愛すべき病 1

 景色の揺れる速度が来る時とは違う。
 薛永の歩く速度や歩幅が違うのだろう。その肩に乗った小ぶりな医者は、行きと帰りの差から相方の安堵を知る。
 最初から仮病だろうとは思っていた。だが自分は医者であり、薛永は薬師なのだ。病人がいると聞けば駆けつける。それが顔なじみのこととなると尚更だ。仮病だろうと高をくくって救えるものを救えずに終わる。そんな素人のようなミスは今更しない。
「仮病でよかった」
 素直な薛永はそんなことを言う。包帯から覗く片方の瞳は本当に嬉しそうだ。
「いいわけがあるか。他の患者を差し置いてこんなところへ呼び出されたんじゃ。貴重な時間を…」
「でも医師はホッとしている」
 どうやら担いでいる薛永にも安道全の気持ちが伝わったらしい。何しろこちらは全身をゆだねているのだ。仮病だろうと思いつつもいくらかの緊張感のあった往路とはどこか違う状態になっていても不思議はない。
 だが、それを認めるのをよしとせず、安道全は返事をしなかった。確かに本当に病気で無くて安心はしたが、一応憤慨もしているべきだ、と思うからだ。本気で腹を立てているわけではないことも、相棒には伝わるのだろう。
「安道全医師ーェ!」
 後ろから声が聞こえた。薛永の足が止まり、振り返る。白勝の声だ。走って追いかけてくるのが見えた。
「まだ何か用か? ワシは忙しいと晁蓋に言っておけ」
 追いついて息を整えている間に冷たく言い放つ。
「いえ、今度は呉用先生が」
 歯の出た男はそう言って振り返る。
「…呼び止めて待ってて欲しいと…言った…んですが…」
 よく見ると晁蓋の屋敷と自分達の間に小さな人影があるようにも見えた。走っているのか歩いているのか。ともかく動きは遅い。
「呉用か。…仕方ない、薛永、少し戻ってやろう」
「アイサー!」
 頭脳労働者の体力のなさを貶す気にはならなかった。そもそも自分は己の足でさえ歩いていない。白勝も共に来た道を引き返す。
「あ、ん、どう…ぜ、ん、せん、せい」
 精一杯走ってすぐに力尽きたらしい呉用のところまで戻ると、息も絶え絶えに向こうから声をかけてきた。
「頭ばかり使っているからそのザマじゃ。少しは体も使わんか」
「はぁ…お恥ずかしい」
 貶すのではなく医者としての意見は言う。呉用は面目なさそうに少し笑った。
「わざわざ追いかけてきて、何の用じゃ」
「医師の力が必要です」
 背筋を伸ばして妙にきっぱりと言った。
 先程蹴ってきた生辰鋼を奪うという話の続きらしい。
 もし本当に晁蓋がただの保正で終わらずに大物になるとしたら、確実にこの男と昔馴染みだというのが要因になるだろう。
「もう作戦が決まったのか?」
「いえ、その、まだ警備の人数や通る道も分かりませんし、作戦と呼べるようなものはできませんけど。でも安道全医師たちの力がなければどれだけ情報が集まっても作戦は立たないんです」
 先程まで呉用も乗り気ではないように見えた。だが今はいかに協力させようかと誠意を持って説得しているのが分かる。恐らくこの教師の頭の中ではおおよその算段は既に組み上がっているのだろう。
 どんな作戦なのかにはあまり興味がない。はっきり言えるのは病人や怪我人のいないところに自分の出番はない、ということだ。それでも力が必要となると誰かが大怪我でもする可能性があるのか。
 そんな危険な手段を選ぶ呉用とは思えなかった。
「ワシらが強盗の役に立つとは思わんがのう」
「この人数で奪うとなれば、正攻法ではできません。薬の力に頼ることになります」
 返事を聞いて安道全は納得する。一服盛ることが出来ればどんな大軍が守っていても、こちらがどんなに少人数でも、強奪は可能になる。余程上手くやらなければ成功は難しいだろうが。やはり作戦めいた何かがこの押しに弱い塾教師の頭の中には描き出されている。
「ならば薬は処方しよう。人数や何に仕込むかが決まったら言え。ワシと薛永で望みの症状を起こす薬を用意する。ただの下痢でも三日は目を覚まさん失神でも自由自在じゃ」
 いい返事をしてやると、薛永も「アイサー!」といつもの調子で相槌をうつ。
「ありがとうございます、医師。薛永さんも。あ、もちろん殺してしまうようなものはお二人にはお願いしませんから」
 嬉しそうに礼を言ったあと、付け加える。
 晁蓋と違ってこの男は医者がなんたるかを理解している。生かすのが仕事なのだ。
 もちろん致死性の毒薬を準備するのも容易い。そもそも毒を盛って殺すだけなら、医者は要らないのだ。殺さず、動きを止める。その加減は医者や薬師にしか出来ない。
「ならば薬だけ用意すればよいのう」
「…僕はそれだけ協力してもらえれば十分ですが」
 少し情けない眉の下がった笑顔。続きは言わずとも分かる。晁蓋がそれでは納得しないと言いたいのだろう。
「あの馬鹿には付き合いきれん。奴がドジを踏んで八つ裂きにでもされたら行ってやると伝えるんじゃのう」
「ええ、医師が忙しいのは晁蓋もよく知ってるはずですから。僕が説得してみます」
 呉用の説得でどうにかなる晁蓋でもあるまい。安道全はそう思ったが言わずにおいた。それは呉用自身が一番よく分かっているはずだ。
「よかったです、医師は協力してくれないかと思いました」
「あの馬鹿とは建設的な話が出来ん。お前とはまた別じゃ」
 晁蓋の突拍子もない発想は面白いとは思う。だがその話にはいつも根拠や理論が欠落している。
 その大きな穴を埋めて回るのが、この男、呉用の仕事のようにも見えた。全く面倒な生き方だ。理屈のない夢想家に、理屈を追いつけようと奮闘する。安道全には理解し難い生き物だった。
 理解は出来ないが言葉の通じない晁蓋と話すよりは幾らか楽な相手ではある。
「話はついたな、行くぞ、薛永」
「アイサー!」
 別れようとすると。
「あの、もう一つ」
 呉用に呼び止められた。
「?」
「もし阮三兄弟とこの道ですれ違うことがあったら」
 安道全たちが進んでいた方向を指す。確かに石碣村からここへ向かっているのならすれ違う可能性もないとは言えない。
「晁蓋が仮病だというのは伏せてもらえませんか」
 安道全の性格を知った上での発言とは思えない頼みだった。呉用ほどの者が忘れたとは思えない。
「ワシは病人の薬になる嘘以外は吐かん」
「分かってます。分かってますけど、病気だと言って欲しいのではなくて、仮病だというのを言わないでおいてもらう、というのは…」
「出来る、出来ない、の話ではない。訊かれれば本当のことを話す」
 譲歩の余地はない。
 薛永の肩から見下ろす呉用が、先程までとは別人のように見えた。きっぱりと助けが必要だと言ったときとは明らかに様子が違う。何か後ろ暗いところでもあるように挙動不審なのだ。
「小賢しいのう、呉用。病気ではないと知られたらまずいのか。それとも仮病と知って引き返されては困るということか」
 問うと、ハッとして安道全を見つめてきた。この瞬間に知恵者は幾多のことを考えてしまうのだろう。一呼吸も置かずに呉用はにこりと笑った。
「後者です。仮病と知られても構いません。引き返されては困るのです」
 それならば嘘を吐かなくてもどうにでもなりそうだ。
「…それは誰にとって都合が悪いのかのう?」
「三人を呼んだのは晁蓋ですから。来なければ晁蓋も都合は悪いでしょう?」
 無駄に頭の回る男は含みを持った言い方をした。
 どうやら三人に用があるのは呉用も同じらしい。なんとなく何がしたいのか予想はつく気がした。安道全も薛永もうんざりするほど通った道だ。
「まったくどいつもこいつも、死んでも治らん病気らしい」
「…そうかもしれません」
 また情けない笑顔になって呉用は頷く。
 ご協力痛み入りますと丁寧な礼を述べられ、呉用と白勝に見送られた。

 果たして呉用の読みは当たっていて、巨大な魚を持って走る阮小五を先頭に、三兄弟に出会った。
「安道全医師! 晁の旦那の具合はどうだった!?」
 小五が馴れ馴れしい口を利く。
「…残念じゃが…ワシの手には負えんのう」
 呟くと三人の顔色が変った。頭の話だ、と付け加えようとすると。
「そんな!」
「本当だったんだ!」
「Hurry up!」
 聞かずに走り去ってしまった。
「あらら…」
 弱い声を漏らして薛永も三人の後姿を半ばあきれたように見送っている。
 図らずも最初に呉用が望んだとおりになってしまった。それならそれでいいではないか。安道全は勝手にそう結論した。
「呉用先生、半殺しにされなきゃいいけど」
 薛永がぼそりと言う。まずい事になった、とそこで気づく。
 呉用が何を企んでいるかは知らないが、三人の心配ぶりから察するに、誤解が誤解を生んで面倒なことに発展しそうな気配はある。
 ああ見えて上の二人は喧嘩っ早いところがある。更に阮小七を怒らせると大変なことになる、という話も聞いたことがあった。あの巨大魚を担ぐ兄でさえそう言うのだから、頭脳労働者など一捻りかもしれない。
 もしそうなれば、ほぼ呉用の自業自得なのだが。たった今、その火種を撒いてしまった気もする。面倒なことに関わったことを微かに悔やんだ。
 体の病んでいない人間はとかく面倒だ。
「半殺しならばワシが治してやる。それでよかろう」
 憮然として言うと、相棒はいつもの軽快な返事をする。
 その心地よい口癖を聞くと、安道全はこの一件を頭の隅へと押しやった。

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