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. | 軟部人類学の創設者 足立文太郎博士 |
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足立文太郎 軟部人類学 の創始者 板垣勘四郎 山葵の栽培 開拓の祖 石渡秀雄 新しい椎茸 栽培法開拓 鈴木 満 画 家 |
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文太郎は明治32年(1899)から同37年(1904)までドイツのストラスブルグ大学に留学、帰国後、京都大学医学部教授、同大医学部長を経て日本学士会員に推されたましが、その間畢生の事業である日本人体質の研究に没頭、軟部人類学の創設者として、学界に重きをなしました。 この間、革靴を買う経済的な余裕もなく、ゴム靴や高下駄ばきで大学へ通い、タバコもナタマメぎせるできざみタバコをすい、大学の小使とまちがえられた時期を長い間続けていました。また一方では、豪放右柘落斗酒なお辞せずという一面もあり弟子たちから未だに慕われています。 |
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研究に没頭するあまり家計は非常に苦しかったようでした。しかし初志をまげず、その業績は、日本学士院恩賜賞、日本ゲーテ協会第一回ゲーテ賞、ドイツ政府から贈られた赤十字第一等名誉賞を始めとしドイツ、ロシア、オーストリア、ポーランド、アルゼンチン各国学士院から名誉会員に推されるなど、数々の栄誉に飾られています。 |
足立文太郎 | 1865年(慶応 元) 1894年(明治27) 1899年(明治32) 1904年(明治37) 1930年(昭和 5) 1954年(昭和20) |
上狩野村 (天城湯ヶ島町) に生まれる 帝国(東京)大学医科卒業 ドイツに入学 京都帝国大学医学部教授となる。 同大学医学部部長となる。 日本学士院会員となる。 大阪高医(大阪医大)初代校長となる。 「日本人の動脈系統」の研究で日本学士院賞受賞。 81歳で逝去 |