まただ。
夢の中で、これは夢だと認識する。それでも覚醒には至らない。
何週目かの悪夢。
王倫が入山させた四人。その中に自分がいた。
顔見知りの額にナイフが突き立つ。呆気なく的に命中。次々に殺して自分は笑っている。
悲愴な顔つきの杜遷と宋万が見えた。何が面白いのか分からないが笑いが止まらない。二人の間抜け面が可笑しいのかも知れない。
戴宗と林冲が襲い掛かってきたが剣も蛇矛もかすりさえしない。惨劇は止まらない。救世主も現れはしない。
この夢の出口を自分は知っている。
杜遷と宋万にナイフを投げた。苦々しい叫びと共に弾き飛ばされる。こんな非力な武器は二人に届かない。
楽しむようにもっと投げる。相手は必死で、自分は楽しんで。最高だ。気分がよくなって更に投げて、投げて、投げて。
図体の割に身の軽い杜遷がナイフを潜り抜けて前へ前へと出る。近づいてきて、追いつかれたらゲームオーバー。そういうゲーム。逃げながらナイフを飛ばし続ける。全部落とされて、やがて追いつかれる。
「目を覚ませ! 朱貴っちゃん!」
腕をつかまれてゲームオーバー。
これで目が覚める。大丈夫、これは夢で起きれば全部元通りだから。
安心した瞬間に意外な行動に出ていた。空いている手でナイフを握りなおした。投げずに杜遷の胸の真ん中に突き刺す。この感触は好きではない。だから投げることにしている。
杜遷は何が起こったのか分からないような顔のまま倒れる。べっとりと手が濡れて気持ちが悪い。これも嫌い。だからナイフは斬るものではなく投げるものだ。
何故死んでしまうの。ダメじゃない。ちゃんと私を止めてくれなくちゃ。
もう笑ってはいなかった。
ゲームオーバーになったのに。夢が終わらない。
戸を叩く音に叩き起こされたのはまだ夜明けも遠い時刻。
まだ寝たい。昨日は色々なことが一度に起こりすぎた。頭も体もまだ休みたがっている。
「朱貴が来るそうだ」
入ってきた宋万に言われて、杜遷は跳ね起きた。
「お前に用があるようだが、おい」
寝巻きの裾を掴まれて、杜遷は止まる。こんな時間にあの面倒事を嫌う朱貴が来る。それだけで非常事態と判断していいはずだ。何故止められるのか分からなかった。
「もう迎えの船は出た。そろそろ来る頃だろうが…着替える時間くらいはあるだろう」
確かに慌てたところで、朱貴が来るまでは何も出来ない。せめて着替えくらいはしておくべきなのだろう。だが、その冷静さが、今は許せないような気がした。
「…お前を頭領と思う者もいる。少し落ち着け。お前に用があるそうだが、たいしたことではないから大騒ぎするな、と朱貴からの伝言だ」
宋万は杜遷の苛立ちを察したように伝えるべきことだけ伝えると部屋から出て行った。音の鳴る矢で迎えの船を呼ぶときに音の種類や本数で簡単なメッセージを伝えられるようになっている。ある種の暗号だ。朱貴の「たいしたことではない」は梁山泊にとっての脅威ではないという意味だ。個人的な用事のときは大変なことでも本当につまらない用件でも同じように「たいしたことではない」と伝えてくる。
こんな時間に自分に用があるというのは何事だろう。考えながら、宋万の忠告に従って着替えを始めた。
現在、この梁山泊の頭領は、不在。
元頭領の王倫はこの梁山泊を売ろうとした。道術合戦にも破れて、枯れ木のようになって死んでいた。
王倫の裏切り、仲間の死、奇跡の逆転勝利、突如現れた替天行道、消えた戴宗、おびただしい見知らぬ焼死体。様々なことがありすぎた。替天行道の面々はとりあえず塞内に留まっているが、どういう扱いにすればいいのかはまだ決まっていない。
昨日は壊された物を直したり、遺体を片付けたり、怪我人を治療したり、戴宗の捜索をしたり、新参者の泊まる場所を手配したり。やることが山ほどあって話し合いどころではなかった。日が暮れる頃ようやく杜遷、宋万、朱貴の三人に林冲と、替天行道の僧侶を加えて話し合いの場を持つことになった。
議題は新たな頭領を誰にすべきか、というものだった。
魯智深という坊主が言うのに、替天行道の頭領という人物はまだ来ていないのだそうだ。だから彼らの中から今すぐにこの梁山泊の頭領を出す、というつもりはないらしい。とりあえずは入山さえ認めてくれればいいという言い分だった。梁山泊にとっては窮地を救った恩人達。そして誰もが名前を知っている有名な義賊。入山を望まれたら断る理由はない。かといって全てを献上するのでご自由にお使いくださいとも言えない。他所者は他所者なのだ。
刺客の四人を倒した戴宗は、入山試験で皆に実力を示したこともあり、同志に認められているが、本人が行方知れずになってしまった。探してみると焼け抉れた場所と無数の焼死体を発見した。替天行道の何人かが手分けして遺体全てを確認したが戴宗は見つからなかった。替天行道のメンバーは戴宗がどこかで生きていると信じて疑わないようだ。それは杜遷も同じだ。
自分たちの救世主とも言うべき王倫を倒した道士は気まぐれな人物らしく、気づいたら消えていた。和尚は戴宗も道士も頭領としてはお薦めしないと笑うばかりだ。
入山試験で杜遷と宋万を倒した林冲がいい、という者もいた。本人曰く替天行道に力を貸していただけでそのメンバーではないらしい。つまり中立であり、実力も自分達より上。杜遷も林冲なら頭領にして問題ないと思ったが、本人が固辞している。義賊、という言葉になにか頑ななものがあるようだった。また、彼では若すぎると言う者もいた。
一番上が抜けたのだから次席だった杜遷が第一頭領だという意見も出た。もちろんそんなつもりは毛頭ない。王倫に心から傾倒していた自分が次の頭領に相応しいはずがなく、向き不向きで言っても自分は向いていないと思う。引き受けるとは言えなかった。
宋万も朱貴も自身が第一頭領になろうとは思っていない。序列で言うなら杜遷ということになるが二人は杜遷の気持ちを汲んでくれたのか、器でないことをよく知っているからか、無理に推すということもなかった。だが、一応の態度として梁山泊頭領はこれまでの梁山泊の中から出すべきだという立場でいる。そうでないならやはり中立の立場の林冲だ、とも言っていた。
和尚もそれでいいと言ったが、林冲本人がどうしても頷かない。話は堂々巡りだった。
結局深夜になっても頭領が決まらず、この話は翌日へ持ち越すことになった。聚義庁には誰もいないが外にはいつもどおり警備の兵が一応立っている。何を守るためなのか誰にも分からない。ただ、平時と同じことをすることで落ち着きを取り戻したいのだろう。
こんなときに、いや、こんなときだからなのか。朱貴は湖を渡り店に戻った。いたって平常心に見える朱貴も、平素と同じ行動を取ることで落ち着けたい何かがあるのだろうか。
その朱貴が個人的な用事で会いに来る。
嫌な予感しかしない。昨日、あんなことがあったのだ。能天気な杜遷でも、夜明け前の急な報せが吉報だとは思えなかった。
服を着ると、杜遷は走って山を下りた。梁山泊は山の斜面を利用した街になっている。さすがにこの時間動いている人間は少なく静かだ。まだ空は白んではおらず、ちらほらと星も残っている。街も暗く紺色に染まっていた。
朱貴の身に何かあったのだろうか。胸騒ぎが駆け下りる足を加速させる。
長い坂と階段をいくつも下っているうちに、湖面に動くものが見えた。朱貴の乗った小船だろう。かなり梁山泊に近い。飛べば、届く。
思うのと同時に地面を蹴っていた。加速は十分。高さもある。届くと確信しながら宙を舞う。
「朱」
浮いている時間が妙に長い。
「貴っ」
たくさんの屋根の上を通過。湖まで、もう少し。
「ちゃーぁああああん!!!」
体が落下を始めた。大丈夫、届く。十分だ。
小船がすぐそこに見えた。
「あら」
と、声は聞こえなかったが朱貴が言ったのが口の動きで分かった。
小船の上も通過。
「あ、」
加速がつきすぎていたらしい。
失敗に気づいた時には湖に落ちていた。
勢いよく落ちた所為で、深く沈んでしまった。水の中はまだ夜で何も見えない。口から鼻から、ごぼごぼと音を立てて水が流れ込んでくる。
当てもなく動かす手足が、重い。
苦しい。
何も、見えない。冷たい。
苦しい。
息が。
水、が
誰かに呼ばれた。まだ寝たい。昨日は色々あって疲れているのだ。体が起きることを拒んでいる。
また名前を呼ばれた。目を開けるとまだ星の残る薄紫の空と、心配そうに覗き込む朱貴の顔が見えた。
「杜遷!? よかった!」
朱貴が笑う。濡れた髪から雫が落ちてきた。
助かったのか。声に出そうとすると口から水が出てきた。横を向いて水を吐く。咳き込んで吐いてから、思う存分空気を吸った。見えもしない物にこんなに有り難味を感じたのは初めてだ。
起き上がってみると小船の上だった。今のところ船酔いはしていない。死にかけていたのだ。それどころではなかった。
「ホントに…っ!」
べちん、と濡れた服の上から叩かれる。何か罵りたいのに言葉にならなかった様子の朱貴。彼も自分と同じように全身ずぶ濡れだ。
「朱貴っちゃんが助けてくれたのかィ」
「図体のわりに頭が軽すぎるのよね、杜遷は。だから飛び越えたりするの」
「助けてくれてありがとう…って、あれ? 朱貴っちゃんも確か泳げないって言ってなかったかィ?」
もう随分前のことのように感じるがほんの二日前。戴宗たちを梁山泊に連れてくるときにそう言っていたはずだ。
「あら、よく覚えていたじゃない。杜遷は記憶力いいのね」
「へへ、そうだろ?」
こんな感じで、あっさりと誤魔化される。朱貴の意味のない嘘は慣れているので腹も立たない。
口や顔を濡れた袖で少し拭ってから、改めて朱貴を見た。ずぶ濡れだがどこか怪我をしているとか、具合が悪そうという感じはしない。本当にたいした用事ではなかったのか。
「僕に用ってなんだい、朱貴っちゃん」
「え…、ええ、と」
問うと珍しく言いよどんだ。それから感情が溢れてしまったように喋り始める。
「だって、杜遷が、しっかりしてくれないから…私にあっさり殺されて、助けてくれなかったから」
泣き出しそうな顔をして、意味の分からないことを言った。そして、女がそうするように自分に抱きついてくる。縋りつくというほうが正しいだろうか。
「怒ってやりに来たのに、いきなり目の前で溺れ死にかけるなんて、信じられない。バカ、杜遷のバカ!」
べちん、と胸を平手で叩かれる。こんなに平静を欠いた朱貴を見るのは初めてでどうしていいのか分からない。
「ご、ごめん…?」
よく分からないがとにかく杜遷に腹を立てているようだったので謝ってみた。
「ごめんじゃないわよ! まったく…!」
また叩かれる。地味に痛い。細い腕だが力はあるのだ。訳も分からず、杜遷は朱貴を抱きしめ返した。他にすることが思いつかなかったのだ。
「……」
よく聞こえなかったが、腕の中でまだ杜遷を詰っているようだった。朱貴の細い体は震え続けていた。濡れた服が二人の体温で温む。朱貴を抱く腹は温かいのだが男同士で抱き合うのは精神的に寒い。
「…生きてるじゃない。杜遷、生きてるのね」
ようやく聞き取れた言葉がそれだった。ちょうど胸辺りに朱貴の頭がある。心臓の音でも聞こえたのだろうか。
「うん? ぼかァピンピンしてるだろ?」
「死んだりしない?」
「朱貴っちゃんが死ぬなって言うならぼかァ死なないよ。殺されたって死ぬもんか」
昨日、真っ先に敵に潰されたくせに、と自分でも思いながら杜遷は返事をした。今もうっかり溺れ死ぬところだった。それでも情緒不安定な朱貴を落ち着かせるためなら口から出まかせも仕方ない。
「約束する?」
見上げて切なげに眉尻を下げる朱貴。演技ではないと確信した。ふざけている時の朱貴はこんなに辛そうな顔はしない。
「ああ、約束するよ。ぼかァ、朱貴っちゃんを置いて死んだりしない」
そう答えなければ納得しそうにない。勢いで返事をしていた。
「死んでも死なないで。ちゃんと私をこっちに連れ戻して。約束よ」
「わかった、約束する」
意味は全く分からない。だが、ここは全肯定するところだろう。
「…そう…約束よ…」
消えてしまいそうな声でそう言うと、朱貴の体から力が抜けた。死んでしまったのかと焦ったが小さな寝息が聞こえる。気絶したのかただ眠っているのか、杜遷には判断できない。
訳がわからないがとにかく落ち着かせることはできたようだ。「たいしたことではない」というのは大嘘だった。こんなに錯乱した朱貴など見たことがない。十分たいしたことだ。沈着冷静で、いつも客観的に全体を見渡している人物。それが朱貴だ。昨日は落ち着いているように見えたが、そう見せていただけだったのかもしれない。あんなに色々なことがあったのだ。朱貴の内側にどんな混乱があったのかは分からないが、何が起こっても不思議ではない。
濡れた服のまま眠った朱貴を放すわけにはいかない。不本意だったが抱き合ったまま船が梁山泊に着くのを待つほうがいいだろう。
船頭がいて、目が合うと視線を泳がせた。今見ているものをどう解釈しようかと迷っている様子だった。確かに抱き合う二人の頭領というのは異様な光景だ。
「朱貴のアニキは、どうしちまったんでしょう」
眠った朱貴に気を遣ったのか船頭が小さな声で話しかけてきた。
「どうって?」
「ここに来るまでも様子がおかしくて」
「…昨日は色々ありすぎたからねィ」
他に理由も考えつかないのでとりあえず昨日の出来事のどれかが原因だということにしてしまった。船頭も、頷いて同意する。
それから無言で船着場に着くのを待った。まだ明け方とは言えない暗さで梁山泊は黒い塊にしか見えない。船頭が何を目印にこの暗い中でも船をこげるのか不思議だった。
船頭は杜遷が来るまでに錯乱した朱貴から何か聞いたのかもしれない。どんな様子だったのか聞きたいのだが、聞いてはいけないことのような気もする。朱貴が情緒不安定に陥った様子は今身をもって知った。それで十分ではないかと杜遷は自分に言い聞かせる。
「あんまり今の朱貴っちゃんの話を他の仲間にしないで欲しいんだ。…そういうの、嫌うから」
それだけ言うと「へい」と短いが真剣みのある声が返る。彼にとっても普段と違いすぎる朱貴の様子は言葉にすることをはばかるようなものだったのだろう。
やがて船酔いも始まって、朱貴の頭に吐きかけないようにとぐっと堪え続けた。
「…杜遷のアニキ、どうか朱貴のアニキとお幸せに」
二人を下ろすと、船頭が品のない冗談を言った。むっとした顔を作って見せると、意地の悪い笑顔で船を動かし去っていった。
一つの街のようになっている梁山泊は娯楽に不自由することはないが、話題が減ってくるとその手の噂話が流行る。朱貴はこんな人間で、あんな口調なのでその手の噂が絶えないかと思いきや。実は一番噂になるのは杜遷と宋万の仲だった。仲間から本気の告白というのもされたことさえある。残念というか、当然というか、そちらの趣味はないので期待には応えられない。
今は平時とは言い難い。そんな噂が蔓延するほど暇ではないだろう。
眠り続ける朱貴を抱えて自室へ向かおうとすると。
「杜遷のアニキ、何かあったんですか」
何人か金沙灘に集まってきていた。
「あれ? 早いねィ、みんな。なんでこんな暗いうちから…」
「さっき杜遷のアニキの声が聞こえて、何かあったのかと」
「朱貴のアニキ、具合でも悪ィのかい?」
小船へのジャンプを決行したとき、そういえば何か叫んだ気もする。
どうやら杜遷自身が彼らをここへ招いてしまったらしい。騒ぎを大きくするなとも、伝言にはあった。思い出して、杜遷は「何でもない、何でもないよ!」と叫びながら、今度は長い坂と長い階段を駆け上がった。
大声でなんでもないと叫び続けたが、抱えた朱貴は一度も目を覚ますことはなかった。