 |
遥かなるわたしたちの祖先が子孫の繁栄を願い、築きあげた生活文化の数々。その足跡は文化財として、今なお、わたしたちに先人の心を垣間みせてくれます。 |
|
|
大化の改新 (646年) によって日本が新らしい政治体制に統一されたとき、この地方は駿河国に属していましたが、その後天武天皇の九年
(680年) 、賀茂・田方の二郡が分割され、伊豆国がおかれるようになりました。
これ以前にも伊豆と大和朝廷とのつながりを示す伝承が文献にのこされており、そのひとつが「日本書紀」にある古代造船所の存在です。朝廷が伊豆国に命じて長さ約30メートルの船を造らせたところ、軽くて非常に速かったので
"枯野" と命名されたという話が伝えられています。 (松ヶ瀬軽野神社附近)
天城山には古くからケヤキやクスなどの船材用の大木が豊富だったことが知られ、伐採し船を建造し、狩野川下りで海に出したものと思われます。 |
 |
 |
八世紀以降、伊豆国田方郡下には13郡があり、狩野川上流域は狩野郷に属していました。しかし、考古学的資料からみると、この地方は縄文式文化遺跡のあと、弥生式文化や古墳文化の遺跡がみられず、平安時代中期頃までブランクがあります。
平治の乱で伊豆国に流された源頼朝は、1180年、北条時政や狩野茂光など伊豆を代表する武士をはじめ周辺諸国の加勢を受けて、平氏打倒に挙兵。石橋山の戦いに敗れて一時背走したが、やがて鎌倉に本拠を置き1185年壇浦の戦いで平氏を滅ぼします。このとき頼朝に従った狩野城主狩野茂光一族は武功を立て、鎌倉幕府に重く用いられました。
1491年、北条早雲の攻撃により狩野城は落城。狩野氏の祖、維景が狩野城を築いて以来250年間の支配が終焉した。 |
 |
 |
絵師狩野派の発祥の地
室町中期に始まる日本画壇最大の流派、狩野派。初代正信は伊豆出身の武士とされるが、正信の父影信は頼朝の側近として活躍した宗茂の系統であり、狩野派は狩野城を拠点に伊豆を支配した狩野一族の出身である。
狩野派は常に武家政権と結び、正信は室町幕府の御用絵師として、元信・永徳は信長・秀吉に仕え、探幽は江戸幕府の奥絵師に召された。 |

|
北条早雲が韮山城に入り伊豆支配を始めた1491年から豊臣に攻め落とされる1590年まで100年間に、数多くの神社や寺院が作られています。また、今の伊豆が他に比べ樹木におおわれているのは北条氏の治山治水事業によるところが多く、今日の天城の基礎を築いたのは戦国北条といえよう。 |