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おさづけ


その7

病気やケガで苦しんでいる人を拝み、撫でる行為。
「おさづけ」といいます。

子どもがいたずらしたり、ふざけていて、時に度が過ぎて、おデコをぶつけたりヒザ小僧をすりむいたりしたら、お母さんはやさしく抱きしめて「大丈夫だよ…」と痛いところを撫でます。
いたずら、悪ふざけのことは置いておいて、まず「楽にしてやりたい」と思いますよね。

親神様は人間の親ですから、「痛い、痛い」と子どもが泣いていたら、撫でてやりたい、楽にしてやりたいと思うのです。
ただ、人間は直接親神様に触れることはできませんから、よふぼくが代理となって撫でる行為をする、それがおさづけです。


教祖がお隠れになった時のおさしづです。

これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。「明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後」

「子供にやりたいもの」、それがおさづけです。


先人の先生方がおさづけの理を拝戴するにあたり出されたおさしづがいくつかあります。

これからたすけの証拠、神の道、一つのさづけを渡す「明治二十年七月十四日(陰暦五月二十四日)」
さあ/\たすけ一条のため、一つの証拠を渡そ。さあ/\さづけ/\「明治二十一年一月二十一日」
これから一つたすけ一条のため、証拠を渡そ。「明治二十一年八月十七日」

人間は疑い深いんです。
証拠がなければ、なかなか信じようとしないんです。
おさづけは証拠なんです。
親神様が存在し、教祖が存命でお働きくだされているという証拠なんです。


教祖はお姿を隠されました。
しかし、出直しではありません。
私たちと違い、教祖は生まれかわってくることがないんです。

さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。・・・姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。「明治二十三年三月十七日(陰暦正月二十七日)」

身体があったら、生身であることの制約が出てきます。
時間・空間に縛られてしまいます。

人間は教祖にとってみなかわいいわが子です。
たとえ信仰していなくても、たとえ反対していても、教祖は苦しんでいる子どもを放っておけないんです。

生まれかわることがない。
それは、身体があるからこそ味わえる喜びを、二度と味わうことができないということでもあります。
そこまでして、たすけたいんです。


別席の話を9回聴き、おさづけの理を拝戴したひとを「よふぼく」といいます。
よふぼくは、教祖のお伴をさせて頂くのです。
教祖に成り代わって、病人の苦しいところを撫でるんです。

病人を放って置いてはならん。こゝらにはそういう者はあろうまいなれど、もし千に一つでもありては道の疵、教の理に無き理である。医者の手余りと言えば、捨てもの同様である。それを救けるが教の台と言う。よう聞き分けるよう。「明治二十六年十月十七日」

おさづけは、人たすけるための方法、手立てです。

世界中に苦しんでいる人がいます。
おさづけの理を戴いてください。
よふぼくになってください。

そして、一人でも多くの人に、おさづけを取次いでください。

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