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その5

世界には、様々な境遇の人がいます。
健康な人。生まれながらに障害を持つ人。大豪邸に住む人。ホームレス。家畜を追いながら文字も知らずに一生を終える人。戦争で祖国から逃れなければならなかった難民。干ばつで今日の食物にも事欠く南の国の人々。不況が長引いても飢えることもなく、ダイエットにはげめる日本人。

「人間を創られてから今まで、一瞬の途切れもなく守護されている我々の親なる神が、なに故このような不平等を行うのであろうか」と考える人もいるでしょう。
しかし、親神様は、何時でも何処でも誰にでも平等に守護されています。平等であるからこそ、私たちの目には一見不公平のように映るのです。

「身の内かしものや、かりものや、心通り皆世界に映してある。世の処何遍も生まれ更わり出更わり、心通り皆映してある。」とお教えいただいております。

人間の身体は親神様よりの「かりもの」です。喩えれば着物のようなものです。生まれたばかりの時はきれいなものですが、毎日使っているうちに、あちらが擦り切れ、こちらがほころび、繕いようもないほどに使い切ると、その身体をお返しし、また新しい着物を借りてこの世に生まれ変わってきます。

人間が創られてから長い間、私たちは何度もなんども生まれ変わってきました。
気の遠くなるような時の流れのなか、命がけで仲間を救ったこともあったでしょう。反対に裏切ったこともあったでしょう。苦しめたり困らせたり、喜ばせたり楽しませたりしたことでしょう。過って命を奪ったことも、あるいはあったかもしれません。

人間一人ひとりの心遣いや行い、また、それによって生じた人間関係の積み重ねを、善いこと、悪いことも含めて「いんねん」と申します。
私たちは、いんねん通りの身体をお借りしているのです。いんねん通りの環境を与えられ、いま、生きているのです。

前生は無いのではありません、忘れているのです。忘れているから誰でも平気で人前を歩けるのです。
今ある自分の立場、人間関係は、自分の前生、前々生のいんねんが現れている姿です。今生は前生の続きをしているのです。

では、この世で不幸を背負って生きている人々は、自業自得であるから仕方がないと諦めるべきなのでしょうか。
いいえ、そうではありません。親神様は皆たすけたいのです。
いんねんのあらわれは、心の癖・性分を取り除き、より前向きに生きること、たすかるための努力を親神様が望んでいるものと考えるべきです。

さて、人生を嘆くのが愚かなら、ひとの不幸を嗤い、その境遇を蔑むのも愚かです。
今日まで地位や名誉のある人でも、明日はどうなっているのか人間にはわかりません。慢心すればそれだけの答えが返ってきます。あるいは、まだいんねんが現れていないだけなのかもしれないのですから。

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