雑記帳
わかっていたことを後から知るつらさ 2012年7月19日
大津市の中学生の自殺問題が連日報道されています。報道ではいろいろな問題が後からわかってきたようで、ご遺族はどれほどつらいかと思います。
私も病院で被害にあったこと自体、とてもつらいことでしたが、それよりもっとつらいのは、当時の病院の実態を知っていた人たちの存在を知ることでした。
声を上げ始めた当初は、病院や市の職員の誰にも相手にされませんでした。相手にされないというより、問題を起こされては困るふうでした。そうでしょう。売り上げをあげてくれる医者が問題となれば市も困るわけですから。
私の前に同じ医者を訴えていた久保山さんにやっと出会えたとき(1992年)には開口一番、「なんで、あんな病院へ行っただね」と言われ、情報さえあれば行かなかったのにと悔やまれました。知らずに行って同じ目にあう――清水病院が蟻地獄のように思えました。
久保山さんが声を上げた時(1989年)、市や病院が問題を先送りせず改善していれば、私は被害にあわなかっただろうにという思いがあります。だから、これ以上同じ思いをする人が出ないようにと、私は病院の問題点を市政モニターとしてレポート提出(1994年)し、医師本人や職員と話し合いをもったにも関わらず、問題解決に結びつきませんでした。
だから、癌について知るには提訴(1996年)するしか方法がなかったし、被害をくい止めるためには会を立ち上げる(2000年)しかありませんでした。
ところが、私の提訴が報道されたとき(1996年)、最初に私に電話をかけてきたのは病院職員でした。協力の申し出に喜ぶとともに、やっぱりひどい実態があるんだという思いでした。
被害をくい止めたくて私が病院で体験したことを情報発信しはじめていくうちに、被害者だけでなく病院職員も取材を受けて、清水病院のことが雑誌に取り上げられるようになりました(1998年〜)。
取材で病院職員たちと同席した時、「乳がんは清水の風土病と職員の間で言われている」という話を目の前できき、みんな知ってたんだ、知らないのは病院の外の人間だけだという思いで卒倒しそうなショックを受けました。
雑誌は、実態を広く知って欲しくて多数の関係機関等に発送しました。
その記事を読んで、書かれているとおりだと手紙をくれた医師がいました。この時も理解者がいる喜びは一瞬で、「やっぱりひどさを知っていた」という思いでした。
雑誌の出版元へ同じような感想を送った人が、ある看護学校の教務主任でした。その後、直接、ご本人とお話しする機会を得、彼女が清水病院で体験した話を聞いて、立場上声を上げられないことは理解したものの、「やっぱり知っていたんだ」という同姓として許せない気持ちになりました。
つい最近も、私の体験談をきいた人が、「竹下さんの話をきいて涙が出そうになりました。でも、話された病院のことは知っていました」と得意気におっしゃった女性がいました。他の病院で40年間看護婦をしていたそうですが、久しぶりに打ちのめされ、過去を思い出しました。過去の実態を知っていた人の存在を知ることほどつらいことはありません。
私は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目(乳癌誤切除・下手な手術)にあわなければならないんだろうと、変わらぬきつい後遺症の身体で過去を思うのです。
社会において、人はひどさを知った責任を果たすべきでしょう。守るべきは人の命です。黙っていることは被害を拡大させることにつながるだけです。
竹下勇子(2012年7月19日)
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