恋も二度目は臆病で 3

 ラブーンに出会うのはもう少し後の話。
 その後の大冒険に、そして悲しい物語に辿り着く前の思い出たちは楽しいものばかりで、宝石よりも輝かしかった。
 どうして忘れていたのだろう。現在の自分のルーツのような思い出ばかりなのに。
 疑問に思った瞬間、答えはブルックの中で既に出ていた。
 あの苦しく辛いことばかりだった霧の中での独りぼっちの生活。その中で一人この宝石を見るのはあまりにも眩しすぎたのだ。逃げ出せない現状と比べて余計な悲しみに襲われるより、封印してしまう方が余計な痛みを受けずに済んだ。楽しい思い出よりも約束だけに思いを定めていたほうが余計な迷いを生まずに済んだ。
 今、思い出せるようになったのは影を取り戻し、新しい仲間と新しい航海を始めたからだろう。ここでならこの宝物の輝きに自分が負けてしまうような心配はない。もう楽しい過去から目を逸らさなくてもよくなったということだろう。
「いつまで弾いてんだ。なくなっちまうぞ」
 つい思い出に浸りすぎてサンジに呼ばれるまで気づかなかった。
「ヨホホ、楽しすぎて時を忘れました。では・・・」
 ここでは遠慮するという行為は自殺に近いと学んだ。そんなことをしているうちに全てを食べつくす魔物がこの船にはいるのだ。船長という名の貪欲な魔物。
 紳士的だの優雅だのという言葉は一時忘れて思い切り貪った。
 そういえばアフロを皿に突っ込んででも食べなければ十分に食事が出来ないこともあった。やはり船出からまだ間もない頃。慣れぬ航海でコックは食糧のペース配分を誤り、いきなりの空腹地獄に叩き落されたのだった。
「・・・?」
 何か大事なことを忘れているような気がしてブルックは考え込んだ。
「食ったら食ったで汚ねェなぁ・・・どんだけ顔汚すんだよ、拭けって。なにボーっとしてんだ? ・・・仕方ねェ奴だな」
 出来れば女性にお願いしたかったが甲斐甲斐しいコックが頭蓋骨を拭いてくれるのに甘んじる。
 楽しい思い出ばかりを並べて。まだ何か自分は大切なことから目を逸らしているような気がした。
「逸らしたくても目玉ないんですけど!」
「な、なんだよ、急に」
「いつも以上に変だぞ、ブルック」
 思わずジョークだけ口に出して仲間たちから心配された。
「ヨホホホホ! サンジさんのお料理が美味しくてつい食べすぎました。満腹でぼんやりしたようです。ほらお腹ぱんぱんで・・・って骨しかないんですけど!」
 スカスカした空洞の腹を叩いて笑って見せる。
 その冗談で思い出した。
 都合の悪い記憶に蓋をする。生きるためとはいえ、そんな癖が身についてしまった自分を呪いながら暗い色の箱の中を覗いた。





 出港から間もない時期。まだ海の本当の恐ろしさを知らず、コックは順調に航海が進まなかったときのことをあまり考えずに積んだ食糧を配分した。短い距離の航海だからと気を抜いたのはコックだけではない。一週間もかからない旅は穏やかに始まり穏やかに進むだろうと船の上の誰もが勝手に思い込んでいた。
 途中、遭遇した同業者との戦闘で勝利し、戦利品を得た。海に出ても相変わらずヨーキは敵でも命までは奪うなと毎日のように言っていた。動けなくすれば十分だ、と。そのときも派手に暴れると見せかけて上手く相手の頭を追い詰め交渉により解決したに近かった。全てが順調。そう思ったときに突然の嵐に遭遇。数日間続いた暴風雨に船は流され一時は現在地さえ定かではなくなってしまった。
 航海士がなんとか船の位置を特定したのは嵐が去って星空の見えた夜だった。予定では既に次の港に着いているはずの、その夜。
 もう一週間耐えれば港に着く。それまでの辛抱だ。そう言われてかけら程度のパンをかじって我慢の日々。
 その後、一週間経っても港は見えず航海士はさぞ焦っただろう。最早楽器をとる元気もなくなり、船の雰囲気は最悪だった。昼となく夜となく、仲間たちは甲板や船室でごろごろと寝転んでいた。体力の消耗が激しくそうしているしかない。
 このまま死ぬのかな、なんて話を誰かが始める。海賊としてのヨーキの名はまだ知られるに至っていない。そんな夢への第一歩を踏み出したばかりの時期にこの有様というのは誰にとっても屈辱的だった。
「お前だけ生き残るんじゃないか?」
 ブルックに誰かが言った。ヨミヨミの実≠食べたことはみなに話してあった。
「それは嫌ですねェ。せっかく生き返っても、もう一度空腹で死にそうです」
 周りの笑い声は弱々しかった。
「ああ、どうせ死ぬなら一つ目の命くらい船長のために使いたかったですねェ」
 冗談の続きのつもりだった。だが、人より一回チャンスが多いらしい自分の命をいつの日かヨーキを守るために使えたら。そう願っていたのは事実だった。それがつい口からすべり落ちたのだ。
「・・・おい、ブルック」
 近くで寝転んでいたヨーキが低い声を出す。
「はい?」
「・・・港に着いたらぶん殴る」
「え? え? どうしてですか」
 いくら聞き返してもヨーキはそれ以上何も言わなかった。
「私、何かまずいこと言いましたかねェ・・・?」
「それもたぶんマズイんじゃねェかな」
「えええ? えーと、一つ目だけじゃなくて、もちろん二度目の人生だって船長に捧げるつもりですよ?」
「分かったから黙れよ、ブルック」
「これもマズイんですか? わ、分かりました。何がなんだか分かりませんが、黙りましょう・・・」
「それがいい・・・」
「今のはお前が悪いよ、ブルック」
「そうだ、ひどいぞ、お前」
 声はどれも小さく誰も動こうとはしなかったが寄ってたかっての非難にブルックは沈黙した。何がヨーキの気に障ったのか考えてみたが脳に回す血が足りないのか、いくら考えても理由は分からなかった。
 それから三日ほどで目的地に着いた。そのときばかりはお行儀よくは出来ず、酒場を借り切ってありったけの食べられるものを全て食べつくした。
 食べている途中でヨーキと目が合ったが「お前は・・・後回し!」と指を差されて宣言されただけ。とにかく食べて食べて食べまくった。
 腹が膨れると力が湧いてきて、自然といつものような宴になった。ヨーキも機嫌よさそうに歌い、ブルックに「あの唄を」といつものようにリクエストした。
 ようやくいつものルンバー海賊団に戻った。それを祝して飲んで騒ぐ。
 後回しということは許したわけでも忘れたわけでもない。それは理解できたがとにかくみんなが無事生き残ってまた歌えることが嬉しかった。ブルックは一時己の中でもそれを「後回し」にしていた。
「見てください、食べすぎでこの下っ腹! これがホントのメタブルック!」
 そんな下らないギャグにテンションの高い一同は笑い転げる。
 腹いっぱい食べたものも消費し尽くさんばかりの勢いで騒いだ後、一息つこうと椅子に腰を下ろすと丸い体のチェロ奏者が側に来ていた。
「よかったですね。またこうやって一緒に演奏できて」
 話しかけるといつもの通りにこりと笑って頷く。
「船長も嬉しそうです」
 珍しく彼も話した。いつも物静かな彼と笑顔以外のやりとりをしたのは初めてかもしれない。
「ええ、本当に」
「ヨーキ船長の過去は知りません。ただ、失うことを知っている人だということは、分かる」
 ブルックはサングラスから目がはみ出そうなほど目を見開いていた。こんなに長い言葉を話すとは思っていなかったのだ。
「あの」
「もし、ブルックの能力を船長が持っていたら・・・」
 いつもにこやかな彼が笑っていなかった。
「そう考えたら分かると思います」
 そこまで言い終えるといつものように微笑んだ。
「あの・・・もしかしてすごく怒っていますか」
 にこりと笑って少しだけと言うかわりに親指と人差し指をくっつけるような仕草をする。
「ブルックも誰かが船長を傷つけられたら怒る、それと同じです」
「ヨ、ヨホホホ・・・それはスイマセ・・・」
「是非、船長に」
 人の心を癒すような優しい笑顔だったが、誰に怒鳴られるより、もしかしたら船長に殴られるより恐ろしい思いをしたかもしれない。そう思うほどに肝を冷やす。物静かな怒りの効果は大きかった。
 他の誰かがこの能力を持っていたらと想像したことはない。それがよりによってヨーキだったら。その意味は熟考するまでもなく理解できた。
 目の前に横たわる船長の亡骸。それがまた起き上がったとして。まだ隣で戦いたいと思えるだろうか。また海賊として偉大なる航路≠目指そうと言えるだろうか。いつの日かもう一度、彼の亡骸を見るかもしれない。その不安を抱えて何度も一度見た亡骸が彼の姿に重なる毎日。それでも一緒に旅など出来るだろうか。
 どんなに残酷なことを言ったのかと悔いる時間は与えられないまま。
「おい後回し=v
 ヨーキに呼び出されて見知らぬ町を二人で歩いた。
「分かってると思うが、おれはお前に死んで欲しくて船に乗せたわけじゃねェ」
 真剣な口調ではあったが怒っているという感じではなかった。
「もちろんです」
「分かってるならいい。ただ、チャンスが二回あると思って命を粗末にするようならもう乗せねェ」
「しませんとも、ええ、絶対にしません、そんなこと」
「だったら・・・お前は一度死んだ時点で船を下りるってことでいいな」
「え・・・?」
「生き返っても次の港で下ろす。・・・二度目の人生は陸の上でのどかに、自分のために使え」
 どんなに強く殴られるより重い罰だと思った。せっかく生き返ってももう彼の側にいられないのなら死んでしまうのと同じことだ。
「おれはお前の死ぬところを一度だって見たくねェ」
 帽子で表情を隠しながらぼそりとそう呟いた。
 一瞬、ブルックの脳内に一つの場面が映し出された。倒れて動かない自分を見下ろすヨーキ。それは一体どんな表情なのだろう。自分のためにどんな顔をしてくれるのか、とても興味があるのに、帽子の影で見えなかった。
 残酷な好奇心が生んだ妄想を、頭を振って追い出す。己にこんな嗜虐性があるとは知らなかった。
「分かりました。でしたら、私、絶対に死にません。私だってヨーキ船長の死ぬところなんか絶対見たくありませんから。船長も死なせません、そして自分も死にません」
 ヨーキは顔を上げてニっと笑った。
「おれだって誰も死なせねェ。そんで、おれも死ぬところをお前たちに見せるような無様なまねはしねェ。おれのために死んでくれ、なんて死んでも言わねェ」
 失うことを知っている。物静かなチェロ奏者はそう表現した。
 日ごろの言動からブルックも同じように思っていた・・・つもりだった。あくまでこの時までつもりでしかなかったのだと思い知る。
 ヨーキという男にとって、自分の耐え難いことを他人に強いるのは非常に恥ずべき行為なのだろう。その他人がたとえ敵の身内でも。だからこそ、自分の命を守るためにやむを得ないとき以外殺すことをよしとしないのだ。
 よい男だ。
 惚れ直すような気持ちで彼を見つめていると、条件反射で妙な台詞が口から飛び出す。
「ヨーキ船長、パン・・・」
「なんだ?」
「なんでもありません」
 それは恋多き自分のために習慣にした言葉。麗しい女性を見れば自分が特定の女性と付き合っていようが、相手が既婚者だろうがお構いなしに口説き始めるという習性を封じるための、自分と相手を守る防衛手段。最初に最悪の印象を持ってもらって自ら相手にされないように線を引くという妙な習慣だった。
 これが同性相手に出てしまうほど惚れこんでしまったのかとブルックは口を押さえながら苦笑した。
 一件落着と言いたいところだが、と前置きして、ヨーキは意地悪そうな笑みが浮かべる。
「でも、まぁ約束は約束だからな」
 突然腕を引かれて路地に入ったかと思うと、覚悟する暇も与えられず、鳩尾辺りに重い拳を食らった。縦に長いブルックと、大柄ではないヨーキは拳で語り合うのにもこういう形にならざるを得ない。
「・・・う」
 痛いと感じるより先に、満タンの胃袋が突然の衝撃に驚いて中身を逆流させた。目の前の白い帽子に向かって。
「うぎゃあ! き、たねぇえええええ!」
「あ、アンタがいきなり殴るからでしょ!? あーあ、勿体無い」
「お前、船長守るって言わなかったか!?」
「そんな、ゲロからは守れませんよ」
「命がけで守れよ! あー! 汚ねェ、臭せェ!」
 大声で言い合いをしながら汚れた服を脱ぎヨーキが上半身裸で酒場に帰ると「ブルックが船長まで食べた」と大騒ぎになった。



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