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その8 広辞苑に、「たんのう」とは「十分にみちること」「あきたりること」「きのすむようにすること」とあります。 因みに堪能は「かんのう」で、「たんのう」とするのは誤用だそうです。 「英語に堪能だ」みたいな使い方は「たんのう」ではないということですね。 「料理にたんのうした」「演劇にたんのうした」というように、十分味わい心が満たされた状態を「たんのう」ということができます。 たとえば、演劇鑑賞、コンサートなどで「ごたんのうください」とアナウンスのある場合もあるかと思います。 そのような発言があるからには、もてなす側にそれだけのクォリティを提供しているという自負、十分満足してもらえるという自信があるということでしょう。 シェフとして、あるいは演奏家、はたまた役者としての誇りがあることでしょう。 完成度の高い演技、厳選された素材、極められた技、それだけの質の高さ内容があってこその満足、満喫があります。 招かれた側として「いや〜、たんのうしました〜」と、心から言えるのではないでしょうか。 大和地方では、「たんのうせよ」と命令形的使い方をするようですが。 そこには、「ガマンせよ」というネガティブな含みを感じます。 たんのうはガマンではありません。 味わわずに目をつぶって飲み込むのが「ガマン」で、しっかり味わうのが「たんのう」という、そんな違いがあるのではないでしょうか。 さて、教えとしての「たんのう」はどうなのでしょう。 幼子が飲み物をほしいとねだる。 お母さんは、コップに少しだけ飲み物を注ぐ。 子どもは、もっと入れてくれ、いっぱい注いでくれとごねる。 お母さんにしてみれば、全部飲み切れないし、こぼしちゃうだろう、と考えているのだが。 仕方ないので、要求どおりなみなみと注いだ。 予想通り、飲む途中でこぼれてしまった、ほとんど口に入らずに。 いくら欲しがっても、持てる力がなければ持て余してしまう。 親は十分足るよう、身につくだけのものは与えている。 しかし、子どもは「足りない、足りない」と不足する。 親神様は、あなたに十分足りるよう与えているのだ、だからそれを「喜びなさい」「たんのうしなさい」と仰います。 「難儀さそ、苦労さそうという親あるか」と仰せられます。 また、「たんのう」は前生いんねんのさんげ(反省)と云われます。 身に障りの付いている、あるいは事情のもつれているそんな状態を、心通り成ってきているとして「たんのう」するのはつらいです。 残念ながら、私たちは前生、前々生でのできごとを覚えていません。 ですので、覚えていないことを「たんのう」するのはなかなかに骨が折れます。 しかし、そこを「たんのうせよ」と仰せられます。 その、成らんところを成るように…という心をお受け取り下さる、たすかる道があるのです。 元なにもないところから、この世界、そして私たち人間をおつくり下された親神様。 技を極めたシェフ、当代一流の俳優など足下の砂粒にすら及ばない偉大な存在です。 十二分に「たんのう」できるだけのものは、お与え下されてあります。 |
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