。あと、私の店にも来ないように。次の水曜日の正午に浜松の駅前に来て下さい。
出来ますか?」
 「はい。」声は、以外と明るかった。

 かつて、用尺師は、六曜で動いた。会うのは「仏滅」の昼間の12時である。落ち合う場所も法則があって、色々と変わる。
そこに行くと、仲間がいる。。異変を感じたら行かない。簡単に言うと、日の干支で方角、日付けの十干で大まかな距離、それに
季節や72候を掛け合わせる。さらに晴ならその通り、雨なら真逆とする。算出の起点は、前の会に沙汰がある。
 「水曜日に何処」という会い方も何か変だが、古来の習わしを、編夢に判り易く伝える為の、ソクの機転であった。

 「は~~~。」ソクは、深いため息をついた。世紀末の年代には、何か「悪」と言われる物があった。2000年以降には、それ程の
「悪」は無くなったように見えた。事実この10年間は、用尺師としての仕事は無かったのである。
 「もしかしたら、誰か裏で戦ってたのかなあ・・・。まさか。」少し不安になった。
「ただ、お珠さんは、解散後も曾孫と動いてた訳だし。」
「水鏡も今更何をしたいんだ。まさか世界の転覆?そんな訳はあるまい。でも僅か20年位前は、本当に世界は征服出来ると
考える節もあった。今は、世界なんて征服しなくてもという感じの方が強い。時代は恐ろしい。」
 次々と思いがよぎった。
 「待てよ、お珠さんは、誰と揉めたんだ?仕掛けたのか?会って聞かなくては。」
 「吹き矢なら、辰兄ぃに聞けば判るかもしれない。厚木か。」
 取りあえず厚木に足が向いた。小田原から乗り換えて厚木の駅に降りた。15時近かった。駅を出て少し歩いた。

 「ソク!ソクじゃねえか!」聞き覚えのある懐かしい声だった。
 「兄ぃ!」こうも簡単に会えるとは思わなかった。
 「どうしたんだ、こんなところで?兎も角、家へ来い。」路地をクネクネ曲がり辰の家に着いた。
 
 「綾。ソクが来たぞ。ソクが。」
 「本当にソクなの?!元気だった?」と辰の奥さんの綾は、嬉しそうに出てきた。
 「姉さんもお変わり無く。なによりです。こんなにも早く会えてよかった。」

 龍神の辰と影縫いの綾は、針役の中堅であった。長老達も2人を認めていた。

 「実は、最近変な若い女がうろついてるんでな、それとなく見回ってたところだ。お前こそ何でこんなところに。」
 「兄い。その女は、多分千手のお珠さんの曾孫です。」
 「曾孫ーーー!」綾は、ビックリした。「曾孫って、ちょっと。第一お珠さん、家族居たの?」綾はキツネに抓まれた様であった。
 「僕もビックリでした。一昨日そのこが、店に来てこれを。」預かった手紙と、小箱を見せた。
 「何、この臍のお。誰の?」綾は不思議そうに観ていた。
 「手掛かり無しです。それで、次の日岐阜に行ったんです。最後に金木埋めた神社に。そしたら、5人に追われまして、つい。」
 「殺っちまったか。しょーがねえな~。まあ恐らく、身内で処分するだろ。何か持ってたか?」
 「いいえ。ただ「吹き矢」を使うんで。」と言って持ってきた矢を見せた。
 「アンタ、吹き矢は、「地の音」の常套手段だよ。御丁寧に毒矢だよ。一般人は持たないねぇ。」綾は、薬物にも詳しい。
 
 官邸内の活動も多く、文官の多い風水師の集団の「地の音」は、携行が楽で、音の出ない吹き矢を好んで使った。
かつては、筆の中に潜ませていた。

 「ただ、お珠さんは、「水鏡」と何か揉めてたようで。」
 「ソクを、水鏡と間違えたか?」
 「俺、やっちまいましたか?」ソクは、気まずい顔をした。
 「ああ。多分、水鏡に仲間を殺られたと思った地の音は、報復に出る。殺リ合うな、こりゃあ。」
 「良いじゃない。第一ソクを襲う方が間抜けなんだよ。「座枯らしのソク」様を。」
 「姉さん、そんな~。」
 二人とも大笑いだ。二人とも相変わらず雑駁だと思った。
 「ソク、兎も角今は静観だ。綾、「切瑠」呼んで来い。」切瑠は、二人の息子である。最後に別れた時は、
ソクと別れたくないと大泣きして困らせた。小さい頃から、ソクの事を「あにちぃー」と呼んで付いて廻っていた。

 「兄貴!お久しぶりです。俺も高校生になりました。」
 「切瑠。立派になったな。」ソクも嬉しかった。お珠さんの配慮は、正しかったと思った。
 と同時に、平穏に暮らしている皆が、また殺し合いや、揉め事が日常になるのはどうかと思った。
二人の息子の切瑠にしても、殺し合いの中に人生を過ごすのは、良いのかと考えた。そんなソクの気持ちを察してか、
辰が静かに言った。
 「ソクよ。確かにヤバイ人生より、な~んにも無い人生の方が良いかもしんねー。当然だ。だがなぁ、
誰かが戦わなくっちゃなんねーようなら、戦う側で良いんじゃねえのか?おれも、綾もそう思うし、おめぇーの
じい様も、とっつぁんも、若い頃の俺らにそう言った。切瑠にもそー教え込んだ。例え皆早々あの世行ってもだ。」
 「すいません。つい。」ソクは言った。辰の兄いには、敵わないなと思った。でも無性に嬉しかった。
 
 辰の仕掛けは、真っ向勝負である。と言ってもただの無謀な仕掛けとは、訳も次元も違う。。
天賦の才の上に努力を重ね、精妙の上にも精功を重ねた剣技である。生き方もそうである。気負いや、衒いは無い。
義務感や正義感等という上辺の感情も無い。ただ自分の信じる道や仲間と共に戦うのに理屈が居るかという主義である。
「龍神」の二つ名は誰言うとなく付いた通り名である。
 もともと綾は、そんな辰に憧れながらも、自分より堅気の女性と一緒になった方が良いと思っていた。
辰も自分と結婚したら苦労をすると思っていた。それを一緒にさせたのが、ソクの祖父であった。
意識しながらの仕事に身がはいる訳は無い。
 「一緒になんねえんなら、用尺師なんて止めちめぇ!」そう言って叱りつけた。二人に二の句は無かった。
 
 「明日一番で帰ればいいんだろ?泊ってけ。」辰がいった。
 「御厄介かけます。」
 「やったー!兄貴、俺さぁ、今親父と母さんの技くっ付けたの編み出してんだ!後で見てくれよ。それと俺ねぇ英検も
取ったんだぜ。外国行っても困んないように。それとこないだ学校祭で」
 「切瑠!そんなに次々話したんじゃ、ソクがご飯食べれないでしょ!」綾は、料理を運びながら言った。
 「だって~・・・。ずっと兄貴に会いたかったんだもん・・・。話たかったんだもん。」切瑠は少ししょんぼりした。
 「切瑠。父さんと母さんの技を合わせたって言ったな。それはちょっと贅沢すぎだぞ。」二人の凄さを知ってるだけにソクは言った。
 「へへへっ。」切瑠は、嬉しそうに笑った。

 「辰兄い。それはそうと、お珠さんの曾孫の 編夢さんって言うんですけど。どうしたもんでしょうか?来週の水曜日に
浜松で会う約束をしてるんですけど。」
 「六曜じゃないのか。判りやすくていいや。」辰は笑った。やはり辰には通じていた。
 「で、どうするの?全てがマヤカシかもしれないよ。」綾は、慎重だった。
 「ええ、俺の家や、兄いのとこまで突き止めたのは、水鏡や、地の音では無理と思います。奴らはそこまで・・・。」
 「違えね。それにしてもどうやって。」辰も居場所が知れたのが腑に落ちない様であった。
 「あんた、私が行こうか?どうせ盆休みだし。」綾は言った。女同志の方が話が早いかもしれない。辰は思った。
 「それもそうだが、ソクはどう思う。」
 「ええ、それも手かと。ただ 姉さん、やっぱ何か引っかかるんですか?」
 「ど~も、シックリ来ないんだよ。それが、何かって言われるとね~。これが説明付かないんだけど。」
 「いや、気のせいじゃねえ。多分何処かの歯車か、合わせがうまく行ってねーんだ。そもそも話自体が可笑しい。」
 「「糸」ですか?」とソクが言った。
 「「種」も「畑」もだ。」辰は、深くため息をついた。 

問題の根源を「種」、状況を「畑」、経緯を「糸」、犠牲を「供物」等と言う。割と仲間内の隠語が多い社会である。

 「そもそも、お珠さんの御亭主は、何処の何方だ!」辰は声を荒げた。
 ソクも、綾も愕然とした。「問題そこかよ!」ふたりとも心の中で思った。

 寝る前に、ソクは、辰の剣捌きや、綾の技を思い出した。二人とも凄かったなぁとしみじみ思った。
まだ錆ついてはいないんだろうなとも思った。それに引き換え、自分は大丈夫だろうかという思いが過った。

 翌週水曜日早朝、辰と綾は浜松に入った。。ソクと切瑠は、別行動で浜松に入った。
古い組織なので、方違えや反ばい(門構えに下)をやるのである。ソクは、その事を切瑠に教えた。
切瑠は、一生懸命に覚えようとした。何より、敬愛する兄貴に一人前に扱ってもらえるのが嬉しかった。
こういった行為が、何かに影響するのかというと科学的に立証するのは難しい。ただ一瞬が生死を分かつ稼業では、
こういった非科学的な故事も大事にするのである。「人事を尽くして天命を待つ。」と言うが、当にその通りなのである。
 「いいか切瑠、俺達が事を構えるのは、多くの場合風水師や呪術師の類が相手だ。中には、今は信じられない様な技を
使う奴もいる。ただ恐れる事は無い。多くは、幻術やトリックだ。相手にそう信じ込ませる技だ。だからこっちもその
技を習得する必要がある。」
 「勝てるの?兄貴ぃ。」
 「俺も、お前の父さん、母さんも、今までは勝って来た。呪術には、時間が掛かる。こっちはスピードが勝負だ。相手もそれは
判っている。だから奴らは、秘かに見破られない様に行う。それを見破るのが仕事だ。」
 「兄貴ぃ、敵来るかなぁ。俺出来るかなぁ。」切瑠は、かなり不安げだった。
 「切瑠、安心しろ。大丈夫だ。自分と仲間を信じろ。何時も、自分を磨け。どんな事もヒントになる。川の流れだって、舞落ちる
木の葉だって、何かを語ってると思え。誰だって怖い時はある。ただ、その恐怖を、一旦脇に置いておく事が出来ないと
恐怖で判断が鈍ってしまう。」ソクは、自分にも言い聞かせる様に言った。


<4.瓢箪から駒>

 ソクは、むしろ安心した。こういう仕事は、「蛮勇」というのが、一番不味い。特に二十歳時分の蛮勇は、命取りの事が多い。
用尺師は、仕事の結果優先。殺し合いは、下策ある。やるなら一方的な抹殺を良しとする。むやみに割って入ったり、
切り込んだりはしないのが上等なのである。敵を倒す時に、大声で喚くのも未熟者の行為である。
 「兄貴、有難う。俺頑張る。」切瑠は少し笑顔を見せた。
 ソクは、一通り「禹歩」の作法を教えた。切瑠の呑み込みは早かった。

 二人が其処を立ち去ろうとすると、何やら変な匂いがした。
 「兄貴ぃ、何か変な匂いしない?」気付いたのは、切瑠の方が早かった。
「さすが姉さんの子だ。この匂いに気付くとは。」ソクはほくそ笑んだ。鹿の骨を焼く匂いだった。
 「真牡鹿の骨だ。近くでフトマニをやってる。何故?」そもそも、浜松は咄嗟に決めた場所だ。何か訳があった為では無い。
風上を辿ると少し上りになっている道があった。その道を登り切ると、右手に寺、左手は、岡の斜面になっていて、外人墓地が
ある。其処に数人の男女がいて、何やら祈っている。ただ遠目には、葬式か何かをしている様にしか見えない。
「ぱきっっ」小さな音がして、嗚咽が漏れた。
 「凶だな。」ソクは、呟いた、そしてほくそ笑んだ。占断の結果は、骨の割れ方からして「凶」らしかった。
 「凶?」思わず聞き返した切瑠の声に、フトマニをやっていた中の一人が反応した。
 「逃げるぞ。」距離は十分あったので、巧く撒いた。
 
 「ごめんなさい兄貴。俺のせいで。」
 「いいって、いいって。切瑠、気にすんな。奴らまだ俺らに気付いちゃあいない。真昼間からフトマニなんかやりやがって。
おそらく「水鏡」の奴らに違いない。実はな、風水師の「地の音」と、呪術師の「水鏡」は、宿敵同士なんだ。何百年もの
確執がある。時の政権やその主導権を取りあっているにも拘らず、同じ鞘の中に居るクセのある奴らだ。」
 「じゃあ兄貴。俺達用尺師は?」
 「どちらとも敵とも味方とも言えない。敵対した頭首も居たし、協調した時代もあったとの事だ。」
 「どの組織も国の為に動いてるのにね。」ソクは、切瑠の高校生らしい反応が新鮮だった。

 「よしそろそろ合流の時間だ。」ソク達は、駅前に向かった。 

「切瑠。視線に注意しろ。お前が何を見ているか、悟られないように、背後に気を配れ。」そう言い含めた。
 「うん。」切瑠も緊張していた。

 駅前では、綾が編夢を待っていた。裏通りの駐車場では、辰がスタンバっていた。切瑠をファーストフードの店内に残し、
ソクは通りに出た。切瑠は、雑誌を見ている振りをしていた。

 すると二人の男が、綾に近づいて来た。来た。ひとりは若く、もう一人は初老のがっしりとした体格であった。
 「どなたか御待ちで?」若い方が、ニヤツキながら寄って来た。
 「・・・」
 「女なら来ないぜ。」初老の男が凄んだ。

 ソクは、ハンカチを風に舞わした。3台の防犯カメラに引っ掛ける為だ。

 次の瞬間、男達の足元が一瞬光った様に見えた。そして2人は、ベンチに力無く座り込み、綾は立ち去った。

 ハンカチは、また風に舞ってカメラから外れた。後に残されたのは、ベンチに座る男二人。もちろん死体である。
綾の技は、「影縫い」と言われる。数種類のシナる鋼線を持ち歩く。端が輪になっていて、そこに指を通す。
振り降ろされた相手の刃筋に沿って鋼線をしならせ、顎の下から脳を刺す。相手の死角を突いて仕掛ける技である。
足元の影から針が出て来る様に見えるので「影縫い」とも「陽炎」とも呼ばれている。

「10分位様子を見ろ。二人の男に寄ってくる者がいたら、携帯を2度鳴らせ。話すな。」ソクに言われた通り、切瑠は、
見張っていた。切瑠が席を立とうとしたら、斜め後ろに座っていた男が、携帯に電話を掛けた。
 「何か様子がおかしい。」そう言って席を立った。
 その男は、切瑠にも、綾の仕掛けにも全く気付かなかった。ただバタバタと出ていった。
「さすがは、ソク兄貴だ。」切瑠は、深く深呼吸し安堵した。そして、ソクの読みと行動の周到さに感激らしき感情を覚えた。
切瑠は、自分の背後に敵が居るとは思わなかった。もし、母さんと二人の男を凝視していれば、怪しまれたかもしれない。
いきなり電話したら、完全にバレたかもしれない。もう一度深呼吸をしたら、なんだか震えて来た。

 すぐに車が来て、殺された二人を乗せていった。切瑠は、ソクの携帯を2度鳴らすと、車のナンバーの写真を撮った。
周囲には、バレ無い様に「飲みすぎだわ。」等と言ってクルマに乗せた。もちろん往来の人は、見ても怪しんでない。

 ソクは、辰と合流して車の後を付けた。切瑠は、ソクに写メールを送り、綾とホテルを目指した。
 途中切瑠は、興奮を抑えられない様であった。
 「母さん。兄貴はすごいね!ねぇ兄貴って強いの?」初めてソクと組んで気が昂ぶっていた。
 「強いよ。母さんが知ってる、敵や味方の誰よりも。」
 「父さんとどっちが強い?」少し不安げに聞いた。
 「初めて戦えば、ソクが勝つかもね。ただ父さんは、ソクの技を知ってる。だから五分五分かな。」
 「ふ~ん。じゃあ母さんは?」
 「母さん位の腕の人間は、何人も居たよ。ソクと、父さんは別格。」綾は、ニッコリ笑った。切瑠もなんだか嬉しかった。

 一方「水鏡」の隠れ家は、大変な事になっていた。何処の誰かも判らない人間に、瞬時にして二人葬られたのだから。
水鏡は、呪詛を行う「鬼道寮」と戦闘や工作を実行する「隠行寮」に分かれる。殺された二人は、「隠行寮」のトップクラスの
殺し屋の二人だった。
 「この二人をして瞬時にこのザマだ!これから戦えるのか!」鬼道寮の者が叫んだ。 
 「お前は、何を見ていた。」さらに見張りの者に詰め寄った。
 「一瞬の出来事でして・・・。何が起きたか全く・・・。近くに誰も居ませんでしたし、・・・もちろん昼間ですから通行人は
いましたが・・・。」
 「まるで話にならん!通行人の中に暗殺者が紛れ込んでたのか?」
 「おそらく・・・。」
 「おそらくとは何だ!」
 「さっきから他人ばかり責めているが、おぬしら鬼道寮の衆は、何をやってたんだ?人が命を掛けている最中に占いか?
よもや通行人に怪しまれてはおらんだろうな~。」隠行寮の者が言い返した。
 
(見られていたし、不審者を(切瑠の事)取り逃がしもした。)

 鬼道寮派は、慌てて繕った。
 「兎も角、殺された二人より強力な布陣で願いたい。まさかもう弾切れではあるまいな。」
 「言われるまでもない!そちらこそ、早急に準備されよ!」隠行寮派も捨て台詞を吐いた。
 「それにしても、「地の音」がこんなに早く嗅ぎつけるとはな。」完全に当てが外れているがまだ気がつかない。
 「風水師の組織は、かなり弱体化していたはずなんだが。」
 「それはそうと、嗅ぎまわってた若い女の所在が解らん。そいつも「地の音」の者か?」鬼道寮の者が問いかけた。
 「おそらくそうではないかと。伊豆の山中で崖下へ落としたとの報告があったが・・・。」
 「又恐らくか!まったく、隠行寮は、仕事が荒い!せめて確認してから葬ればいいものを。」
 「何を!」
 「まあ待て。仲間内で揉めても始まらん。天皇が秘事を止めてようやく100年経つ。これからが、我らの悲願を
成し遂げる時ぞ。」

 程なくしてお開きとなり、そこに居合わせた10人程の者は、バラバラと建物から出てきた。辰とソクに監視されているのには、
全く気付いていない。

 「お嬢ちゃんは、中に居るかねぇ?」辰はため息をついた。
 「居なさそうですね。最後の奴が、ドアに鍵かけてましたから。」
 「誰か残ってるなら見張りも置くし、鍵は中の奴が掛けるか。」きっちりみてやがると辰は思った。
 「それにしても、何処に消えた。殺されたか?」辰は言った。
 「かもしれませんね。」ソクも表情が暗くなった。
 「一旦合流するか。」辰達は、綾のいるホテルに向かった。

 「あっ父さん、兄貴ぃ、御帰りなさい。」切瑠は、待ちかねてた。
 「どうだった?」綾は心配そうだった。
 「隠れ家らしき処は、突き止めたが、平素は空だ。何か在る時集まるようだ。近くに見張れる所が無いんで、
張るとかえって怪しまれる。」建物は、畑の脇にある小屋であった。
 「アタシが殺った二人は、「女は来ない」って言ってたから捕まってるか、最悪ヤラレタか・・・。」
 「辰兄い。彼女何を調べてたんでしょうかねぇ。俺らが知らない事を色々知ってるみたいで・・・。こんな事なら
兄いに合わせときゃあ良かった。」ソクは、後悔した。
 「いや。ソクよ。お前の判断は正しい、むしろ感謝してる。お前だからここまで繋がったんだ。俺のところにいきなり来られたら、
逆に俺が殺っちまったかもしれねぇ。今だから冷静でいられるが、やはり、心のどこかで、生活や家族を守りたい。
仇敵が来るかもしれない。来たらどうしようって事は、考えなかったといったら嘘になる。第一、「もう引退しました。」って
言っても引きさがる敵が居る訳ゃないわな~。だったら喋る前に体が動いちまう。」辰は続けたた。
 「何時も気を張ってるところへいきなり来て、「お珠の孫です。」って言ったって普通は信じねぇ。」
 「俺も、初めて会った時、鬼爪布掴んじゃいました。」ソクは、少し笑った。
 「ソク、あんた鬼爪布何時も持ち歩いてんの?」綾が不思議そうに聞いた。
 「ええ、何かこう、習慣というか。俺には、守る物は無いんですけど。」
 「因果な稼業だなあ。」辰は、しみじみと言った。
 3人の会話を黙って聞いてた切瑠の腹が「ぐうぅぅ~」と鳴った。
 「お腹減った~。」切瑠は、さっきから食事の時間を待ちかねていた様であった。
 「じゃあ皆で飯にするか?」辰は笑った。
 「やった~。」切瑠は、一気に元気になった。



<5.鶏口となるも、牛後と成るなかれ>

 夕飯は、切瑠のリクエストで鰻だった。ソクは、昔は皆でワイワイ食べた事が懐かしく思い出された。
 切瑠は、まだ小柄で細身だが、高校生らしく食欲は旺盛である。
 「お腹ペコペコだよ。」
 「ソク。切瑠の初仕事どうだった?足でまといにならなかった?」綾は尋ねた。
 「俺ちゃんとやったよ。ねっ兄貴。」切瑠は、催促する様に言った。
 「ああ。良く出来た。初めてにしては、上出来だ。」ソクは、笑って言った。
 「ほらねっ。」切瑠は嬉しそうだった。
 「でもね、兄貴と別れてハンバーガー店の2Fに上がって、窓際の席に座ったんだ。兄貴に言われた通り、
何にも見ない振りしてて、帰ろうと思ったら、後ろの奴が携帯で「様子がおかしい。」とか言った時は、
心臓が止まるかと思った。」切瑠は、まだ興奮していた。
 「切瑠。まだ、色々と教える事はあるんだ。父さん、母さんの言葉もそうだし、俺の言葉や俺が教えられた言葉、
何百年の間に編み出され紡がれた言葉。思いつく限り伝えるから、頭の隅にでも置いておいてくれ。」ソクは言った。
 「はい。」切瑠の顔つきが変わった。辰は、嬉しそうに聞いていた。
 
 ホテルに戻った。念の為辰と綾、ソクと切瑠で別々に部屋を取った。
 ソクは、カーテンを引いた。部屋の中を一通りチェックすると、切瑠に話はじめた。
 「いいか切瑠。たとえば、今の様な平和な時代には、実戦経験なんて、余程の事が無いと積めない。
だから、道場で学ぶ事が多くなる。いくら練習しても、的は打ち返してこない。そこが大きな落とし穴だと思え。」
 ソクは、枕を積み上げた。
 「切瑠。ここにその割り箸を手裏剣に見立てて投げてみろ。細い方が、刃だ。割り箸は、軽いから
余程手をしならせないとだめだぞ。」
 最初は、上手くいかなかったが、ソクのアドバイスでだんだん飛ぶ様になってきた。ただし当らない。
 「手裏剣はな、「残心」と言って、刺さるのをイメージして、その行く先に「心が残る」ようにするんだ。
投げっぱなしじゃなくて、指も的に向けたままだ。刺さる事をイメージし続けるんだ。」
 だんだん当る様になってきた。切瑠は、面白く成って来た。ソクの一言でこうも違うものかと思った。
 「切瑠、今度は俺に向かってなげてみろ。」ソクは、右手に鬼爪布を持った。
 「いくよ、兄貴。」切瑠は、割り箸を投げた。その瞬間、ソクは、鬼爪布を繰り出した。ソクの鬼爪布が
ウネリ、割り箸を弾き、切瑠の喉元で止まった。切瑠は、判っていても少し怖かった。

 「と、練習場ではこの様に教える。教わった方もこの通りにやる。それが、長い間みに染み着く。
さあ実戦だ。手裏剣を投げた後の僅か1~2秒のこの静止が、命取りになる。動きながらの「残心」は、
結構難しいんだ。だから止まってしまう。」
 「て事は~。その1秒に満たない時間でケリをつけるって事か~。兄貴もう一回やっていい?」
切瑠は、今度は3本の割り箸を持った。2本は右手、もう一本は左手である。
 「いくよ。」切瑠は、微妙に時間と角度をずらして投げた。
ソクの鬼爪布は、蛇の様にうねり、割り箸を弾き飛ばし、またも切瑠の目前で止まった。
 「うわぁ~。やっぱ駄目か。」切瑠は、残念そうに言った。
よく見ると、切瑠は、少し左に移動していた。
「なかなかの天分だな。」ソクは、思った。言った事を瞬時に理解し、行動出来る。2度に分けて3本放てば、
多少の時間は稼げる。2投目の前に少し動けば、危険は少ない。
「持って産まれた才能か?もしくは、辰兄いの仕込みか?」ソクは、切瑠の将来が頼もしかった。
 「今日はここまでだ。寝るか。」
 「は~い。兄貴ぃ、色々教えてくれて有難う。俺、父さんみたいに成れるかなぁ?」
 「なれるさ、きっと。ただ、目標は高いぞ。」
 「うん!がんばる!」切瑠の笑顔を見て、ソクは、時分の10代の頃を思い出していた。自分は、こんな
笑顔が出来ただろうか?何時も何処かで、スネてた様な感じだった。あの頃仲間がいなければ、どうなっていた
だろうか?皆「ソク!ソク!」と可愛がってくれた。お珠さんも、辰兄いも、綾の姉さんもそのほかにもいっぱいの
用尺師の輪の中に置いてもらった。
「切瑠を一人前にする事が恩返しでいいですよね。」ソクは、一人天国の仲間に呟き、眠りに着いた。

 翌朝は、皆で作戦の練り直しに掛かった。まずお珠さんの曾孫の探索からはじめようという事になった。
 「最後は、厚木あたりに居た。そこで、ソクに電話し、水曜に浜松の約束をして消息不明になった。」
綾は続けた。
 「もともと何処から来たの?」
 「さあ、それが、皆目。」ソクは、すまなそうに言った。
 「何かこう、殺気らしきものを感じなかったんで「人を殺せるか?」って聞いたんです。「無理だ。」って
言うんでそのまま帰しちゃいました。」
 「その後、北上して厚木か。ただ、ソクの所に来た時は、すでに俺達の居場所も大まかに掴んでいた
節もある。」辰は、ため息をついた。
 「ええ。繋ぎは、自分がするから、誰に声掛けますかって言いましたから。」
 「どーやって繋ぐ気でいたんだ。」辰も不思議そうだった。
 「判った!ダウンジングだ!」切瑠が笑いながら言った。
 「そんな訳無いでしょ。」綾も笑った。
 「いや、有るかもしれない。」辰は言った。
 「兄いまさか、白金の源さんですか?」ソクは言った。
 「俺もそれを考えた。」
 「ほ~らねっ。」切瑠は得意げだ。
 「出鱈目言って当っただけでしょ!」と綾はあきらめ顔で言い「で、会った事あるの?」と辰に尋ねた。
 「いや、俺らが会える訳無いだろ。お珠さんや、族長位しか会えなかったからな。」
 「誰それ?」切瑠は、興味津津だ。
 「切瑠、この間浜松で禹歩を教えただろ、そういった事の専門家だ。その他にも、組織の動く日取りや、
方角を細かく差配する人だ。多くの場合は、その人の立てた卦によって動いた。」ソクは教えた。
 「どんな人なのかな~?」切瑠は、かなり興味がある様だった。
 「謎だ。ただ、もうかなりの高齢だ。奇門遁行、六壬神課、易や宗教系、占い、方術の類の
知識は半端じゃない。得意は、心易といって、鳥の鳴き声や電話のベルの鳴った回数で占う事をする。
お珠さんなら、曾孫を引き合わせているかもな。」辰は言った。
 「最後にいたのは、名古屋の伏見だったと思いますが。」ソクは言った。
 「今から行く?」返事は分かっているが、綾は聞いた。
 「むろんだ。」と辰は答えた。

 一行は、名古屋に赴いた。伏見で降りて、代官町をめざした。あまり広くない通りに、漢方薬を
売っている店や、なにやら中庭の広い店がある。町の中にこんな空間があるのかと思える位に
一見のどかな所である。
 「余所者がうろつくとすぐに分かるようなところだな。」辰は呟いた。
 「で、どうするの?」切瑠は尋ねた。
 「来るよ、向こうから。」辰は自信ありげに答えた。
 「そんな事言ったって、知らせた訳でもないし。」綾は半ばあきれた様に言った。
 「いや、そういうお人だ。」辰は断言した。

 どれ位経っただろうか。切瑠には、とても長く感じた。

 細い道の向こうから、女の人に手を引かれて、老人がやって来た。見るからに曰くありげであった。
よく見ると、手を引いているのは、編夢であった。

「辰よ、息災であったか?綾もソクも来ているのか。御苦労じゃったな。お若いのは新顔じゃな。」
「白金の長老。こいつは、私と綾の息子です。」
「切瑠と言います。宜しくお願いします。」何時にもまして神妙だった。
 白金の源蔵は、大半の事は分かっている。卦を起てて事前に判断する。余計な事は聞かない、
見ない、探らない。かえって、そこに畏怖を感じる。

「どうやって知ったんだろう?やっぱ占いかな?アニメみたいだ。」切瑠は、心の中で思った。
「切瑠とやら。お前さん達が来るのが、どうやって分かったか不思議かね?」
「はい!」心を読まれたようで切瑠は慌てた。
「風角占の応用じゃよ。」
「あのぅ、鳥の鳴き声とかで占うのですか?」
「ソクに教わったか。」
切瑠はまたドキッとした。源蔵は、老いてはいるが、好々爺の合間に時折見せる眼光は、かなり鋭い。
「食事でもするか。」源蔵は、切瑠にやさしく微笑み掛けてそう言った。
一行は後に続いた。
 小さな中華料理屋だった。店の横には、屋台用の軽トラックがある。夜は店舗ではなく屋台で営業に出る
様である。一行が席に付くとすぐに料理が並べられた、料理を持って来た男の顔を見て、辰は驚いた。
「ひゃくみ!?」ソクも驚いた。
 その男は、「百味の宗治」という毒殺専門の大男である。ソクは、思わず涙が出た。死んだものと思われて
いたからである。 
 「お前なー。どんだけ心配したと思ってるんだ。」ソクは、宗治の腕を掴んだ。
 「ソク。ごめんよ、心配掛けてごめんよ。」宗治も泣きながらソクに謝った。
ソクと宗治は、歳も近く仲が良かった。解散する数年前、対峙する組織に潜入し、殺されたと思われていた。
 「骸教の厨房に潜り込んだ。その裏口に子犬が捨てられてたんだ。死にそうだったから、可哀そうに思って薬つくった。
そしたら帰り途で、奴らの車にはねられて、その車にしばらく乗せられて、捨てられた。」宗治はたどたどしく喋る。
 「もう崖下でもう死ぬのかと思った、死んでもいいかと思った。白金の長老に助けられた。」
宗治は、人一倍力持ちで、体も頑丈だった。武道の達人でもあるので、とっさに受け身を取ったのである。
通常なら跳ねられれば死んでいる事故なので、相手も十分確認しなかったのかもしれない。
 「辰兄いも、綾姉さんもすみませんでした。」宗治は、ぺこぺこ謝った。
 「許してやってくれ、わしが固く口止めしたんじゃ。一番辛かったのは宗治じゃろう。」
 「白金の長老、許すもなにも。なあソク。生きててくれりゃあ、万事良しじゃないですか。」辰も嬉しかった。
 「ソク、良かったね。」綾は言った。


<6.餅は餅屋>

 百味の宗治は、薬学の専門である。漢方はもちろん、薬草、鉱毒、新薬にも精通しているし、
化学の分野にも強い。解毒剤の調合はお手の物である。ただ、基本的には心根が優しく、
病気を治す薬を調合するのが好きなのである。また、彼の作る薬膳は、すこぶる美味で仲間内でも評判だった。
 「組織の解体は、目前だった。長老院か、族長の誰もが感じていた。ただお珠以外口に出さんかっただけじゃ。
良い頃会いだったから、宗治は、死んだ事にして外した。次の集結までの力の温存にしておいた。わしからも
お詫びする。許しとくれ。」源蔵は頭をさげた。
 「白金の長老。もったいねえ、止めてくだせぇ。俺らは、いつでも、白金の源蔵のお差配で動いた。今もそれに
変わりはねえ。今回だって同じ事じゃないですか。そうだろお前ら。」
 こういった時の辰の筋通しは迫力がある。当然、綾もソクも異論を挟む気は無い。
 「また頼むぜ宗治。」ソクは言った。
 「みんなの足引っ張らないように気をつけるよ。お前切瑠かい?」宗治は切瑠に声を掛けた。
 「そうです。高校生になりました。宜しくお願いいたします。」
 宗治は、表で動く事が多いので、切瑠との面識は、ソク程無かったが、尊敬する辰の息子が立派に
成っていて嬉しかった。

 「早速だが、宗治これを見てくれ。」辰は、ソクが持って来た毒矢を見せた。
 宗治は、くんくん嗅いでペロッと舐めた。切瑠は、仰天して固まった。
「毒です。毒・・・。」
「切瑠。宗治は、毒見役の家柄なんだ。たいていの毒は大丈夫だ。」実際宗治はなんともない。
「少し漆が入ってるね。このご時世じゃあ漆器を扱う店だって、持ってないよ。作家筋か、産地か。」
「北関東から東北にかけて、岩手県か?広域だな。」ソクは言った。
「あと、京都あたり。」綾が言った。
「俺たちがそうであるように、奴らだって、表裏の繋がりを持つ。恐らく古い農家でお抱えがあるんだろう。
まさか「地の音御用達」の看板は掲げてないし、口も割らない。漆からは、無理だな。」辰は言った。
「お前さん達ならどこへ隠れる?森の中か?まさか、漆畑にはおるまい、人の中が一番隠れやすい。
それこそ表札の出ていない工房を洗うべきじゃな。今は職人は喰えん。表札も出さんで喰えているのは
それなりの訳や理由があるからじゃ。」源蔵は続けた。「ただこの人数じゃ埒があかん。」
 「白金の長老。差し出がましい様ですが、一つ伺っても。」ソクは言った。
 「今まで動いてたか聞きたいか。」お見通しである。
 「恐れいります。」
 「糸役だけじゃ、家柄な。ただ、お前ら二人の居場所を探すのは手古摺った。」そう言って源蔵は笑った。
 確かに、源蔵もお珠も編夢も宗治も全て糸役である。因みに宗治の系統は、毒見と護衛も兼ねるので
外見のおっとりした雰囲気とはうらはらに、実力はかなりのものである。いざとなったら、身を盾に陛下を
お守りする役目なので、大柄な物も多い。ただ、幼い頃から毒に対する耐性を付けさす育て方をするので、
御役目に出る前に、死んでしまう物も多かったといわれている。
 「毒矢だって、一朝一夕に出来るもんじゃない。色んな流派で作り方も解毒剤も違う。特に毒より解毒剤の
方が作るのに時間がかかるんだ。だからといって、この筋の者が解毒剤を持ち歩かない筈がない。」
 「両方が繋がれば当りか。毒作って、解毒剤作って、吹き矢作って、練習して。はーーー、手間暇の掛かる
奴らだな。」
 「それですぐにやられちゃったら何にもならないね。」切瑠は思わず喋って、しまったと思った。完全にすべった。
 「その通りだよ、切瑠。」宗治が優しく言った。「何でこんな事してるのか?俺達のする事に意義があるのか?
役に立っているのか?お前もいずれブチ当たる壁だよ。今から良く考えな。急に答えは出ないからね。
皆がお菓子食べてる時に、俺は毒を食べさせられてた。陛下の為って言ったて、俺は陛下に拝謁する事もないし。
向こうも俺の事なんか知らない。じゃあ何の為にやるのかって聞かれたって、答えなんかそうすぐに見つからないんだよ。」
 毒見役ならではの実感は、切瑠には、重く感じた。宗治は、ニコニコと優しく笑っていた。
 「さあ出来たよ。」宗治は、チャーハンを持って来た。
 「うわ~凄ぇ~。」切瑠は大喜びだ。

 次の日の朝、何となく目が覚めて部屋を出ると、何やら音がする。そっと覗こうとしたら、
「誰だ?」と言われた。
 「僕です。切瑠です。」かなりびっくりした。「宗治の兄貴。すみません。目が覚めちゃって。」
 「なんだ、切瑠か。」宗治の顔は、また優しくなった。
 「空手の練習ですか?」切瑠は聞いた。
 「これはね、空手でも、功夫でも無いんだよ。骨法といってね別系統の体術さ。」宗治はそう言って練習をやめた。
 「少しづつ教えてあげるよ。ただし、人前ではやたら使わない。敵と対峙する時だけだ。こういった特殊な体技は、
見られると素性がバレる恐れがあるからね。それだけに余程でないと、仕掛けられないんだ。面倒かい?
そして、技を見せた相手は、必ず殺す。でないと、自分や仲間が危うくなるからね。いいね。」
 「はい。宜しくお願いします。」切瑠は、圧倒された。この宗治の兄貴も一筋縄では行かない用尺師だと感じた。
ソクや、辰とは違う何かを感じた。思えば、僅か数日で急に色々な人や物事と出会った。今まで生きてきた中で
最も濃い時間に思えた。宗治は、基本的な体の捌きや日々の鍛錬方法を、実に分かりやすく切瑠に教えた。
 「体術の肝心なところは、自分が強くなったと思わない事だよ。強がらない、無理をしない。それが肝心だよ。
年齢や、その日の自分の体調、色々な条件で戦い方は変わるんだよ。自分は、強く無い。そう思って、いつも
策を練るんだ。」宗治は、切瑠に諭した。ソクと同じく、若年の強がりが危険だという事を知っているからである。
切瑠は、正座してじっと聞いていた。
 そうしているうちに、ソクが降りて来た。
 「切瑠、起きてたのか?」
 「なんか目がさえちゃって。」切瑠は、宗治の話に気が昂ぶっていた。
 「ソク、久しぶりにやるかい?」宗治が言った。
 「おう。」そう言うと、互いに腕を当て出した。二人の腕は撓る様で、まるでムチみたいだった。
次は、足蹴りをしだした。暫くやっていて、急に構えた。間合いを取ると、お互い打って出た。
切瑠には、ソクの方が一瞬早く打ち込んだ様に感じた。
 「やっぱ、宗治には敵わん。」ソクは、言った。
 「久しぶりでこれじゃあな。ソクは凄いよ。勘は、すぐに戻るよ。」宗治は、なんだか嬉しそうだった。
 「おっやってるな!おれもまぜろ。」辰が入ってきた。
 「兄いと宗治がやると、店が壊れちまう。」ソクは笑った。
 「さわりだけだ、さわりだけ。」辰は言って、構えた。宗治もさっきとは、違う構えを取った。
 急に空気が張り詰めた。
 「どうかしたのかい!!」綾が慌てて降りて来て、二人を見てため息をついた。
「朝っぱらから止めとくれよ。あんたたちは、寄ると どーして 何時もこうなんだい!敵でも来たかと思ったじゃないか!」
 そういって呆れながらまた2階に戻った。3人とも顔を見合わせクスクス笑った。切瑠も楽しくなった。
ソクもなんだか昔に戻った様で楽しかった。
 「宗治兄貴、骨法って棒とか刀とか使わないの?」切瑠は、なんとなくカンフー映画のイメージが拭えない様であった。
 「使うよ。ただし基本は、丸腰だ。武器を持てる所ばかりでは無いからね。敵もそういう所を狙うから、主に
素手の練習に多くの時間を割くんだよ。武器を使うのにも、基本の素手が納められていればより威力が増すんだよ。」
 宗治は、厨房に入って、朝食を作りはじめた。
 綾も降りてきて手伝おうとしたら。
 「姉さんは座っていてくだされば。」と宗治は言った。
 「いいって、いいって、宗治、手伝うよ。」と手伝い出した。宗治は、恐縮し料理をはじめた。ほどなくして、
 「切瑠、長老に声を掛けてきてくれないか。」と宗治に言われ、二階に上がろうとしたところに、源蔵が現れた。
 「長老おはようございます。」一同挨拶をし、朝食を食べた。

 朝食も摂り終えて、辰が口を開いた。
 「長老。水鏡の狙いは何なのですか?」
 「この国を壊滅する事による世界大戦じゃ。準備は、刻々とすすめられておる。今は、この国の耐性を調べておる。」
 「耐性?ですか。」ソクは聞いた。
 「そうじゃ、たとえば、病原菌に対して国や自治体がどう動くか。地震等の天災にどう対処するか。全て、人為的作為的に
起こされているが、一般の市民は気付かんように調査しておる。蚊や虫を使い病原菌をばらまいたりするのも
そのためじゃ。」
 「バイオ兵器に何日で対処出来るか係数を取ってるか。」ソクは言った。
 「いまの所は、国もようやっとる。」源蔵は言った。
 「となると、水鏡単独じゃないですね。」辰は言った。
 「その通りじゃ。恐らく、大陸筋のモンがはいっとる。」
 「ロウ規にも乱れですか?」辰も突っ込んで聞いた。
 「悲しいかなそう言う事じゃ。」源蔵は、ため息らしきものをついた。

 「兄貴ぃ、ロウキって?」切瑠は聞いた。
 「簡単に言えば、裏社会の道徳や、仁義、掟みたいなものだ。」
 「ふぅ~ん。」切瑠には、今一つ理解できなかった。


<7.蛙の子は蛙>

 「青や紅の系統は、こういった活動はしまい。厄介なのは別の組織じゃ。」源蔵は言った。
 「黒を冠につけるもの達がいると聞きましたが。」ソクは、問いかけた。
 「そうやもしれん。青や紅ほど長い歴史の中での接触は無い。そこが厄介じゃ。」
 「まさに、ロウ規の乱れですか。」そう言うと、ソクは黙った。

 「皆一時、本業に戻るがいい。編夢の報告を待って沙汰する。静岡の浅間神社。」
 一同がニヤッと笑ったように切瑠には見えた。
 
 皆と別れ、ソクは、その足で高野口へ向かった。
 昔からの織元で、代々布役の布を織っている一門の一人である「羅門の周吉」を訪ねる為である。
各役に専属の協力者の集団があり、これを「川上」と呼んでいる。
 「ここら辺も変わっちまったな。」駅に降り立ちソクはそう思った。
 程なくして、織元の工場に着いた。

 「はかるさん!」洗い張りをしていた女性が、ソクの顔を見て絶句した。周吉の娘であった。
その目からは、みるみる涙があふれ出た。何かを言いだそうとしてているが、言葉にならない。
 「お久しぶりです。」ソクはその女性を見つめた。「翔子さんもお変わりなく。」
 「変わりすぎ無くて困ってるよ。」そう言って、翔子の後ろから出てきたのは、羅門の周吉だった。
 「親方御無沙汰しております。」ソクは、深々とと頭を下げた。
 「まあ入り。」周吉はそう言って。母屋に入っていった。翔子は、仕事をまとめ、小走りで工場の方に
駆けていった。
 「お前さんが来たちゅう事は、仕事か?」周吉は単刀直入に切り出した。
 「はい。昨日まで白金の長老とおりました。」ソクは、千手のお珠さんの曾孫の件から、天津金木を
埋めた神社での事、浜松での出来事、等事の詳細を話した。そこへ、翔子がお茶を持って入って来た。
「まあおあがり。」周吉は、タバコを手に取り、トイレに行くと言って席を立った。
何となく話がしづらっかった。翔子は、お茶を出したまま、ソクの横に正座していた。
 川を渡る風であろうか、時折室内に風が入り翔子の髪を揺らした。
 「あのぅ。翔子さん。」急にソクは話かけた。
 「はっ はい!」翔子も緊張気味で返事にならなかった。。もう十年も会って無いのだ。何かを話そうにも
きっかけが無いのである。翔子は、ソクを見つめるが、ソクも話掛けといて、その後が詰まった。すると
 「見合いじゃあるまいし、何やってんだ。」周吉が戻って来た。
 「台所片づけてきます。」翔子は、顔を真っ赤にして席を立った。

 羅門の周吉も、お珠や辰同様ソクを可愛がった。ただ周吉の場合 お珠達と違うのは、憐れみや仲間意識より
自分の織る「鬼爪布」の使い手としての惚れ込みが先に来ていた。周吉は、根っからの職人である。
頑固一徹と言う様な顔は見せないが、「使いこなせるものならやってみやがれ!」的な所がある。
ソクは、それに十二分に応え、また細かい注文を付け、その出来あいの差が分かるのである。
職人にとって、これほどの冥利は無い。事実、周吉は、ソクと布の話をするのが好きなのである。
機械を変えたのことの、天候や湿度の事、作柄や織りあがり等々時間があると何時までもソクと話をしている。
翔子は、そんな二人を見るのが好きであった。もちろん、用尺師の事も、ソクが「座枯らし」と呼ばれる程の
スゴ腕の殺し屋だという事も知っている。その殺しに使う道具を用立てているのは、他ならぬ父親なのである。
 翔子は、ソクが初恋の相手でもあり、今でもソクの事を好きでいる。だから、父親のしがない工場を手伝いながら、
またソクに会えるのを10年も待っていたのかもしれない。
 「ソクよ、見てくれ。」10年来だというのに、新しい布を持って来た。
 「親方、こっ これは。」ソクの目が輝いた。箱には、「磁刀布」「流水布」と書いてあった。
 「磁刀布は、鋼線の変わりにセラミックの刃を鎖帷子の様に織りこんである。流水布は、縦糸が麻とレーヨンの
交織で、普段は風を含んでなびくが、水を含むと少し硬くなる。使えるか?」周吉は悪戯っぽく笑った。
 
 ソクは、工場に行き、布を繰り出した。布は、蛇の様にうねり棚の後ろの的を切り裂いた。
 「まさか。」と言って翔子の方を見た。
 「分かるか?さすがはソクだ。それを織ったんは、翔子じゃよ。」そう言って周吉は笑った。
 「親方のとは、重さも、打ち込みも違うんです。でも町工場でセラミックなんて。しかし、この大きさでは、耐久性が。」
 「もちろん緊急用じゃ、例えば飛行機の中とかな。三人いや、お前さんの腕なら四人までじゃな。」
 「サウナの中でも使えますね。」ソクは、笑ってもう片方の布を手に取った。薄手の軽い紗の様な布で、風に乗せて
繰り出す事が出来る。手元を濡らすと鞭の様に、先を濡らすと分銅の様につかえる。ソクは、唸った。
状況で攻撃の体系を変える事が出来る。
 「持ってけ。何世紀かに一度の傑作だ。」周吉は言った。
 「有難うございます、羅門の親方。翔子さんも有難う。」
 「今日は、ゆっくりしてけ。バスは、明日の7時の始発まで来ん。」

その後夜遅くまでソクは、周吉と話し込んだ。用尺師の今後や、敵対する「水鏡」について、日常の下世話な話から
はては世界情勢や政治についてまで。あらゆる話題が出てきた。翔子は、昔の様に横に座っている。
ただ、辰の息子についてはあえて触れなかった。本来裏稼業では、あまり仲間内の事は話さない。いざという時の為に
情報が漏れないようにする為である。ただ、「羅門の周吉」は、其処ら辺の者とは、確実に一線を画す人物である。
その信頼は、今も揺るぎない。通常用尺師は、用尺師同志の繋がりとは別に、「布役」「針役」「糸役」それぞれに
こういった協力者がいる。余程の事が無いと「針役」が、「布役」の織元に会う事は無い。だから、辰も「羅門の周吉」は
知らない。ソクも、辰の協力者は、知らない。ただ、大仕込をする時は、協力者(風上)同志で会い、話をつける。
周吉は、協力者(風上)同志の束ね役もやっているので、その他の「役」の協力者とは面識がある。


 18位の時には、よく足を運んだ。その時は、翔子はまだ中学生であった。色んな思い出が脳裏をかすめた。
羅門の周吉は、職人にしてはあまり酒もタバコものまない。嗜む程度である。ただ、無類の話好きである。
もっとも、話し相手は選ぶが、ソクと話し出すと、止まらないのである。
 「お父さんったら、測瑠さんがくると、いつも話が止まんないんだから~。」
そう言って、遅くなる話を切り上げさせた。そして、ソクが席を立つと後について部屋を出る。
ソクが、部屋に戻るまでの廊下で話す僅か1~2分が、翔子にとってとても幸せな時間であった。
 「よく、この廊下で話をしましたね。」ソクは、ニッコリ笑って言った。
 「ええ。」翔子は、そんな些細な事を覚えていてくれた事に感激した。翔子にとっては、大事な思い出であったからである。
そんなこと普通覚えてないであろうと思っていただけに、無性に嬉しかった。
ソクの今を聞きたいと思ったが、ぐっとこらえた。ソクは、続けた。
 「僕の本名を呼ぶのは、翔子さんだけですから。・・・ 多分、これからも。」ソクは、何の気なしに言ったが、
翔子にとっては、重たい言葉だった。返事が出なかった。


 「親方、翔子さん。また来ます。」
翌日「鬼爪布」も受け取るとソクは、帰っていった。周吉の後ろで、今はただ見送るしかない自分の気持ちの
やり所に翔子は、落ち着かない様子でソワソワ、モジモジしていた。

 「おい、付いて行ってもいいんだぜ。」ソクが、遠くで振り返り、手を振って頭を下げると、周吉は翔子に言った。

 かなり間が空いて答えた。

 「何言ってんの。誰が、晩御飯作ったり、洗い張りしたりするの?他にもやらなきゃならない事いっぱいあるんだから。
第一 用尺師に付いて回る織元の話なんて聞いた事も無いわよ。」
 そう言って台所に向かった。コップを洗いながら、久しぶりに会えた嬉しさ、普通他人なら忘れてしまって当然の事を
覚えていてくれた嬉しさ、さらに又会えるであろう嬉しさ。いろいろな嬉しさと、そばに居れない悲しさと寂しさが
翔子の胸を痛めた。コップを洗いながら涙があふれた。泣き声が、聞こえないように多めに水を出して洗い物をした。
戸棚にしまう時、父母の使う食器の横に、今ソクの使った食器を置き、その横に自分の何時も使う食器を置いた。
特別信心深い訳でもないのに、どうゆう訳か手を合わせていた。なんとなく、そうせずにはいられなかった。

 何度も深呼吸し、鏡を見た。泣いていたのを悟られない様にして、仕事場に行った。

 親友でもあったソクの父親や、世話になったソクの祖父、自分の両親。周吉の脳裏にも、色んな思いが廻った。
 「蛙の子は、蛙やな。」
 かすかに聞こえる翔子のすすり泣きを聞きながら。周吉は、タバコを燻らせた。






       続く


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