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. | 山葵の栽培開拓の祖 板垣勘四郎 |
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足立文太郎 軟部人類学 の創始者 板垣勘四郎 山葵の栽培 開拓の祖 石渡秀雄 新しい椎茸 栽培法開拓 鈴木 満 画 家 安藤藤右衛門 観光道路、 浄連の滝降下道 を開く 福井清兵衛 世話好き清兵 さんの土木工事 山田信治 山村活性化 ![]() |
板垣勘四郎翁は、貞享3年(1,686)田方郡上狩野村湯ヶ島(天城湯ヶ島町)の百姓、伝右衛門の長男として生まれました。 父を助けて農業に励んでいた勘四郎翁は、良質の炭が早く焼ける窯を工夫し、共同で木炭づくりをすることを村人に呼びかけ、一方で椎茸栽培の研究も重ねていました。 シイの木に目印を入れておいた「鉈(なた)」の傷跡から、ある日たくさんの茸が生えているのに気付き、また、椎茸がたくさん生えているほだ木を将棋の駒程度に切って、シイ、クヌギ、コナラ等の木に打ち込んで、ほだ木にすると、良質の椎茸がたくさん生えることがわかり村人達にこの方法による椎茸栽培を奨励しました。 |
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元文2年代官から天城湯ヶ島口の「山守り」を命ぜられ、延享元年、代官の命令で椎茸づくりの先生として、安部郡有東村(現在の静岡市)に出かけました。 椎茸栽培の方法を教えながら、村を回っているうちに、地形や水質が湯ヶ島と似ていることに気付き、この地の「山葵(わさび)」が湯ヶ島でも作れないだろうかと考えました。 村の明主は勘四郎翁の願いを聞いて心をうたれましたが、村のきまりで山葵をよその村人に分けてはならないことを伝えました。 しかし、熱心に椎茸栽培方法を教えてくれた彼への感謝から、自分が罪を引き受ける決心をして、彼が湯ヶ島へ帰る前夜、そっと山葵の苗を譲ってくれました。 |
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寛永4年、またもや伊豆を「未年の荒れ」と呼ばれた大洪水と山崩れが襲い、大被害をうけました。もちろん彼が精魂込めて作った山葵田も一夜で荒れ果ててしまいました。大水が去って、一ヵ月後、荒れた山葵田の復興に取りかかりましたが、流されなかった山葵の苗があちらこちらに残っており、不思議なことに一ヵ月前より、元気に育っていました。 よく見ると、根がきれいに洗われて、小石の隙間にわずかに根が挟まっているだけでした。 それからは、根が水に晒されるような育で方の研究を重ねて夢にまで見た、立派な山葵づくりに成功しました。 宝暦11年(1781)勘四郎翁は、苦難に満ちた76年の生涯を閉じました。 |
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板垣勘四郎 | 1869年(貞享 3) 1739年(元文 2) 1744年(延享 元) 1748年(寛延 元) 1751年(寛延 4) 1761年(宝暦11) |
上狩野村(天城湯ヶ島町)湯ヶ島に生まれる。 三島代官より天城湯ヶ島口の山守に任ぜられる。 三島代官の命により、椎茸栽培の師として安部郡有東木村(静岡市有東木)に派遣される。 帰郷の際、山葵の苗を持ち帰り、天城山中岩尾の地に移植する。 天城山中を見回り中、山犬に襲われ負傷する。 「未年の荒れ」といわれる大水のあと、根が洗われるように山葵を育てることがよいことに気付き、栽培に成功する。 逝去。享年76歳。 |