愛すべき病 3

 小七の腰にしがみついていた小二が無造作に振り払われた。小柄な体が簡単に宙を舞って地面に叩きつけられる。
「先生、逃げて!」
 呉用の前に両手を広げて立つ小五が背を向けたまま叫んだ。
 逃げ出したいのは山々だが残念ながら、足がすくんで動けない。
 自分を庇う小五の足も震えていた。
 阮三兄弟の大人しい三男がキレると村の一つや二つは跡形もなくなると聞いたことがある。その恐ろしさを知っている二人の兄は、自分達こそ逃げ出したいはずなのに、呉用を守ろうと必死だった。
 三人を疑った自分をかすかに悔やむ。だが、それが自分の性分なのだから、ここで死ぬのなら仕方ないという気もした。所詮この程度の人間だということだ。
 正気を失った目つきの小七が小五に手を伸ばす。温厚で口数の少ない普段の小七とはまるで別人。字名のとおり閻魔が地獄から迎えに来たようだ。
「小五、逃げてください。僕はいいですから」
「いいわけねーだろ! 目ェ覚ませよ、小七ィ!」
 声の届く気配がない。
 二人の兄は呉用を守るのと同時に弟も守っているのだろう。誰かを傷つける前に自分達で止めなければ正気に戻った小七は苦しむことになる。いい兄弟だ。彼らを疑う自分がどう考えても悪い。そんなのん気なことを考えていた。
 何が起こったのかよく分からないが小五が目の前から消えた。呉用から見て右手のかなり離れた場所に落ちるのが見えた。
 すぐに起き上がってこちらに駆けて来る。小二も同じだ。だが二人とも間に合わないだろう。
「…」
 獲物を見つけた。
 そんな目で小七がこちらを見る。呉用はただ立っている。足は動かない。最初から狙いが自分だというのは分かった。その瞬間から一歩も動けなくなってしまった。
 不思議と叫びたくなるような恐怖はなかった。死に見つめられるというのは案外こんなものなのかもしれない。晁蓋の提案を今後誰が実現していくのだろう。塾の生徒達は他の教師の言うことならちゃんと聞くだろうか。そんなことが少しだけ気になった。
 腕がこちらに伸びてくる。
 喉を狙っている。目をぎゅっと閉じて覚悟を決めた。
 皮膚が皮膚を打つ、派手な音。
「…?」
 呉用は無事だった。何の痛みも衝撃もない。
 目を開けると翻る派手な着物が見えた。
「オレ様に両手を使わせるたァ、腕を上げたじゃねェか。小七」
 晁蓋が小七の右腕を掴み、もう片方の手で目隠しでもするように顔を押さえていた。力比べでもするように二人の腕が震えている。
「ちょ…」
「頭でっかちのヒョロいのは黙ってろ。おい、小七、聞こえるかァ!」
 動きかけた小七の左腕を二人の兄がぶら下がるようにして押さえ込んだ。
 晁蓋が名前を呼ばずに黙れと言ったのは、呉用の名前も、声も、今は邪魔だということだろう。姿も邪魔だから掌で目隠しをしているのかもしれない。
 声を出さないように自分で口を押さえる。
 晁蓋が来てくれた。少し時間がかかったがその事実が飲み込めてきた。今更、腰が抜けてその場にへたり込んでしまう。恐怖を感じないと思ったのは恐ろしすぎて感覚が麻痺しただけだったようだ。現に今、自分はこんなに安心している。
「聞こえたら何か返事をしろ。おい、この晁蓋様が呼んでんだぞ。返事をしやがれ、小七!」
 乱暴な言葉を小七の耳元で叫んでいる。
 両手の自由と視覚を奪われて、怪物のように怒り狂っていたのとは少し違う状態になっているように見えた。自分で自分が制御できず、困っている。呉用はそう観察した。
 しばらく呼びかけると小七が「あ」と「ば」の間のような短い声を出した。
 晁蓋は満足そうに「よぉし」と呟く。声を出すことに何か意味があるのだろうか。
「オレの幼馴染が何したのか、ちょっと教えろよ、小七。オレもぶん殴ってやりてェんだ」
 声を一度出してからは押さえられている腕にもう力はあまり入っていないようだった。小二と小五もぶら下がってはいない。腕を普通に掴んでいるだけだ。
「…あに、き」
「おう、二人ならここにいるぞ。二人に何かされたのか」
「だました。うたがって、だました。あにきたち、心配、したのに」
 呉用は両手で口を押さえ直す。思わず声を出すところだった。小七は自分達が疑われて、試されたのを怒っているのだと思っていた。だが、少し違った。自分を含まない兄のことで怒っていたのだ。
 人が何を理由に怒るかを掴んでおくのは大事なことだ。怒りは人を動かす。この情報はいつか役立つかもしれない。
 反射的に脳内に小七の怒りのポイントを書き込んだことを少し反省する。危うく殺されかけたのだ。これだけ騒ぎを大きくした張本人がそんな分析をしていると知ったら今度は他の面子が殴りかかってきそうだ。
「そりゃァ悪い奴だ。騙したってのはなんだ? 何を言われた?」
 晁蓋は一度も呉用を見ようとせずに小七に語りかけている。三人を試したことを知ったら怒るだろうか。
「だんなを、殺そうって、お金を、取ろうって」
「とんでもねェ奴だな。そんな奴は殺されたって文句は言えねェ」
「でも、嘘で…オレ達を、疑ったんだ、試したんだ」
「あいつは頭でっかちの頑固者だからな。やっていいことと悪いことの区別が出来てねェところがある」
 前半は認めるが、後半は晁蓋だけには言われたくないと思う。
「よーし、決めた! 呉用が悪い。オレも殴る。お前も一発だけ殴ってやれ、小七」
 大声でそういうと両手を離して小七の前から退いた。小二と小五も手を離した。
 呉用と小七の目が合う。既に正気に戻っていた。困ったような顔をしている。呉用もどんな顔をしていいか分からず、両手で口を押さえたポーズのまま固まっていた。
「オレからいくぞ。歯ァ食いしばれェ!」
 晁蓋が再び間に入って拳を振り上げた。本気なら死んでしまう。本気でなくても殴られたら骨折くらいはするだろう。演技だとは思うが、ある意味暴走状態の小七の時よりも恐ろしかった。
「…ダメ、だ」
 晁蓋の拳を後ろから引っ張るようにして、小七が止めていた。
「先生は、殴ったらダメだよ、旦那」
「お前らに酷いことをしたんだろう」
「それでも、それは、旦那のためだから。旦那は殴っちゃダメだ」
 晁蓋はにやりと笑って煙草の煙を吐く。どうやら納得のいく結論に小七を導けたらしい。
「なるほどなァ。じゃァお前が殴ってやれ」
 小七は首を横に大きく振りながら後ろに数歩下がる。
 呉用は晁蓋を見ながら手を口から離した。何も言わないのでもう発言をしてもいいと判断する。
「僕が悪かったよ。小七。小二も、小五も。一発ずつ殴ってください」
 腰が抜けたままなので土下座のような姿でそう言った。もちろんあんな馬鹿力の連中に本気で一発ずつもらえばただでは済まない。だが、そのくらいの犠牲は払うべきだろう。少なくとも小七にとっては村を幾つか破壊するようなエネルギーを使うほどのことをしたのだから。
「も、もういいです、先生。オレも頭に血が上っちまって…」
「そーだよ。先生はそーゆー人だって知ってるから、もーいいって。小七も、分かっただろ? 呉用先生はこんなこと普通にやってくるからあんまり真に受けんなよ」
 小七は困ったように首を振り続け、小五はフォローにならないことを言ってフォローしたつもりになっている。一番初めに魚を投げつけてきたのは誰だったか、呉用はしっかりと心のメモ帳に記録済みだ。
「まぁ、そもそも倒れたって仮病使ったのはオレだしな。お前らに伝えとけって呉用に言ったのもオレだし。こいつがそれくらいのことはする奴だってのはオレが一番よく知ってたんだから…ん? おれか? おれが悪者か?」
 そんなわけないよなァ、と続きを言いかけた晁蓋の上に魚が降ってきた。先程呉用も投げつけられたあの大きな魚だ。
 不意打ちだが呉用のように魚に潰されることはなく、なんとか頭上で魚を受け止める。
「兄ィ…」
 小五も小七も驚いたように一番上の兄を見ていた。呉用には小二が舌打ちするのが聞こえた。
「どういうつもりだ? こりゃァ」
「…Present」
「贈り物だってさ」
 小二は西洋の言葉でそう言ったので訳したが、明らかにそういう意味で投げつけたのではないだろう。図らずも三兄弟がそれぞれに怒りを表す場面を見てしまった。沸点も怒りのツボも三者三様だが、好印象には違いない。信用に足る人物だと言える。
 一体自分は何様のつもりだろうか。呉用は自嘲気味にそう考えたが、それが自分だとあっさりと流してしまう。
「ずいぶん立派な魚じゃねェか。仮病も使ってみるもんだ。よし、鍋にするか」
 元凶に対する小二の怒りなど微塵も解さず豪快に笑うと、晁蓋は屋敷に向かって大声を出す。使用人が何人かやってきて、巨大な魚を大きな鍋で煮る準備を始めた。漁師の阮三兄弟は、魚の鍋にはうるさい。調理方法を巡って少し議論になったようだった。

 保正の家で炊き出しが始まったという報せはすぐに広まって村中から人が集まってきた。晁蓋は村人から案外人気がある。時折とても横暴だが、彼からは役人特有の悪癖は少しも感じられない。つまり、賄賂を渡さなければなにもしてくれないだの、権威を笠に着ての悪行三昧だの。そういう腐ったところがないからだろう。
 幼馴染である呉用は、晁蓋が村長の地位を継ぐときも色々と相談に乗った。役人の不正を嫌い、賄賂を一切禁止するとか、税金を大幅に下げるとか、極端なことをいくつも提案されたが、全て却下した。清廉潔白の身でやり果せるほど金のかからぬ世界ではないし、何より上から目をつけられる。目立たず機会を探るには、人並みの保正であるべきだと主張した。
 一応はそれを了解して今のところこの村の民だけが特に潤いすぎているということはない。
 器を持って集まってきた村人達の表情は田舎にしては荒み方が軽い。役人らしい役人が支配する場所ではこんなのどかな空気など残っていないはずだ。だからこそ盗賊はどこにでもいて、替天行道のような叛徒も現れるのだ。
 呉用も三兄弟や晁蓋と一緒に鍋を食べた。素朴な味だがとても美味しい。素材がいいのか、調理法がいいのかは呉用には分からなかった。
 白勝は使用人に混じって配る方に回っていた。取りに来られない一人暮らしの老人などに届けているらしい。今日一番走っているのは彼かもしれない。視界の隅を行ったり来たりする働きぶりを見て呉用はそんなことを考えた。
 食べている間、安道全がなぜ嘘をついたのか、という話題になった。
 晁蓋の妄想癖は安道全にも手に負えない。と言おうとしたのを三人が早とちりしたのではないかということに満場一致で決まった。晁蓋自身もそれに賛同してしまうのだから、心配損の三人が気の毒だ。
 三兄弟は生辰鋼強奪計画にとても乗り気で、どうするのかとしきりに訊いてきた。小七はいくらか所在無さ気で普段より更に無口だったが、兄たちは怒りを発散させた後は後腐れなく忘れられる性質らしい。
 計画については、まだどうするのかは決めていないこと、その話は決して口外しないこと。呉用はずっとそのことを繰り返して言い聞かせた。
 くどくどと言い続けると話題がかわり、前回、晁蓋が暴走状態の小七を止めたときの話になった。それがきっかけで三人は晁蓋に懐いたらしい。それで鎮め方を心得ていたのかと納得した。
 小七はまだ我を忘れて怒り狂ったことを気に病んでいる様子だったが、晁蓋が元気を出せと何度も背中を叩いて付き纏ううちに、いつもの調子に戻ったようだ。自分もそうだが、晁蓋を見ていると細かいことを気にしているのが馬鹿らしくなるのだと思う。
 さっきまで二日酔いだと言っていたくせに鍋をつまみにいつの間にかまた酒を飲んだようだ。
 鍋が空になると、村人は散っていく。わざわざ晁蓋に挨拶をしていく人も少なくない。こんなガラの悪い保正だが慕われている。それを見て取ると呉用はどこか誇らしげな気持ちになるのだった。他の仲間も同じだろう。
「決まったら教えてくれよな!」
 三人も村人たちが散るのと同時に帰っていった。
 帰り際にもう一度、三人に謝ろうかと思ったのだが、晁蓋に止められた。
「何度謝っても、意味がねェんだよ」
「どうして?」
「…頭はいいはずなのになぁ…」
 呆れたような目で見られる。普通に馬鹿と罵られる方がいくらかマシだ。
「あー…。なんつーか…。殺人犯がいて、申し訳ないって遺族に謝るとするだろ? でもその殺人犯は、殺人を仕方のないことだと思ってやがる。これからも仕方なく殺すつもりでいる。遺族は納得するか?」
 珍しく噛んで含めるような言い方をした。
「…しないだろうね」
 たとえ話の趣旨は理解したつもりだ。自分は誰かを騙したり、試したりすることが、相手にとってとても不愉快であることを知っている。だが同時にそれは仕方のないことだとも考えている。どんなに謝っても心のうちが相手には伝わってしまうのだろう。
「やっぱり殴られておけばよかったかな」
 そう呟くと「やっぱり分からねーか」と諦めと共にこぼした。
 言葉や理屈では表せない何かを、感じ取る。そういう能力の欠如については幼い頃から晁蓋に指摘されてきた。昔よりはマシになった、と言われているが、まだまだ人並みには遠く及ばないようだ。
 それができれば、人を無暗に試さなくても済むのかもしれない。
 できないのだから、仕方ない。そういう結論に辿り着く。それから、この結論こそが自分のダメなところなのだろう、と推論した。

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