夜明け前 2

 またか。
 これが夢であると自覚。それでも覚醒には至らない。
 何周目かの悪夢。
 今度は自分が引き入れた四人が、つまり戴宗、林冲、扈三娘、翠蓮が入山と同時に変貌し仲間を殺し始める。初めは驚いたが、これこそ自分が求めていたことだと殺戮を見て思う。そして笑う。高らかに笑う。
 自分もこの楽しげな祭に参加したい。そう思ってナイフを投げ始める。容易く人の頭に何本ものナイフが突き刺さる。果物にでも向かって投げているような感覚。動かない果物に比べたら何倍か面白い。可笑しくて笑いが止まらない。
 王倫も杜遷も宋万も、信じ難いものを見るようにこちらを見た。その間抜け面がたまらない。三人にも刃物をくれてやったが、二人はそれぞれの得物で弾き飛ばし、王倫は信者に守られて本人は無事だった。王倫をやったらゲームクリアだ。そういうゲーム。
 それぞれに暴れる四人を尻目に前に出る。杜遷が何か叫びながら行く手を阻んだ。
 何本投げてもナイフが刺さらない。錘を振り回すだけで全て弾かれる。向こうからは攻撃が出来ない。一方的に攻めるだけだ。とても気分がいい。
 この悪夢の出口を自分は知っている。
 防ぐばかりで手を出せなかった杜遷がとうとう攻撃に転じた。苦渋の表情が可笑しい。宋万とは既に引き離してある。雷は見当違いの方角へ。隙が出来た。投げたが所詮ナイフだ。軽く払われる。杜遷に捕まったら負け。そういうゲーム。
 攻防は続き、杜遷がまだ本気を出せないでいることを知る。この甘さを気に入っていた。今はその甘さが邪魔で仕方ない。すでに命のない仲間の死体をナイフで切り刻んだ。果物よりも張り合いがない。それでも杜遷は本気になってくれる。扱いやすい。だから好きだ。
 本気を出すと流石に強い。ナイフは届かず、雷は直撃していないのに、錘が掠っただけで体が飛ばされた。面白い。もっとやろう、杜遷。
 瓦礫の中から半身を起こすと大きな影が立ちふさがり、立ち上がるのを助けるように腕を掴まれた。
「もう、いいだろう、朱貴っちゃん」
 そうかしら。もう少し遊びたいのだけれど。捕まってしまったのなら仕方がない。ゲームオーバー。
 これで夢はおしまい。大丈夫、目が覚めたら全て元通りだから。
 安心してから、また次の行動に出る。ナイフを反転させて、杜遷の胸に突き刺す。嫌な感触。生ぬるい血で手が汚れる。
 いつか見たような、杜遷が倒れる姿をもう一度見る。
「…嘘つき」
 もう笑えなかった。面白くないと知っているならやらなければいいのに。
 この後どうすればいいのか思い出せない。この夢の出口が死んでしまった。どうしたらいいのか分からない。
「嘘はつかないよ、ぼかァ」
「朱貴っちゃんが死ぬなと言ったら」
「たとえ殺されたって死ぬもんか」
「もういいだろう?」
 死んだはずの杜遷の声がどこからか聞こえた。死体はそこに転がっているのに。
 杜遷の大きな手が朱貴の手をナイフごと包み込むように掴んでいる感触。目に見えない杜遷が自分の手を引く。
「行こう、もうすぐ…」
 約束、守ってくれてありがとう。言いたかったけれど。
 目が覚めてしまった。




 うなされていた朱貴が目を開けた。
「朱貴っちゃん!? 大丈夫かィ」
 朱貴は驚いたように杜遷の顔をじっと見つめ、それから、くすくすと笑い始めた。
「面白い夢? な、なんだィ、笑ってないで教えてくれよ」
 ケラケラと楽しそうな笑い声を上げて、収まるまでにしばらくかかった。
「夢の中の杜遷がね、いい男過ぎて、現物と全然違って甲斐性があるの。詐欺よねェ」
 そう言ってからまだ笑った。
 笑われて気持ちのいいものではないが、先程の取り乱した朱貴よりは余程朱貴らしくて安心する。
「現物は締りのない甲斐性なしで悪かったねィ」
「そこがいいんだから。気にしない、気にしない」
 杜遷の寝床から起き上がって、朱貴は腕を広げて着ている物を見た。他になかったので杜遷は自分の寝巻きの一枚を着させたのだ。ぶかぶかで細身の体を二周するほど布が余っている。
 髪も濡れてしまったので解いて拭くと元に戻らなかった。あの奇妙な髪型は朱貴の器用さの産物だと知った。そんな訳で背中まで届く髪も下ろした状態だ。
「…なんだか」
 自分の状況を客観的に見ることのできる朱貴はあっさりと口にする。
「お泊りにきて、彼氏の服を借りて着てみた女の子の気分ねぇ…」
 長すぎる袖から指先だけ出して顎に触る。普段の上品な仕草と変わりないが、わざと女っぽくしているようにも見えた。
「そ、そういう言い方はないと思うよ! ぼかァこれでも一生懸命…っ!」
 朱貴に風邪でもひかれては困ると思って必死に体を拭いて、服を着せたのだ。ぐったりと眠っている人間にそれをするのがどんなに大変なことか、よく分かった。
「なんで赤くなるのかしら」
「何でもない! 何でもない!」
 実はここへ辿り着くまでにずいぶんと沢山の人間に朱貴を抱えて走る姿を見られ、挙句冷やかされてしまった。もはやあの船頭が何を言っても噂の信憑性を高めるだけだろう。
 本来着替えなどは誰かに命じてやらせることができた。だが朱貴を自分の部屋に連れ込んだ時点で杜遷はすっかり気が動転していたのだ。誰かを呼んでやらせるという発想に至ることができなかった。
「私の服は?」
「濡れてたから、干したよ」
「…この部屋の外に?」
「…!!! しまった!」
 自分の濡れた着物と並べて干してしまった。これでは今朝のことを知らない人間にまで朱貴がここにいると知らせているようなものだ。
「いいよ。別に。そういう噂も珍しいモンじゃないし」
 朱貴は杜遷が何を焦っているのかお見通しのようで、冷めた言い方をする。
「…でも、恋敵だと思われて後ろから刺されるのは嫌ねぇ…」
「こ、恋敵って」
 実は四頭領の中で、同性からの本気の告白を受けた回数はぶっちぎりで杜遷がナンバーワンなのだ。朱貴曰く「どっちの人からも人気があるから」だそうだが意味はよく分からない。本当は分からないのではなく、分かりたくない。
「まぁいいでしょ。人の噂も七十五日ってね。服が乾くまで私は外に出られそうにないし」
 確かにこの上ぶかぶかの寝巻きで朱貴に店まで帰られたら弁解の余地がなくなる。朱貴は案外ドライでこんな状況でも面白がっている風だ。仕草や言葉遣いがいくらか女性っぽいという以外、朱貴はどこも女らしくない。彼にまつわるこんな噂はよく生まれるがすぐに消える。本人にそういう気配が全くないからだ。
 逆に杜遷のこういう噂は案外長持ちする。自分がそういうことをどう扱っていいか分からず、思い切り否定したり、焦って大騒ぎしたりするのがいけないらしい。らしいのだが、改善できず、毎回困り果ててしまう。その困った様子を見るのが面白いのか、真相が分かってからもしばらくからかわれ続ける。
 今回はどちらの展開だろうか。朱貴の体を拭いてやりながらそんなことを考えて、今誰かが踏み込んできたらどう言い訳しよう、などと妄想していた。途端に、悪いことをしているでもないのに、何か恥ずかしくなってしまい、ただでさえ難しい眠った人間の着替えを更に困難なものにした。
「どのくらい寝てたのかしら。もうお昼くらいになる?」
「お腹空いたのかィ? まだ日も出てないよ。…もうすぐ朝日が見えるかな」
 朱貴は不思議そうに首を傾げた。朱貴が眠っていたのは時間にすると一時間弱というところか。部屋の中はまだ薄暗いが窓の外はもうかなり明るくなっている。
「…そ、まだ、朝なの」
 どこかがっかりしたような響き。
「ぼかァいいから朱貴っちゃん、もう少し寝たほうがいいや。今もうなされてたし。顔色よくないよ」
「うん…」
 朱貴はもぞもぞと寝床に潜りなおす。杜遷は椅子に腰掛けて大きな欠伸をした。
 眠いが、今同じ寝床で寝る勇気はない。変に意識さえしなければ、一緒に眠るくらいなんでもないことなのだが、朝から色んな人から冷やかされすぎた。早く朱貴の服が乾くのを祈るばかりだ。
「ねェ、杜遷」
 寝床から声だけ聞こえた。
「うん?」
「お話、しましょ」
「どうした?」
 改まってそんなことを言うのがおかしい。朱貴は喋りたければ勝手に話す。
「どうもしないけど。なんとなく」
 杜遷からは横になった朱貴の顔は見えなかった。どこか歯切れが悪く朱貴らしいテンポの良さがない。
「…怖い夢でも見るのかィ」
「…怖くないのよ。面白い夢」
 そうは言うが、先程のうなされ方は面白い夢のそれではなかった。
「いっぱい、同志を殺して、可笑しくて、笑いが止まらないの」
「そいつは…怖いや」
「…うん」
 珍しく素直な返事。やはり朱貴らしくはない。
「色々パターンがあってね。私が王倫の役だったり、あいつが連れてきた四人の一人だったり…。でもね、杜遷と宋万には私のナイフは効かなくて、杜遷が、目を覚ませって怒鳴ってくれるの。そうすると夢が終わって目が覚める」
 パターンがある。そんなに何度もその夢を見たということだ。まだあれから一晩が過ぎようとしているだけの間に。
「なのに、杜遷が私に殺されて、私困ったんだから」
 それで船の上のあの約束か。杜遷の中でようやく、今朝の出来事に説明がついてきた。連続する悪夢の中で杜遷がその役割を果たさなかった。それだけのことで朱貴はここへ来ようとした。余程心細かったのだろう。
 少しだけ嬉しいと感じてしまった。朱貴は杜遷を頼ってきてくれた。何でもソツなく出来る朱貴が困ったときに頼る相手が自分だったことが意外でもあり、嬉しさもある。
「朱貴っちゃんにもそんなことってあるんだね」
「失礼ね。やー…見た目どおり神経が細いのよね」
 それは嘘だと分かったがそんな悪夢を見続けるとなると、杜遷が思うよりいくらか神経は細いのかもしれない。
「王倫さ…っと、王倫、があんなことするなんて、朱貴っちゃんでもショックだったんだねィ」
 まだ様を付けずに呼ぶのに抵抗がある。昨日、目の前で同志を殺されても裏切られたとは信じられなかった。今でもこっちが全部夢で、目を覚ましたらいつもの梁山泊に戻るのではないかと心のどこかで期待している。
「…だって、私も同じだったんだもの」
「?」
「私が王倫になったかもしれないもの」
 声がかすかに震えた。
「退屈で、梁山泊を見限ろうかって思ったことだってあるの。暇つぶしになればいいと思って、王倫の命令も聞かずに四人を入山させたのよね」
 椅子からゆっくり立ち上がって、寝台の横に立った。声だけでなく布に包まった細い体も震えている。
「あの四人が、もっと凶悪な連中だったら? 私が王倫より先に梁山泊を壊す引き金になったかもしれないじゃない。替天行道が、あんなにお行儀のいい連中じゃなかったら? あいつら官軍をあの人数で破ったんだから。皆殺しよ。この場所が欲しいだけなら、皆殺しが一番手っ取り早いじゃない」
 昨日の惨劇を普段の行いと結びつけて怯えている。
「王倫、と、朱貴っちゃんは違うよ」
「でも」
「違うったら違う。全然違う。だって、朱貴っちゃんはそんな夢ばっかり見て、眠れないくらい、昨日の事件でショックを受けたってことじゃないか。ぼかァ熟睡だったよ。悪いけど、図体といっしょで図太いんだ」
 朱貴の言葉を遮ってまで力説した。朱貴が常日頃から退屈しのぎに色々とやっているらしいのは知っている。どの程度何をしているのかはよく分からない。それでも仲間を売るような真似はしていない。朱貴に悪気はあるだろうが悪意ではない。
 寝たまま、頭まで被るようにしていた布を少しずらした。顔半分を出すと細く釣った目が少し濡れているように見えた。
「ねぇ…お話、しましょ、杜遷」
 普段の朱貴からは想像も出来ない弱々しい声。
「いいよ、なんだィ?」
 杜遷は努めて普通の声を出すようにした。何か、言いたいけれど言えないことを言おうとしている。
「私ね、仲間を斬ったの。療養所に何人か切傷を負って同志が寝てるはずよ。数が多くて、避けきれなかった。杜遷や宋万みたいに仲間に押さえ込まれるのが嫌で、投げるナイフを持ち替えて、斬りつけたり、刺したりしたの。洗脳が解けて誰も私に斬られたなんて覚えてないけど、私は…ちゃんと誰を斬ったか覚えてる」
 罪悪感の源はそこか。
 ナイフを投げるのは斬りつける感触が好きでないからだと聞いたことがある。それは斬れば斬るほど朱貴も傷つくという意味だったのか。だからナイフは投げるものなのだ。そんなことに今更気づく。
「仲間を斬るなんて、そんなのダメじゃないか、朱貴っちゃん」
 わざと大声で言った。朱貴は誰かに叱ってもらいたいのだ。ここで来るはずの反論や誤魔化しの言葉が全くない。重症だ。
「誰か一人でも殺したのかィ?」
 半分だけ出ている顔が小さく横に揺れる。
「じゃ、謝りにいこう。誰を斬ったか覚えてるんだろ?」
「…なんて言えばいいか分からない」
「朱貴っちゃんでもそんなことあるんだねィ。謝るときはごめんって言えばいいんだ」
 子供に教えるようなことを偉そうに言っている。
「練習してごらんよ。言うだけでいいんだ。ほら、言ってみて」
「…ごめん…?」
 寝たまま杜遷を不思議そうに見つめて呟く。
「もっと練習。ほら、朱貴っちゃん」
 掛布を引っ張って顔を出させた。見たことのない不安そうな表情だ。
「…ごめんなさい」
 薄い唇がゆっくり動く。
「そうそう、上手。もう一回」
「ごめんなさい」
 今度はもう少し大きくはっきりと動いた。
「うん、そうだね」
「ごめんなさい…」
 いつもの声に似た声で言うと、苦しそうに息をした。
 朱貴は目を閉じて、涙をそっと流した。こんなに綺麗な涙を流す彼が仲間を売った人間と同種のはずがない。
 きっと笑って楽しく暮らしているうちに泣き方を忘れてしまったのだろう。仲間を斬ったとき朱貴自身もとても痛かったのに泣き方が分からずに苦しんでいた。それだけのことなのだ。
 目を開けた朱貴は瞳だけまだ濡れていたが、眼差しが普段のものに戻っていた。不安も怯えも涙と一緒に流してしまったらしい。これなら別に本人に謝らなくても大丈夫だろう。もう悪夢に追いかけられることもないはずだ。
「ありがと、ね。杜遷」
「謝る練習に付き合っただけだぜィ。お礼を言われるほどでもないだろ」
 違うの、と朱貴が首を振る。
「約束、守ってくれて、ありがとう」
 船の上で意味も分からずに交わした約束。殺しても死ぬなとか、こっちへ連れて帰れ、だっただろうか。勢いで返事をしたので杜遷はよく覚えていなかった。
 約束を守ったというのは夢の中の杜遷の話だろうか。
「夢の中だけじゃなくて、杜遷はやっぱりカッコイイのよね」
 にっこり笑って寝床に座り、細い指が杜遷の手を取る。朱貴は両手で杜遷の手を包み込むようにした。
「ありがとう」
 自分が何をしたのかよく分からない。ゆえに礼を言われてもどう応えていいのか分からなかった。ただ、朱貴に綺麗な笑顔が戻ったことが嬉しい。礼を言われるような何かが自分にもできたのならそれも嬉しい。
「ぼかァ…」
 何もしていないよと、言おうとしたとき。
「入るぞ、杜遷」
 低い声が聞こえて、同時に入ってきた宋万が凍りつくのが分かった。
 杜遷も手を握られたまま振り返り固まった。
「……。…んん…そうか、邪魔をした」
 二人を観察した宋万が、搾り出すようにそれだけ言って踵を返す。
「ま、まままま待ってくれ! 違う! 邪魔してないよ!」
 部屋を出かかった宋万に縋りつくように止める。
 寝床の中で朱貴が爆笑していた。「お約束ってやつね!」と楽しげに言って笑い続ける。
「宋万、違うんだ、何を聞いたか知らないけど、そうじゃなくて」
「そーなのよね。ただ杜遷があんまり優しいから嫁に来いって話してただけ」
 部屋の中から朱貴がふざけて妙なことを言った。
「違う! 違うよ!」
 誤解されたまま去らせてはいけない。杜遷は違う違うと叫びながら宋万を逃がさないように自分と同じほどある巨体にしがみつく。
「…分かった、杜遷」
 宋万は杜遷を半ば引きずるように外へ出ていたが、立ち止まってようやくそう言った。
「嫁は朱貴のほうだと言うんだな」
「だから、違うんだってば!」
 真顔で言われて杜遷は大声で叫んだ。
「ぼくの相棒は君しかいないだろ! 朱貴っちゃんは大事だけど、ぼくの相棒は宋万だけなんだ!」
「…今のは、冗談のつもりだったのだが」
 相変わらずの真顔で宋万が言う。
「宋万の冗談は分かりにくいや! もっと笑顔で!」
 ため息を吐いて、何かを諦めたように宋万は杜遷の部屋へと戻った。相方を止めることに成功して一安心したあと、杜遷は宋万の満面の笑みというのを思い浮かべて噴出した。

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