暮らしの中の民藝

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 わたしたちの暮らしの中で活き、生かされている素晴らしいものたち。それは陶磁器であったり、漆器であったり、布であったり、細工物であったりします。飾って楽しむと言う事よりもむしろ、使うことによって生きてくるものたちの美しさを発見し紹介したのが、柳宗悦でした。わたしたちが身近に使う民藝にもう一度スポットを当てて、このコーナーでご紹介させていただこうと思います。


小鹿田の仕事

 小鹿田(おんだ)焼きは、誰が見ても小鹿田と分かるやきものでそんなところが魅力だと思う時があります。すごく技巧を凝らして作陶するのもいいのでしょうが、単純な刷毛目とさっと流した緑釉に黄釉。この単純に見えるデザインが気持ちいいです。 柳宗悦やバーナード・リーチもこの地を訪れ、この素朴な作陶を賞賛されたとの事。
 開窯は江戸中期。現在は、窯元10軒。そのうち、5軒が共同窯、5軒が個人窯を使用しているそうです。(K)





戦時中の「民藝」

 昭和19年に発行された「民藝」の裏表紙です。日本民藝館への行き方が地図で書かれています。東京大学は「一高」、JR山手線は「省線」と表示されています。時代を感じさせますね。
 中身はと言うと、第二次大戦に反対の立場であった柳宗悦の考えで、工藝・民藝・美術一色かと思いきや、戦争色の非常に濃い内容で、「やはりな」と言う思いで読んでしまいました。

「日本の力」

 われらの手には、三千年来の長い伝統で築きあげられた無数の特技のひそむ血が通っている。この手から世界に類のない生活に必要な工藝が生まれたのだ。そしてあの健康で美しい木工、竹工、塗物、陶器、染織、和紙その他のすべてがわれら日本民族を立派に育ててくれたのである。
 しかも見よ、今もなお日本中にこの素晴らしい手仕事の技術は伝えられている。日本人は、独創性に乏しいとか模倣性が強いとかいったのは米英の卑劣な侮辱であった。われらは父祖からうけついだこの技術を最大限に発揮して、大戦争に勝ち抜かねばならぬ。
 どんな精密な機械仕事でも、手仕事が基礎になるのだ。祖先の残してくれた日本のすぐれた技術を生かす事を忘れてはならぬ。新しい創造や工夫はその中にも宿っているのだ。手を愛せよ、日本人の手に誇りをもて。そしてときどきはわが掌をじっとみつめよ。そこから新しい光を出せ。 文:式場隆三郎。


 この「民藝」の表紙に上記の文章が大きく掲載されています。軍による検閲下での、仕方ない表現だったのでしょうね。


バーナード・リーチさん

 昭和20年代の後半から30年代初めの写真でしょうか。バーナード・リーチが高山を訪れた時のカットです。遠州民藝協会の会員でいらっしゃるTさんから頂戴しました。柳宗悦もそうですが、静岡には何度か訪問された事がありますし、このリーチも静岡県には縁が深かったようです。
 扇子を日除けにして、高山まつりの山車を見上げている姿が印象的です。日本のまつりの奥ゆかしさ、奇抜さ、優雅さが西洋のそれとは、随分違って見えたことでしょう。扇子には、何故かJALのマークが映っていますね。他にも何枚か、リーチが映っている写真がありました。少しずつ、ご紹介出来ればと思います。
(K)
鈴木繁男さんの仕事

 遠州民藝協会の初代会長を務められた鈴木繁男さんは、柳宗悦のたった一人の弟子として、駒場の日本民藝館横に立つ柳邸で、ものを見る目を教え込まれました。そんな中で与えられた仕事の一つに、「工藝」の表紙の作成がありました。鈴木繁男さんは、漆絵で「工藝」の表紙を何号も制作しましたが、1号あたり1000冊、漆絵で描く訳ですから、その苦労は大変なものだったと思います。
 この「工藝」86号は和時計の特集で、和紙の上に漆を盛り揚げて描き、その為に素晴らしい表紙が作られます。筆に漆を含ませて、一度で仕上げる事が出来るのではなく、何度も塗り重ねないと仕上がらなかったと聞きます。デザインの素晴らしさもありますが、和紙に漆で描いた表紙なんて、他にあったでしょうか。まさに手作りの一冊です。(K)



納豆鉢 匂坂三恵子作

 注口と握り手のついたこの器、私の朝食のテーブル中央によく現れる。納豆にネギとかつお節、生玉子の黄味が盛られている。納豆を一人分だけでなく、家族で取り分け食べるのにとても具合が良い。
 作者は遠州民藝協会会員で、現在は常滑、土管坂下に工房を構え、日々励んでいます。
 その使い勝手の良さは、次々と手に取る家族は知っていて、今は当たり前だ。それを説明しても伝えにくい。
 お試しあれ!!
 口径11.5p、高さ8p。(Y)


芹沢_介さんのデザイン

 芹沢先生の作品は、いつもハッとさせられる。人の目を惹きつけるデザインだからだろうか。その色使いに魅せられるからだろうか。時に、何が書かれているのか分からない場合があるが、どんな字なのか考えさせられるからだろうか。兎に角、観る者をひきつける。
 きょうのニュースで、年賀状の事を紹介していた。あるデザイン学校の生徒達が考えた年賀状のデザインを商品にして、お客様からの注文を取って年賀状の印刷をすると言う試みだ。今ではコンピュータを駆使して、斬新なデザインの年賀状を作成するのだが、民藝作家達の所謂手仕事ときたら、そのほとんど100パーセントが手作業であろう。この芹沢作品も、型紙に図案を描き、カッターナイフで切り込んで、それを使って布に染めたものだと思う。もし、コンピュータでデザインしたら、このような図案を発想しえたのだろうか。
 この作品は、「喜」(よろこび)と描かれていると思う。よろこび。良い発音じゃないですか。最初は、何て描いてあるのかピンと来なかったが、「喜」だと分かると、そうそう、よろこびだと頷いてしまう。なんとも言えない、芹沢先生らしいデザインだ。(K)



庭を受け継ぎ・・・

 我が家の大して広くもない庭に、母の遺してくれた山野草を主に、四季折々に花を咲かせてくれる。若い時は土いじりが苦手、母が居なくなったらこの花達はどうなってしまうのか心配でした。
 庭を受け継ぎ、庭も家も新しくなったけど草だらけの庭には出来ない、虫も出したくない。そんな思いで今日迄庭を守り続けて来ました。見よう見まねで始めた庭いじりに、花達は枯れもせず、私の想いを聴いて毎年花を咲かせてくれます。うっかりしていると家族の者には目に止めてもらえず、淋しく咲き終わっている花もあるのです。若い人達は日常に追われ、花を愛でる余裕がないのでしょう。私は毎日の水やりで花の一生を見とどけることは出来ます。他家へ切花として持っていき、皆さんに喜んでいただくのが一番の幸せ。来年も綺麗な花をつけて皆様に見ていただける日を祈りつつ、手入れを続けている私です。
 我が家にある器、籠なんでも花器に使い、庭の花を添えて、器と花両方を楽しんでいます。
 今回の花は小代焼きの一輪差しにクレマチスの濃紫の花を二枝生けて見ました。
 大川原さんのあけびの丸い籠に、ホトトギスを無造作入れてみました。毎年玄関先の山ボウシの下に真赤な水引草の後に咲き出し、秋を彩ってくれます。物静かな雰囲気になるようなものを選びたいと思っています。これから折にふれ、花と器をお見せ出来れば嬉しいと思います。(A)



工藝

 まず最初に、暮らしの中の民藝が初めて紹介された手作りの雑誌「工藝」をご紹介させていただきます。この雑誌は1931年に創刊され、途中、太平洋戦争の多難を乗り越えて、1951年の120号まで続きました。暮らしの中の美の集大成と言った感じのする本です。
 この「工藝」は、本の装丁にも美意識が詰め込まれ、一冊一冊が手作りで仕上げられています。表紙や小間絵を担当されたのは、芹沢_介、棟方志功や遠州民藝協会初代会長の鈴木繁男たちでした。また、遠州の葛布も何度かその表紙を飾ることになりました。
 柳宗悦はこの雑誌「工藝」で、絶えず民藝とは何かを私達に語りかけ、その素晴らしさを訴えています。写真で「工藝」の表紙を見ているだけでも、そのデザインの素晴らしさや手作りの良さ(実際の製作者は、相当苦労されたようです)を感じ取っていただけると思います。



石皿 瀬戸本業窯

 雑誌「工藝」の創刊号を飾ったのは、瀬戸の石皿でした。柳宗悦たちは民藝の素晴らしさを、まずもって石皿で問いかけようと試みました。
 石皿は頑丈で、どんな料理も映えるものですから、使ってみてとても重宝する器です。我が家では、水菜やレタス、カイワレ大根などのサラダを盛りつけて使う事が多いです。勿論、カレーライスであったり、チャーハンだったりしても良いかも知れません。兎に角、使って楽しめる器です。
 瀬戸の石皿は、呉須や鉄釉を使って簡単な絵を描いてあるものから、全くの無地と言ったものまで、相当数焼かれたと思います。製作された時期は、江戸時代後期から、ずっと焼かれていました。今回写真を掲載した石皿は、菊の模様を釘彫りした無地の石皿です。食卓で楽しみ、また、飾って楽しんでいます。(K)