恋も二度目は臆病で 1

 若い剣士はつき立てた剣に手を合わせ、目を閉じていた。
 バイオリンを下ろしてその精悍な横顔を見る。仲間たちへ捧げる曲は彼にとっては雑音にしかならないだろう。
 その身を犠牲にして船長の命を救おうとし、結局誰も命は落とさなかったが全滅さえしかけた一味を己の命一つで解決しようとした男。声も出せず、身動きもできず、ただ見守った自分が何を思っていたかなど彼の行為に比べればなんと瑣末なことか。
「・・・あの」
「ん?」
 手を合わせたままこちらへ向けた目は力強いが奢った者の目ではなかった。
 ただ、感心する。
 彼には野心も、それを成し遂げる覚悟も、仲間のために命ごとそれを投げ捨てる覚悟さえできている。それでいて過信や慢心はない。命汚い自分の能力と生き方はこの気高さに未だ触れることさえ許されないように感じる。
 ブルックは見てしまった事実だけを伝えようかと迷ったが、あのときの気持ちが胸に渦巻きそれを諦める。かわりに、仲間になったことを伝えた。
 二人の船長に命を預けるこの浅ましさを若い剣士は見抜くのではないかと少しだけ心配したが、彼は笑って「この一味は手を焼くぞ」と言うだけだった。スリラーバークの件を見ただけでもどういう意味かはおおよそ分かるような気がする。
 立ち上がると彼は刀を振り返った。
「よかったらそいつにもついでに聞かせてやってくれ」
「?」
「そいつは賑やかな街にあった。素直でいい剣だった。・・・送られるのに音楽ってのも嫌いじゃねェ・・・と思う」
 柄と鞘だけ見ても美しいその剣は持ち主の手を離れて少し寂しそうに見えた。
「ヨホホ、分かりました」
 片手を上げて去る背中も同じ想いのようだ。
 賑やかなデザインの墓に眠る彼らと最後に奏でた曲を静かに弾いた。鎮魂歌はなぜかここでは弾く気にならない。
 みんなはどう思いますか。長い二度目の人生の果てに出会えた人たちのこと。二人目の船長。新しい仲間。私の出した答えは間違っていませんか。ねェ、誰か。
 静かな曲に乗って送られていく彼らの顔はどれもバイオリンに合わせて歌っているように朗らかで、自分を責めてはくれなかった。二つの命を得たからといって二人の人間に忠義を誓うのは人として間違ってはいないだろうか。五十年の年月は免罪符になるというのか。ここに墓を立てて、それで、もう彼らにしてあげられることは何もないのか。
「おれは」
 声に驚いてふり返ると去ったと思っていた剣士が立っていた。ブルックも彼ほどの剛の剣でないとしても一流と呼ばれた剣士、気配くらいは分かるつもりだ。気配を絶って近づいたのではない。亡き者へと語りかけるのに集中しすぎて気配に気がつかないという単なる失態だ。
「音楽のことは何一つ分からねェが・・・なんだか違う曲を聞いてるみたいだな」
 心の迷いが音に出たのだろうか。ブルックはバイオリンを硬い膝に置いて剣士を見上げる。空洞の瞳にまだ純粋な魂は何を見るのだろう。
「・・・せっかく生き残ったのだから、私は彼らに何かしてあげられたらと、ずっと考えていたんですが・・・こんなことしかできないのかと思うと」
「おれも昔、死んだ奴に約束をしたよ」
 思いがけない話を始めた剣士は少し照れくさそうに頭を掻く。
「おれがあいつにしてやれることはねェ」
 断ち切るように容赦のない言葉。きっと己に言っているのだろう。
「できるとしたら約束を守るっていう自己満足を最後までやり遂げる、それしかおれにできることはねェ」
 若者らしい厳しく潔い意見だ。そしてそれは彼にとっての真実なのだろう。
「よかったら、教えていただけませんか。どんな約束なのか」
「・・・世界一の剣豪になって天国までおれの名を轟かせる。そう誓った。自分に」
 ブルックは虚を突かれたことを悟られないように、息だけひっそりと詰まらせた。彼は自分が見ていたことを知らない。
 その約束さえ破ろうとしたのだ。仲間のために。
「もし、志半ばで倒れたら・・・?」
 面白くない質問だっただろうか。若者は憮然と答える。
「それはおれがそこまでの奴だったってことだ。あの世であいつが情けねェって言ってたら・・・悔いの残ることはしちゃいねェとしか言いようがねェな」
 彼の強さの本性を垣間見たように感じた。常に悔いのない生き方をしている者の強さ。だから信念が目の前の危機に折られても彼の瞳は曇らないのだろう。
 果たして船長代理を任されたときの自分はこんなにも頼もしかっただろうか。そう墓に問いたくなる。
「お前はまだ約束を果たす相手が生きてるじゃねェか」
「あ、ああ。ご存知でしたか、ラブーンのこと」
「聞いた。おれもあのクジラには会ったしな」
 ラブーンとの約束は果たす。それは仲間たちとの誓いでもある。
「あの・・・変なことを訊きますが」
「あ?」
「二人の船長に命を預けることは出来ると思いますか」
 眉間に皺を寄せて少し考えているようだった。
 なぜ彼に尋ねたのか。答えを待つ間ブルックはそれを考えていた。まだ自分の四分の一ほどしか生きていない若者に。おそらくあの場面を見てしまったからだろう。
「つまり、元いた船の船長と・・・いや、元の仲間との約束か? それと・・・ルフィを天秤にかけることになったらって話か」
 頷いた。
 そうならないとは限らない。彼らを見捨てて自分の使命を果たすことだけを考える方が楽な場面もあるだろう。五十年ただ生き延びることだけに長けてしまった自分は、約束のためと自分に言い訳してどんなにか酷い裏切りさえするかも知れない。
「ルフィさんの仲間になってお役に立ちたいという気持ちに嘘偽りはありません。でも、もし、約束を果たせなくなるとしたら、私はどうするんでしょうか・・・。約束をとればあなた達仲間を裏切り、命を捨ててルフィさんに忠義を果たせば昔の仲間を裏切ることに・・・。こんな気持ちで仲間になって本当によかったんでしょうか・・・」
 悩む骸骨の姿は滑稽だっただろうか。若者はにやりと笑っていた。
「・・・そりゃ、ルフィに訊いてみるんだな。まァ、答えは見当がつくが」
 とても簡単で明快な答えがあることを仄めかしてから去っていった。
 もう一度、バイオリンを奏でながら過去へと想いを馳せる。
 ヨーキ船長、私が他の船長の船に乗ってもいいんでしょうか。一度あなたに預けたこの命、今度は他の人になんて。そんなに都合よくいくんでしょうか。
 幻影は笑うばかり。やはりとても単純な答えがあるとでも言いたげに。
 ルンバー海賊団に相応しい賑やかなデザインの墓の前。愚かなことだと思いつつ、心の中の天秤に過去と現在を乗せてみる。今はちょうどよく釣り合う天秤。この先、現在が重くなってしまう日が来たら。それを思うと別れの挨拶はなかなか終えられなかった。
「私にできること・・・みんなにはなくて私にあるのはこの命だけ。せめて悔いのないように一生懸命生きてみせますから・・・」
 迷いが消えたわけではなかったが、前向きに生きることしかできないのだと自分に言い聞かせた。


 魔の海域を抜けた船は偉大なる航路の試練をかいくぐる。
 航海そのものがブルックにとって懐かしかった。昔のように大所帯ではないが慌ただしい足音や、荒れ狂う波の音。この海特有のおかしな出来事に一喜一憂する仲間たち。
 一難去ってまた一難の毎日がとても愛しかった。どんなに困難な状況でも全てに感謝する思いで毎日を生きる。独りぼっちの五十年は無駄ではなかったと一難と一難の合間に奏でる曲にあわせて噛みしめる。この日常を当たり前と感じることなく大切にすることを覚えたのだから。
 何かお役に立たなくては、と焦るブルックは必要以上に動き回りはしゃぎ回り、空回りと空元気の合わせ技で増えた人数が一人だけとは思えないほどサウザンドサニー号は賑やかになった。
 常人の持てる重さではないゾロのバーベルで筋肉もないくせに筋力トレーニングをしようと試みて腕の骨を大いに骨折してみたり。チョッパーが添え木をするまでもなく牛乳で復活して驚かせてみたり。サンジに「おい、マリモ剣士」と呼ばれたのを自分が呼ばれたのだと勘違いしてややこしい事態を招いてみたり。ルフィの作詞作曲したよく分からない前衛的な歌に伴奏をつけてやかましいとナミから叱られたり。フランキーの開発を手伝おうとしてどういうわけか爆発炎上させ水色のアフロにさせてみたり。釣りをするウソップの側で大いに熱の篭った演奏をして魚が逃げると怒られ、読書の好きなロビンからも窘められるような視線をもらったり。
 毎日が忙しく、そして楽しかった。
「さァ、ディナーを待つひと時を楽しみましょう」
 ブルックの掛け声に合わせてルフィやチョッパー、ウソップも「ディーナーアッ! イエイ! ディーナーアッ! カモン!」と叫んで食器を打ち鳴らす。フランキーは嗜めるような発言をしたかと思えばそれに合わせて踊りだした。他の面々は呆れたように見守っている。
「静かに待ってろ!」
「あ、サンジさん、ミルクいただけますか」
「勝手に飲め!」
 航海中に傷んでいない牛乳が飲めるとは、世の中はずいぶんと変わったようだ。昔は船になかった冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐとおれもおれもとコップが突き出てきた。
「ヨホホ、たくさん飲めば大きく育ちますよ」
「全部飲むな! バカ野郎ども! 飯の前にがぶがぶ飲んで腹膨らましてんじゃねェ」
「こんなもんで腹が膨れてたまるか! メシ〜ぃ!!!」
「サンジの飯は別腹だから大丈夫だ」
「おれも!」
「酒は?」
「黙れ! 着席! ブルック! 牛乳はちゃんとしまっとけよ!」
 牛乳を諦めさせられた船長以下数名はすごすごと席に戻りまた食器を鳴らし始める。ブルックは飲み干したコップを片付けるとやはり席に戻り。
「ゾロさんは飲んだ方がいいかもしれませんね、牛乳をお酒の前に飲むと胃にいいんだそうで・・・」
 そこで特大のゲップが出た。汚いと非難の声が周囲から上がるがどこ吹く風で続ける。
「失礼。胃にいいそうですよ」
「酒の前にそんなもん飲めるかよ」
「ヨホホ、お酒が好きな人はみんな同じことを・・・」
 今度は下から気体が噴出された。ナミが驚いて悲鳴を上げるほど大きな屁だった。
「おっと失礼。みんな同じように言うんですねェ」
「・・・ブルックがどこかの国の護衛団長だったなんて信じられない。きっと下品すぎてクビになったんだわ」
 近くに座っていたはずのナミがいつの間にか移動してテーブルの向こう側にいた。とても嫌そうな顔でこちらを見ている。
「ナミさん、ところで」
「え?」
「今日はパンツはいてますか」
 何か喚いてひっ叩かれる。
「ふふ、面白い紳士さんね」
「いや、こいつカケラも紳士じゃねェだろ」
 存在自体が下ネタのようなフランキーさえそう言って呆れる。
「そういうロビンさんはパンツ・・・」
 きょとんとしたロビンのかわりにナミが再び鉄拳を飛ばした。
「ヨホホホホ!」
「おい、壊れたぞ」
 殴られて笑い出したブルックを怪訝な顔で見てゾロが言う。ブルックは勢いよく立ち上がって更に笑った。
「なんだ?」
「おい、チョッパー、診てやれよ」
「いいえ! 大丈夫です。私嬉しくて・・・! こうやって皆さんと話しているだけで胸が熱くなってしまうんです。私あばら骨しかないんですけど! ヨホホホホホ!」
 最初にこの船に招かれたときから感じていた。
 ここにはたった一つのマナー違反で壊れてしまう繊細で無粋な空気はない。
 下らないジョークが通じない頭の悪い連中もいない。
 あの頃と同じように。
「一曲弾いても?」
「おう!」
「音楽家はやっぱそうでなくちゃ」
「弾いてるときは紳士っぽいのにねェ・・・」
 一人彷徨っていた時には辛くなるばかりだった思い出が、今は目の前の暖かな光景と重なって美しく蘇る。
 最初の船長。最初の仲間たち。歌声も笑い声も。
 霧に覆われた世界では思い出せなくなっていた懐かしい場面が次々に浮かんできた。


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