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当会について

会設立のいきさつ

1.きっかけとなった乳がん手術

 会設立のきっかけとなったのは平成4年1月に私(竹下勇子)が受けた乳がん手術でした。
 当時、外科科長で“乳がんの名医”と言われていた小坂医師にがんだと言われて手術を受けたものの、入院中も退院後もがんについての説明を受けられませんでした。しかも退院して日常生活で右腕が使えないことを知りました。
 退院後初めての外来で、がんの状態について説明を求めたところ小坂医師は「神のみぞ知る。ねえ竹下さん、僕だっていつ交通事故に遭うかもしれない明日のことは誰にもわからない」と答えました。薬については看護婦から「先生の奥さん(病院職員ではない。専業主婦)に電話して聞きな」と言われました。唖然として声も出ませんでした。これが市でやっている病院かと驚き、なぜ答えないのか、答えないのには理由があるはずだと思うようになりました。これだけひどい病院ならば私だけの問題ではなく必ず他にも裁判をおこされているはずだと思いました。
 2ヵ月後、同様な問題での提訴を新聞記事で知りました。
 手術から1年後(平成5年4月)、国立静岡病院(現在廃院)乳腺外来受診。診察したB外科医の驚愕ぶりから手術のひどさを知り、清水病院で手術を受けたことを悔いました。この時から清水病院へは行ってません。その後、情報発信するにつれ、小坂医師のもとから多くの患者がB医師のもとへ逃げ出しました。
 手術から2年後(平成6年6月)、市政モニターに応募し、病院問題についてレポート提出。被害をくい止めたくて市に対して初めて声を上げました。
 翌月、レポートがきっかけで小坂医師邸で奥さんと市の職員同席で話し合いました。小坂医師はいきなり「辞める」を連発。自身だけでなく外科医9人全部辞めると言いました。
 そして私が逃げ出した先のB医師に、私の目の前で電話し怒鳴りまくりました。
 この席で再びがんについて説明を求めました。小坂医師はがんについて、「神のみぞ知る。神経質な患者にはみんなこう言ってる。きょうも同じことを言った患者がいる」。薬については、「女房にきいてくれればうまく答えてくれると思った」と答えました。また、疑問をもつ患者の存在について「がんじゃないのに切られたと近所でビラをまかれたことがある」と自ら言及しました。
 1か月後(平成6年8月)、瀧安雄事務部長と話し合いました。小坂医師との話し合いで疑問に答えてもらえなかったため瀧事務部長との話し合いになったのですが、瀧事務部長は「そんなひどい病院、私でも行きませんよ」と言う始末。話し合いの内容は院長に伝えるということでしたが、そのまま私の疑問は解決できず市政モニターの任期は終わりました。この時、被害をくい止められなかったことは返す返すも残念なことです。
 この平成6年の秋に、前年に手術を受けた4人の患者のアンケート結果が手元に戻り愕然としました。初診で「明日一日入院で生検」と言われて翌日生検。その日のうちにがん告知(生検の場で言われた人もいる)され、そのまま手術から治療が終わるまで数ヶ月間退院できなかったのです。後日、専門家にこの4人の表を見せたところ「事件だ」と言われたり、別の医師は表を見るなり飛び上がって驚かれました。
 この頃、手術体験者の話から近藤誠医師(慶應病院放射線科)が非常勤勤務されていることを知りました。同じ頃、前述記事に載った係争中の久保山甲三さんに出会いました。
 なんとか被害をくい止めたいという思いで過ごす日々の中、小坂医師は副院長に昇格しました。
手術から3年後(平成7年7月)、証拠保全でカルテを入手しました。初診の検査結果(触診、エコー、マンモ)の嘘や、病理結果が手術日前日だったこと、患者をグループ分けし、抗癌剤の投与試験をやっていたことを知りました。
初診の検査結果からだまされていたことを知り愕然とし、抗癌剤について説明がなかったことや、「女房に聞いてくれればうまく答えてくれると思った」とか、「命が惜しければ飲め」「再発しても診てやらないぞ」と服用を強要されていたのは投与試験をやっていたためではなかったのかと戦慄を覚えました。

2.次々と出会った被害者たち

 その後、次々と原告たちや被害者たちと出会いました。
 手術から4年後(平成8年2月)、カルテによって疑問は益々増大したことで、私自身のことを知りたいことと、私だけの問題ではなく多くの声を上げられない人のためにも清水市と“乳がんの名医”を提訴しました。その時点で、清水市立病院は4件(産婦人科2件・内科1件・外科1件)、翌月に1件(脳外科)提訴され、病院全体で6件もの裁判がおこされていました。
 にもかかわらず、平成9年12月、(財)日本医療機能評価機構が清水市立病院を「質が高い」病院と認定したことが報道されました。驚いた原告たち(産婦人科研修医による被害者・脳外科医による被害者・外科医による2人の被害者)が原告団を結成し、直接財団へ抗議に出向きました。そのことがきっかけとなり、その後、清水市立病院がマスコミに取り上げられるようになりました。
 平成10年には、がん治療の知識を市民に広めるため、近藤誠氏(慶應大学医学部放射線科講師)の講演会を清水市で開催。翌平成11年には市民が医療問題に関心をもつよう『病院てどんなとこ』と題して、近藤誠氏と清水とよ子氏(医療消費者ネットワークMECON代表世話人)の講演会を「清水市の医療を考える会」の名で、開きました。

3.会設立・そして今

 清水市立病院がこれ以上裁判をおこされることなく、市民が安心してかかれる病院になることを願い、平成11年秋から被害者3人(内科医による被害者・外科医による被害者)が中心となって準備会をかさね、平成12年2月27日、「清水市立病院から被害をなくしより良い病院にする会」を立ち上げ、継続的な活動を目指し歩み始めました。ひとつの公立病院の名前を冠した会の設立まで至ったのは「被害をくい止める」ことが大きな目的でした。発足会当日は近藤誠氏が『医療被害にあわないために』と題した記念講演をして下さいました。
 市は同時期に有識者8名からなる「清水市立病院懇話会」を設立しました。
 私たちは会設立後、市と病院に対し「患者の声をきいて欲しい」という要望をかさね、病院からはその都度回答がくるということを繰り返し、平成13年12月に院長と会員たちとの話し合いが実現しました。しかし、過去の問題には触れられずじまいでした。
 一方、会の活動を伝えるために通信を発行。会員はじめ、市長・院長・議員・懇話会委員・マスコミ関係等に発送。会のホームページ(http://www3.tokai.or.jp/shimizu/)でも活動を紹介。会員間の情報交換のためのメーリングリストも開設しています。
 平成13年11月には内閣府と静岡県主催の『ボランティアEXPO2001・しずおか』に出展を要請され、会設立からの活動を展示で紹介しました。
 この間、清水市立病院では“乳がんの名医”だった小坂昭夫副院長が会設立から間もない時期(平成12年4月)に退職。1年後の平成13年3月には石原直毅院長と鉄宏冶事務部長も交代しました。“名医”退職後の乳がん手術数は不思議なことにそれまでのおよそ半分近くとなり、患者数(病院全体の外来・入院)激減の大きな要因となっていると思われます。
 院長・副院長交代後も、相変わらず会には被害者の声(外科医の手術ミス・整形外科医の手術ミス・内科医の対応不信等)が寄せられました。それは構造的な問題(過去2件の裁判が研修医のミスであることに代表される医者の経験年数の少なさ・問題を起こした関係者の異動等)が解決されず、被害者から学ぶ(過去の医療事故・医療事件の原因を反省・分析し、責任をはっきりさせる)姿勢がないからです。その分析に基づいて改善しないかぎり、これからも被害者を生み出し続けていくでしょうことを懸念しています。
 平成15年4月、静岡市と清水市の合併に伴って病院名が変ったのを機に、5月に総会を旧静岡市で開催。会の名称を「静岡市立清水病院から被害をなくす会」とし、活動を継続しています。

 

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