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竹下裁判●竹下裁判の原点
竹下裁判の原点―― 提訴前に証拠保全(カルテ等を法的手段によって差し押さえる)を目的として裁判所へ提出した陳述書を掲載しました。
この陳述書はカルテ等の証拠がまだ手元にない時点で記憶を基に書かれたものです。 その後、入手したカルテによって、初診検査結果に癌の証拠がなかったことや病理診断結果の日付が手術日前日だったこと、その病理診断結果前に抗がん剤の投与試験対象者としてグループ分けされ、抗がん剤を処方されていたこと等がわかって提訴したわけですが、裁判になってから病院側が診療当時にはなかったことを次から次へと主張したことから論戦の応酬に長い年月(地裁8年、高裁2年)を費やし、ひじょうに複雑な内容の裁判へと変貌していったのです。 しかし、竹下裁判の原点は、この陳述書にあるように『がんの説明ができなかった理由を問う』単純なものです。 陳述書 一、 平成三年一二月、以前からあった右胸のしこりが気になり出しました。お風呂に入って触ると、以前は小豆大くらいだったのが急に大豆大くらいになったように感じました。 一二月二五日夜、近所の友達で乳ガンの検診にいったことのある人に相談したところ、手術した経験のある人に問い合わせてくれて、すぐ行ったほうが良い、とアドバイスされました。ちょうど翌二六日午後が、清水市立病院の乳腺外来のその年最後の日だと教えられ、行って見ることにしました。 二 、 一二月二六日(木)、乳腺外来は混んでいました。待っている間、「こんな小さなしこりで笑われないだろうか。」「場所を聞かれたらすぐわかるかな。」とか、「乳腺外来の方へ」という注意書を何度も読み返し、そこに書かれてあるどれに該当するのだろうか、とか考えていました。 順番が来て中待合へ入ると上半身衣服を脱いで待つよう指示が書いてありました。診察室では、看護婦に誘導されてカーテンの仕切りの中で、上半身裸で寝かされました。そこへ小坂医師が上からのぞきこむように「どうしました?」と聞いてきました。私は恥ずかしくて「右側にしこりが…」とまでしかいえませんでした。小坂医師はひとなでしただけでレントゲン検査と超音波検査を至急するからと、看護婦に指示しました。レントゲンのところでスカートも下げるように言われました。私は「なぜ?」と思いました。 超音波の検査の時は、しこりのことをいろいろ聞かれました。その人は、「違うと思うけどな」と言いながら機械を動かしていました。外来へ戻ってからすぐ検査の結果を見せられ翌日しこりをとって検査することになりました。「先生が見るから、すぐわかるからね」と自分で先生・先生を連発していました。 三 、一二月二七日(金) 小坂医師から検査のため右胸のしこりを取る手術を受けました。「仕事がやれるようガーゼを薄くしておくから。」と言われました。 前日、奥さんに電話したけど不在だったことを告げ、小坂医師は知り合いであることを認識、とても機嫌良く対応しました。 四、 一二月二八日(土)、仕事納めの日でした。午前一〇時にくるよういわれ外来で待っていました。待っていると中から小坂医師が看護婦にむかって大きな声で「竹下さん一人?なに家族と来ていない?」と言っているのが聞こえてきました。家族を連れてくるようにとは言われていませんでしたが、それを聞いた時、ああやっぱりがんだったのかなと思いました。 診察室へ入ると小坂医師からいきなり「乳ガンです。すぐ手術が必要です。」と言われました。 レントゲンと超音波の検査の結果を見せられましたが、素人の私には良く分かりませんでした。超音波の医師は乳ガンだと断定はしていない、とのことでした。取ったしこりについては見ていません。 小坂医師の説明は次のとおりでした。 「しこりは一・八センチメートル、残念ながら初期、0期は過ぎてステージ一、一期の乳ガンです。あなたの場合、温存療法と筋肉を残して乳房を全部取る方法と二つのうち一つ選べる。だけど温存療法の方は、日本へ入ってきてまだ三年しかたってなくてデータがないし、放射線ときつい抗ガン剤を射つからがまんできない人もいる。多分我慢できないだろう。命を取るか、危険な方を取るか。二つのうち一つが選べる。」 小坂医師は、温存療法の危険性、放射線、抗ガン剤のきつさをしきりと強調し、「先生は全部取るほうをすすめる」と言いました。 とにかく急がされ次の日、次の日だったので、先生がそれほど急ぐということは、よっぽど悪いものなのかと思いました。 小坂医師が清水市立病院へ赴任した当時より近所だし、息子が同じ学年ということもあり、奥さんと子供達とのおつきあいもあった関係で他の人と比較できないほど小坂医師を信頼しきっていましたから、「命を取ります。先生におまかせします。」としか言えませんでした。誰だって危険を取るか命を取るかと二者択一を迫られたら命を取ると答えたと思います。 しかし、小坂医師の説明の中には全部取った場合のあとの治療、後遺障害については全く一言もありませんでした。 私は、夫と会社をおこして以来、日帰り旅行すらしたことがなく、かぜで熱があっても、注射をうってもらったり、薬を飲んだりして休まずに来ました。プライべートなことで休むのは経営者としてはとても考えられませんでした。とくに当時夫も怪我で療養中だったため、私は仕事のことと家のことを考えると頭の中はパニック状態でした。そこで入院期間について質問すると、約一ケ月と言われ「エーッ、困ります。会社つぶれちゃう。近いからなんとか通院で…」と思わず声が出てしまいました。小坂医師は「切ればそんなこと言っていられないよ。」と言っていました。 その日、「一月四日に入院、一月一〇日手術」と言われました。そして一月四日の午後一時、家族に話すから入院のしたくをしてきてくださいと言われました。 診察室の外で看護婦から入院の説明を受けた時、手術した人の話を聞きたいといったところ、「聞くのはよしな」と情報を遮断されてしまいました この間、他の病院での診断もあおぎたかったのですが、小坂医師を信頼しきっていたことと、しこりは取られてしまっているし、仕事納めの土曜日にガン宣告、仕事始めの土曜日に入院だったので、言葉に言い表せない心境で過ごしました。 五、 平成四年一月四日(土)、仕事始めの日、約束の午後一時に実家の両親、姉、夫と一緒に清水市立病院へ行きましたが、小坂医師は不在でした。約束をしてあるからいないはずないので探してほしいと頼みましたが、看護婦達は良くあることのようにさほど気にもとめない様子でした。家族は不信感を抱きながら皆そのまま帰ってきました。私は一応入院の手続をし、その日は外泊届を出して一緒に帰りました(個室料はしっかり取られました)。 六、 一月六日(月)、一七時に外来診察室で小坂医師から説明がありました。両親も夫も都合が悪く、私と姉と二人で説明を聞きましたが、一二月二八日に私が受けた説明と全く同じでした。筋肉は残してやるという小坂医師の説明に対し、姉が「乳頭は残せないのですか。」と質問をすると「再発しやすくなるから残せない。」と言っていました。 姉は後で、自分のことを「先生」「先生」なんて言う医者はいないよ、とあきれていました。小坂医師は実際、自分のことを「先生」と呼んでいました。 七 、 一月七日(火)、手術が八日になったことを知らされました。午後、麻酔科 の人が説明に来ました。タ方、外来診察室で小坂医師が、マジックで手術の箇所に印をつけました。シャワーを浴びたら涙が流れてきました。睡眠薬を渡されました。 八 、 一月八日(水)、手術の日の朝、両親と姉、夫が病院に来てくれました。手術は午前九時三〇分から午前一一時三〇分までで、予定よりかなり早く終わりました。そのため術後の説明に夫は間に合わず、両親と姉、長男の智英が説明を受けました。説明は「とりあえず切りましたので。後は検査にまわすから。」と言う簡単なものだったそうです。 九、 手術後いろいろいやなこともありましたが、細かいことは省略し、どうして私が小坂医師と病院に不信を持つようになったのかについて述べます。 手術後、私は何人かの看護婦から「どうしてこんなに早くしこりをみつけた?」「同じ女性として教えてほしい。」「よく自分でみつけたね」と言われました。それを聞いて私は、ああ自分は早期発見で軽くてすんだんだと思っていました。看護婦たちは手術の傷の消毒に来ても「竹下さんのはきれい、きれい」と言っていましたので、手術自体についても何の不信も持っていませんでした。 ところが、リハビリの色刷りのよその病院で作られたパンフレットを渡され、毎朝ラジオ体操などをやって頑張ったのですが日がたつにつれパンフレットに書いてあるようには動きがついていかなくなり、次第に疑問を持つようになりました。その事を看護婦に言うと、「大きな手術をしたんだから」とか「元通りにならないんだから」とか言われ、早くガンをみつけたごほうびはなかったのか、まさか…まさか、と不安、不信がつのってきました。個室だったので、他の入院患者との情報交換はありませんでした。 実は後で知ったことですがリンパ腺を摘出すると腕のむくみ、運動制限などの後遺障害が起こるのだそうです。しかし、そんな事は小坂医師からはまったく聞かされていなかったのです。看護婦から、「もう右腕には注射できない。」「採血も血圧測定も左腕だ。」と言われ、初めて後遺障害のことを知ったのです。手術後の検査の結果について何も説明がなかったので、私に内緒で夫が何か聞いているのではないかと夫を責めたこともありました。 一〇、一月三一日、ようやく退院することができました。退院についても前日小坂医師が全員回診の折「明日退院していい」と言ったのに、それが看護婦につたわっていず、私が退院しようとすると看護婦が、「退院の許可は出ていない。」というトラブルがありました。 退院時、ナースステーションで看護婦から退院後の生活の注意を書いたわら半紙半分のプリントをもらいました。その中には、腕のむくみやそれに対する治療法などは書いてありませんでした。小坂医師は、とにかく「今まで通りでいい。」と強調していました。 一一、平成四年二月、乳がんについての情報を得たく退院後初めて外出した日気分転換を兼ねてバスに乗って駅前へ行き、書店で、ある本に出会いました。そこに書かれてあったことは、私にとっての疑問、不信が次から次へと明かされていき、まさか、まさかの連続で、悔やまれて仕方ありませんでした。夫は、そんな本はもう見るなといいましたが、この本を読んで、小坂医師に対する不信感はつのる一方となりました。 一二、退院して最初の外来の日、私は小坂医師に「どういうガンでしたか。」と質問しました。手術後一ケ月も経てば検査の結果も出ておとなしくじっとしているガンか、全身に広がるガンか、区別はつくのではないかと、素人ながらにも考えて、結果を聞けば安心できる事もあるだろうと思ったからです。 ところが小坂医師は力ルテをめくりながら、「手術前に説明したのと同じ。ごくごく普通の乳ガンで、神のみぞ知る。ねえ竹下さん、僕だって明日交通事故にあうかもしれない。明日の命は誰にも分からない。そうでしょう?」と答えたのです。あまりにも無責任な答えに私は開いた口がふさがりませんでした。このとき力ルテをパラパラしていましたが、検査の結果のようなものがはってなく、調べていないのかと気になりました。 その日、病院の薬局の窓口で出された薬が何の薬か聞いたところ答えてもらえず、私が病名を知っているのが分かれば教えてくれるかと思い「私は乳がんの手術のあとですけど、何の薬ですか」と聞くと、外科で聞くようにいわれました。そこで外科に行ったところ、看護婦から「先生いないから、竹下さん、先生の奥さんに電話して聞きな。」と言われました。私はあきれて言葉も出ませんでした。他の人はどうしているの? その後近所の人の見舞いに市立病院へ言ったとき、入院していたときの病棟の看護婦にあったので、「寝汗がひどくて生理もしばらく来ないんだけど」と聞くと、「ホルモン剤だからそういうこともあるよ。」と言われました。抗ガン剤を投与されていることも、外来で他の患者さんの話しから知りました。切除手術をすれば、もうそれで終わったと思っていたので衝撃でした。 術前の説明では抗がん剤やホルモン剤の投与については全く説明がありませんでした。 私はもともと薬に対して敏感な方なので、その旨医師にもつたえてありましたし、診察の時にも副作用がきつい、と訴えました。すると、小坂医師は「じゃ今度は漢方薬と抗ガン剤。」といとも簡単に言いました。そして今までのはまたあとで飲んでもらうから大事にとっておくようにいわれました。このときからホルモン剤が出されず、そしてまたあとから飲んでもらうと言われ、がんに対して、また疑問を抱くようになりました。 一三、その後は二週間ごとに病院へ薬をもらいに行き一ケ月に一度の診察、二ケ月に一度の血液検査を受けました。しばらく経って、また薬の副作用と思われる症状があったので話すと「じゃ、こっちだけでも飲んでよ。」と抗ガン剤の方を示されました。 平成四年九月から一〇月にかけ、今までに経験したことのない下痢が続き、乳がんの術後だとは言わずに肝門科の医院でみてもらったところ直腸炎と診断され、原因についてはちょっと考えながら抗生剤などを長く飲んでいたり、ストレスが続くとなると言われました。私は抗ガン剤の影響としか思わなかったのでその間しばらく抗ガン剤は飲みませんでした。 がんとむすびつけられるといやだったので治ってから、外来の診察の時、直腸炎のことを小坂医師に話すと、「どこの医者がそんなことを言った。直腸炎をおこす薬は限られたものだ。」と否定されました。その後若い医者にも同じことを言われました。 平成四年一一月、主治医の小坂医師が学会出席で不在のため、若い医師の診察を受けたことがありますが、その時「あなたは薬を取りに来ていないけれど、素人が勝手に判断して薬をやめるな。」と言われました。私が副作用がきついと言うと、「そんなことはすぐにいってくれ。薬を飲むのか、命を捨てるのか。」と怒鳴られ、とても副作用の症状につき詳しく話せるような状況ではありませんでした。 以前から副作用のことは人によってみんな違うし医者のためと思って言ってあったのに力ルテに書いてないのかと思いました。 平成四年一二月にも、別の若い医者から凄い剣幕で「素人が勝手に薬をやめて…。」「命を捨てるのか、薬を飲むのか。」「再発しても診てやらないぞ。」「命がおしければ飲め。」と矢つぎ早に言われました。上半身裸で寝た状態のままで上から怒鳴られるものですから悲しくなって、はいはいとしか言えず、帰ってきました。 医者は予防のために抗ガン剤を飲めと言うけれど、いくら考えてもがんをやっつけるほどのクスリがいい細胞に良いわけないし、飲まずにいるととても健康でいられました。副作用をおしてでも飲む必要があるのか納得できる説明もなく、私の体にどれ程影響が出ているのか、耳を傾けようとさえしない医師は信用できなくなり、一度、他の病院で見てもらおうと思うようになりました。市立病院へは医師とうまくやるために何も言わず通院はしていましたが、薬を飲むのはきっぱりやめました。 一四、平成五年二月、背中の凝りがきつくてかかりつけの内科医院へ行きました。小坂医師に言っても「手術とは一切関係ない。」「今まで通りでいい。」と言うだけだからです。 かかりつけの先生から、「手術のあとレントゲン撮ったかね」と聞かれたので、私は「手術直後に病室で取りました。その後は、他の患者さんは半年ごとに全身の検査をしているけれど、私にはお声がかからないのでやってません。したがってレントゲンは撮っていません。」と答えました。 そこでレントゲンを撮ることになりました。撮ってみてびっくりしました。他の人の写真がかけてあると思ったほどでした。先生も考え込んでしまいました。手術した跡にホッチキスの針のような金属がびっしりといくつも写っていたからです。先生は「こんなのみたことがない。これだけ金属が入っているんじや電気はかけられないよ。なんだか聞いておいで。」と言われました。 次に市立病院に行ったとき、若い医師に聞いたところ、「血管をとめるクリップだ。」と言われました。 一五、「医者がすすめる専門病院」という本があります。そこに清水市立病院の小坂医師のことがでています。それを読んで私は憤りを感じ、出版社に投書しようとさえ思いました。 同じ本の背中合わせのぺージにA先生もでていました。A先生は新聞の医療相談にも出ていました。私はその新聞記事の終わりの方に「入院、手術のみならず、術後の肉体的・精神的問題に対応できる医師の指導を受けられることが重要です。」とあるのを読み、とにかく右腕のむくみの件を聞いてみようと思い、病院へ行きました。 平成五年四月二一日(水)、A先生の外来は、清水市立病院とは違い、待っている患者がいなくて、私は日を間違えたかと思ったくらいです。問診の時も清水市立病院のように上半身裸で寝ていなくてもいいのです。着衣のまま対等の立場での話ができました。 A先生とのやり取りで記憶に残っている点を記しますと、次の通りです(素人の私が聞いたことなので私の理解不足で不正確な点もあるかも知れません)。 第一に、入院期間の事です。私は自分は毎日のように帰らせてくれと頼んで三週間だったけど、他の人は六週間から八週間くらいだったというと、A先生は「うちでは三日です。」「体力のない人とか年寄りの方は一週間くらいのこともありますが、できるだけ普段通りの生活ができるようにしています。後は通院です。」と言われ、愕然としました。 第二に、A先生にリンパ節転移やホルモンとの関係のことを聞かれ、私が何も答えられなかったことです。私が答えられなかったのは、小坂医師を始め、市立病院の医師からはこれらの点について何の説明も受けていなかったからです。私が聞いているのは「神のみぞ知る云々」だけですから。 第三に、ガンの大きさと手術のことですが、A先生は私の話を聞きながら、紙を持ちだし「一・八センチというとこんな大きさですよ。どういう測り方をしたのかわからないけど」と言いました。私は「手で触った感じでは大豆ぐらいしかなかったから一・八センチと聞いたとき、エッ、間違いじゃないかと思いました。」と言いました。A先生は「いつごろからしこりに気付いたのか」「それまで何年もかかってその大きさになったのだから何もあわてる必要はなかった。」と言いました。 第四に、ガンの種類についてです。A先生はバラの花束を例えに絵を描きながら、一本の茎の中だけにあるもの、ジワッと全体に広がっているものがあることも教えて下さいました。「ガンの判定についてもいろいろな調べ方があるが、顔つきは悪くても良性だったり、大丈夫と思っても悪性だったりする。しこりを最低でとってだいたい一〇日くらい検査にかかるから二週間後の外来で、結果を言っています。」「手術の方法も年齢などを考えて決めます。ガンも一人一人みんな違うから付き合いながら治療計画を立てています。」と言っていました。 第五に、A先生は私の手術の跡を見てハッと驚き、「二・三〇年前のやり方だ。こんなひどい手術、ここ何年も見たことがない。これじゃ中はメチャメチャだ。」と言われました。 第六に、抗ガン剤の事です。A先生は「手術でこれだけとったら残っているかもしれないガンは五パーセントあるかどうかだし、抗ガン剤は三割のガンにしか効かない。高い薬だし、私は本当に必要な人にしか出しません。」と言われました。 第七に、血管をとめるクリップのことですが、「見たことも聞いたこともない、余分なレントゲンはあてたくないけど、かかりつけの内科医院でとって二力月たっているから私もみせてもらいましょうか。」と言ってレントゲンを撮った後、A先生は「今の医学で金属の歯が一本入ってもアレルギーをおこすことが分かっているのに、とても考えられない。溶ける糸を使うとか方法はあるのに…」と言っていました。 第八に、腕のむくみのことです。A先生は、「リンパ腺を取ったということは排水溝を取ったのと同じことだから手術直後からマッサージしてあげないと。入院中、何をしていました?教わらなかったですか?むくんできてからでは遅すぎます。一生のことだし、重いものを持ったらダメ。少し使ったら御苦労さんと言ってマッサージしてあげないと。」と言われました。こんな話しは初めて聞くことでした。それから三〇分間マッサージ機をかけて下さっている間も先生の同情される気持ちがヒシヒシと伝わってきました。家庭用の機械もあるけどここ何年もこんなひどい手術の人をみたことないからメーカーへ問い合わせてあげると言って下さいました。A先生は話の内容から「再発は全然心配していないようだね。」「私なら切らなかった。」とも言いました。 このときあらためて、一生残る後遺障害だと認識させられました。 A先生の病院へはその後二回、血液検査とその結果を聞きに行きました。 この時を機に、清水市立病院へはいっさい行っていません。 一六、平成六年五月、私は小坂医師を管理・監督すべき立場にある清水市が許せないのと、私のような思いを他の人にしてほしくないことと、安心してかかれる病院になってほしくて、自分なりに乳ガンのことについて勉強し、清水市の市政モニターに応募しました。そして同年七月九日、一回目のレポートで、自分の体験に基づいて市立病院の問題を取り上げました。 レポートは病院長に渡り、緊急トップ会議が開かれたそうです。その直後、七月一二日(火)タ方、小坂医師から電話がありました。「竹下さん、これはなんですか。とにかくご主人と一緒に会いたい。」「静岡のある公立病院とはどこのことですか。誰ですか。本当なら訴えますよ。」と凄い剣幕でした。私から聞き出してすぐA医師に電話を入れてますが不在でした。 その日の夜、小坂医師の自宅で二時間程話し合いをしました。私はこの機会をまっていたのです。小坂医師の奥さんと病院の庶務課長が同席しました。小坂医師は「中傷・誹謗だ。人間性を疑う。謝罪文を書いてもらう。知らない人が読んだら清水市立病院がどんなにひどいかと思う。こういうことをする前にインタビューを申し込むなりすべきだ。」と言いました。私は事実しか書いていません。「私に予備知識のなかったことがいけなかったのですが…」と言うと「誰だってそうだ」言葉をさえぎられてしまいました。だから正しい情報を患者に与えるのが医者の義務だと思うのですが。また、小坂医師は、「私はじめ、外科医九人みんなおこって、全員やめると言っている。二〇何年医者をやっていてこんなことは初めてだ。」「私を支持する人を何人もつれてきましょうか」ともいっていました。何人つれてきても私の疑問はとけないのに…。病院をやめることは何度も言っていました。患者としての素朴な質問にきちんと答えてくれればいいだけのことなのに、なぜこれほどまで興奮して医者をやめると言い切るのか、うしろめたいことでもあるのかなと思いました。 途中A医師から電話が入り、小坂医師がいきさつを話し、「本当ならば訴えますよ」と言い、A医師は否定されました。A医師の立場上、十分納得できるので安心しました。 それを受けて小坂医師は意気揚々と「言ってはいないと言ってますよ。謝罪文を書いてもらう」と怒っていました。 この時の主な話の内容は次の通りです。 @、手術前の説明について 小坂医師は私に力ルテを見せながら、同席していた看護婦が説明内容を書きとってあるといいましたが、マニュアルどおりの感じで私が説明を受けた覚えのないことも書いてありました。 A、手術後の説明について まず、リンパ節転移がなかったということは、このとき初めて知らされました。 次に「どういうガンか」ということを質問しようとしたところ、言葉をさえぎられ、「神のみぞ知る云々ということは、神経質な人にはみんなこう言っている。今日も同じことを言った患者がいる。」と言われました。だから結局、今までどういう性状のガンだったのかについては知らずじまいです。 B、どういう薬かについて看護婦が、「いいよ、竹下さん、先生の奥さんに電話して聞きな。」と言った点について、小坂医師は「女房に聞いてくれればうまく答えてくれると思った。」と驚くべき答えが返ってきました。私は自分で調べてあり、この薬はその後副作用死が報告きれているUFTでした。 C、半年ごとの全身検査について私だけ声がかからなかった点については、「女房や息子との関係もあるし、竹下さんはデリケートで神経質だから、全身の検査などと言うと心配すると思ってやらなかった。」と言っていました。全く心配のいらないものだったのかとあらためて思いました。 D、若い医師とのやりとり(命がおしければ飲め、等薬の件)は、「カーテンの横で聞いていたから次は私がみたでしょ、だけど竹下さん、自分の意思で飲んでいないんでしょ。じゃいいじゃないですか。」 この時、いろいろ話しをしましたが、小坂医師は興奮しまくっていて、ほとんど話にならず言われるまま、はいはいと返事をしていました。私にとってリンパ節転移がなかったことを知った以外、小坂医師からはまともな答えはありませんでした。 小坂医師から意見をもとめられた庶務課長は二人の様子と内容は院長に伝えますと言っていました。 清水市の対応−七月一二日の話し合いでは竹下さんは納得していない、一時の感情で出したレポートではないと事務部では判断し、事務部長と庶務課長同席の上八月一一日(木)竹下宅で午後約二時間話し合いをしました。(「」内は事務部長の発言です。) 医者と顔を合わせる前に裸で寝ていないと診察しないことについては「男の私でも恥ずかしいですよ。」「指をちょっと切るのも躊躇するのに、それだけ大きな手術をするのに、病変の部分をみせてもらってないんですか。それは納得できないですね。」 いろいろ話し合いをしましたが、実際診察室でどんな診療が行われていたのか全然知っていませんでした。「そんなにひどい病院、私でも行きませんよ。」「確かに問題の多い医者だけど、いい評判もあるものだから。」「必ず改善しますから竹下さん、患者としてまた来て下さい。」とんでもない、とにかく売上げのことしか考えられないのかと思い財政面からの追及もしましましたが、市ほ全く関係ない独立採算と言っていました。健康な人は行かないから恐ろしいことです。 この時の内容も院長に報告しますということでした。その後、音沙汰なく今に至っているわけです。 私の疑問に答えて下さっていれば、ここまで引きずることはなかったのです。七月一二日の件も八月一一日の件も同席していた庶務課長はいっさい口をはさまず、終始メモを取っていました。 病院での小坂医師は本当にはだかの王様で、医者も看護婦も誰も何も言えない状態で、はれ物に触るような接し方をしています。だからここまでしたまわりの責任は非常に大きいと思います。私が納得していないと分かった時点で、院長なり、事務部長なりが、小坂医師に進言できなかったのでしょうか。「一番神経を使う相手は患者ではないのですか。」事務部長に伝えました。事務部長は「ごもっともです。」と言っていました。 病院ぐるみの詐欺にあったと思っています。 一七、以上の次第ですが、私は清水市立病院に対して次のような理由で、損害賠償請求訴訟を起こしたいと考えています。 第一は、手術前の説明が間違っていたために、私が温存療法を選択できなかったということです。その結果私は、胸筋を温存し、乳房は全て切り取るという手術を受けたわけですが、術後の抗がん剤の投与、手術による後遺症については、術前にも術後にも小坂医師から何の説明もありませんでした。 手術で右の乳房を広い範囲で切り取られたため、肉体的苦痛を伴う精神的苦痛を蒙っているのです。これらの点については慰謝料を請求したいと思います。 第二に、手術そのものが雑で、胸筋保存と言いながら術後の私の右胸は胸筋まで切り取るハルステッド手術の後と同じくらいひどいもので、体力は落ちるし、大きな機能障害が残っています。右上半身はしびれ、きつくしめられて鉄板のサンドイッチで脇はボールがはさまった状態です。また右腕がむくんでおもくるしくだるく、筆圧が出ないのと運筆が思うようにいかないため、うまく字も書けず、車を運転するにもハンドルが思うように切れず、とてもつらいし、重いものを持つこともできません。背中のこりもひどいものです。私の出来る仕事の量は、手術前と比べると三分の一以下(とても比較できません)になったというのが実感です。 この点については、労働能力喪失による逸失利益と慰謝料の請求をしたいと思ってます。 また、血管をとめるクリップが入ったままです。この件も全く説明がないし、身体への影響、今後どうなるのか、後遺障害との関係も説明すべきことと考えます。 第三に、術後のホルモン剤や抗ガン剤の投与につき、薬の種類、必要性等私に対して全く説明をせず、私が副作用を訴えているのに全く聞く耳持たずで、脅迫して投与を続けていたことです。この点についても慰謝料の請求をしたいと思っています。 第四に、私は本当に自分が乳ガンだったのかという疑問を払拭できないでいます。しこりの大きさ、超音波の先生の話、検体を見せてもらっていないこと、自介でみるからすぐ分かると言って次の日に結果を言われていること、術後小坂医師からガンの性状につきついぞ説明がなかったこと、半年毎の全身検査につき私だけ声がかからなかったこと等々からです。もしそうであるならば、手術は必要無かったわけで、当然慰謝料の請求をします。 私にとっては、先に述べたような手術による、まったく説明もなく、一生残る後遺障害で、以前のように仕事が出来なくなり、夫や従業員に大変なしわよせがいっていることのほうが深刻です。夫にとって、毎晩の背中のマッサージは大仕事です。これらのことが全てひっくるめられて私の精神的負担・苦痛となっています。 一八、ところで、術後の小坂医師の対応を見ていると、前述のように全く自らの非を認めようとせず、逆に私に「謝罪文を書いてもらう」「人間性を疑う」と言うくらいですから、本訴訟になると、力ルテ等に改ざんを加えて自分のミスを隠す可能性も十分あります(小坂医師は平成六年七月一二日夜話し合った時、目宅に私の力ルテを持ってきていましたが、医師が力ルテを自宅に自由に持ち帰ることができるようだと余計に改ざんが心配です)。 そこで今回、証拠保全の手続をお願いした次第です。 一九九五年五月 竹下勇子 |
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