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「近藤誠医師の訃報に接し」          2022年8月21日


近藤誠先生との出会い 
 突然の訃報に驚いています。
 30年前(1992年)、清水病院での乳がん手術から1か月後、様々な疑問を抱えて悩んでいた時に近藤先生のご著書『乳がん治療・あなたの選択』に出会い、患者会の存在を知りました。すぐに連絡を取って会員になり、相談をするようになりました。

 数か月後、清水病院外科を訴えていた裁判の第1回口頭弁論の記事が地元新聞で報じられ、私の主治医が訴えられていたことを知りました。「やっぱり同じ苦しみを抱えた人がいるんだ」と合点がいきました。ところが原告が匿名報道だったため、どうすれば捜し出せるのかそのことも患者会に相談しました。

 翌年、中高時代の同期生から、「清水病院で乳がん手術を受けて近藤先生の放射線治療を受けている」と聞かされ、「あの本を書かれた近藤誠先生が清水病院に…!」と仰天し、即座には信じられませんでした。
 早速、近藤先生に私の実情を伝えるお手紙を差し上げたところ、お返事をいただきました。近藤先生とのご縁はこの時からです。

 その後、乳がんの診断や手術のこと・抗がん剤のことなどについて図書館で調べたり、患者会主催の近藤先生がいらっしゃる講演会へ出席して情報収集に努めました。
 知れば知るほど清水病院で受けた手術や治療との違いに落ち込むと同時に、やはり私が抱いていた疑問や違和感は間違いではなかったと確信するようになっていきました。

 ある時、患者会から電話で、私が捜していた清水病院外科を訴えていた原告と思われる人がみつかったと連絡がきました。
 近藤先生が「竹下さんが捜していたのはこの人ではないか」と、ご著書の読者カードで該当する人をみつけて患者会へ伝えて下さったのです。
 近藤先生のおかげで医療事故一覧の「Cさん」と出会うことができました。そしてCさんのおかげで清水病院を訴えていた原告仲間に次々と出会うことになったのです。

 1996年2月、Cさんと同じ弁護士に依頼して提訴したことを近藤先生にお伝えしたところ、近藤先生から「3月末日をもって清水病院のパートをやめるので訴訟について全面的に協力できると思います。なんなりとご相談ください。」とお手紙をいただき、本当に心強くうれしかったです。

 『患者よ、がんと闘うな』が出版されたのは、この直後です。
 ベストセラーになってマスコミに取り上げられ有名になっても約束は守り通してくださいました。

被害者の会設立
 1998年5月、「清水はひどいから僕行くよ」と、清水病院の地元での講演会を近藤先生が提案して下さって、1回目が実現しました。
 当時はこちらの態勢が整わず、私が提訴したことが報道された時に声を上げて下さった病院職員と会場探しをして、事前準備や当日は東京の患者会の皆様と、清水病院の原告仲間、私の家族で対応しました。

 清水で人が集まるか心配しましたが、100人収容の会場に300人を超す人たちが押し寄せ、近藤先生の知名度にびっくりさせられた出来事でした。

 同年秋に医療問題を扱う出版社の紹介で、ルポライター米本和広氏の取材を受け、『いのちジャーナル』に、その後、別冊宝島『病院に殺される!』・月刊現代『虚像の名医』に清水病院のルポが掲載されました。

 それ以前に、米本氏は抗がん剤のことで近藤先生を取材していらしたことを後から知って、ご縁に驚きました。(米本氏は安倍元総理銃撃犯山上容疑者が手紙を送った相手です)

 1999年、米本氏の清水病院ルポが載った別冊宝島『病院に殺される!』が発売されると、市議会でも病院問題が取り上げられ、後に「宝島議会」と呼ばれるようになりました。この年にも近藤先生の2回目の講演会を開催しています。

 2000年2月、清水病院の被害者や病院関係者を取材した米本氏から、被害をなくすために被害者が中心になった会の設立を提案され、「清水市立病院から被害をなくしより良い病院にする会」を発足しました。(現・「静岡市立清水病院から被害をなくす会」)
 発足会当日、米本氏は取材した被害実態のお話を、近藤先生は「医療被害にあわないために」を記念講演して下さいました。

 2003年5月、近藤先生と米本氏をお招きして第4回総会と、静岡市と清水市の合併を記念して静岡駅近くの会場で講演会を開きました。

 2010年3月、近藤先生と米本氏をお招きして病院被害者とともに清水駅近くのお店で「会設立10周年」を祝いました。

竹下裁判のこと
 一方で、私の裁判は1996年に提訴後、医学的にわからないことがあるたびに直接、近藤先生に教えていただいていました。

 1998年、近藤先生は私が訴えていた外科医の技量について弁護士から問われ、元同僚の腕前を批判する辛い心境に触れた後、「(前略これほど下手な外科医が日本にいるんだ、それが公立病院の要職にある、と知って驚いたのです。しかしそのことを私は他にもらすことはしませんでした。上記のためらいがあったことのほかに、いずれ病院側や清水市も気づいて、何か手を打つだろうと考えていたからです。(後略)」と裁判所に提出した意見書に書いて下さっています。
 この外科医の手術写真は、近藤先生の講演会やご著書でひどい手術の代表として紹介されています。

 近藤先生に私のマンモグラフィーの読影をお願いした時、レントゲン写真を見ながらお電話をいただき、「がんの所見はない。標本は本当にあなたのだったの?」とおっしゃって、病院提出のがん標本のDNA鑑定を提案して下さったのです。
 裁判所もこちらの主張を受け入れてDNA鑑定を認めました。近藤先生のおかげです。被告側弁護士がDNA鑑定の第一人者であることに結びつきました。

 病理鑑定医については、近藤先生から「あなたにとって都合がいい日本でがんの範囲が一番狭い病理の先生を紹介する」とお電話をいただいて、面食らったことを覚えています。

 DNAと病理の鑑定結果を数か月待っている間、弁護士のことで悩んでいることを米本氏に相談して、静岡の弁護士から東京の弁護士2人に替えました。

 DNA鑑定結果が出た後、裁判長から「DNA鑑定は裁判所も民事で初めてでわからないので、みんなでお勉強しましょう」と提案され、日本人の特徴的な塩基配列の研究者(国立大学法医学教室)を静岡地裁へお招きしてレクチャーしていただいたことがあります。(2001年6月)
 この時、近藤先生も出席して下さって、申し訳なく恐縮していたところ、「僕の勉強だから」とおっしゃって交通費は自前でした。

 また、清水病院で乳がんではないのに手術されて放射線科へまわされた患者のカルテを近藤先生が3人分裁判所へ提出して下さったことがあります。
 がんではないのに手術されたこと自体、大問題だと思うのですが、裁判所はそれに対して、「原告のものではない証拠を出して、原告は何をおっしゃりたいのですか」で、終わり。

 東京の弁護士たちに替えてからは頻回の打ち合わせに、近藤先生と米本氏が出席して下さっていました。お二人ともまったくのボランティアで謎解き解明協力という感じで、とてもご熱心でした。打ち合わせ後、3人で食事をしたことがなつかしく思い出されます。

 2004年、地裁判決後、控訴に向けてDNA鑑定についてご意見を伺うために尋ねた国立大学の法医学部教授は、近藤先生のご紹介でした。
 近藤先生と弁護士2人と私たち夫婦を前に、教授は「外科医が外国旅行に行った際に(がんの標本を)入手したんでしょ、手術すれば儲かりますから」と、平然とおっしゃいました。聞かされた私たちは唖然とし、専門家の見方はそういうことなのかと驚くと同時に標本は外国人のものだと確証を得た瞬間でした。

近藤先生とのこと
 私の裁判は提訴から上告棄却で裁判が終わるまで12年近くかかりました
 近藤先生から「僕の患者になったら協力できないからね」と言われていましたが、無事にがん患者にならずに過ごすことができました。
 提訴時の「全面的に協力する」というお約束を守って下さり、何かお気付きのことがあればすぐにお電話下さっていました。DNAや病理のことが問題になっていた当時は、朝8時頃の電話は近藤先生からという時が何度かありました。

 裁判の結果は残念でしたが、清水病院での出来事は到底想像もできない、他人に話して信じてもらえるような内容ではなかったため、近藤先生に出会えていなければ、あきらめざるを得なかった事件だったと思っています。
 近藤先生も院内で同じ思いを抱えていらしたご様子で、私との出会いを「赤い糸としか思えない」とおっしゃっていました。裁判資料となれば公文書として公表できると、問題解決に多大なご尽力を下さいました。

 病院での被害実態として、近藤先生は複数のご著書で私の事件を実名で取り上げ読者に警鐘を鳴らして下さっています。

 裁判が終わってからも会のHP更新報告や近況は伝えていました。近藤先生に最後にお会いしたのは2014年6月、米本氏もご一緒で、いつもの中華料理店でした。
 その時は今まで接したことがない近藤先生のご様子にびっくりしました。全身トゲだらけのハリネズミのようなピリピリした感じで、攻撃されることが多いんだろうなとお察ししました。

 メールでは昨年9月に「一緒に活動していたのが昨日のように思いだされます。」と送信して下さっているので、近藤先生も思い出して下さっているんだと思っていました。

 2020年は会設立20年でしたが、コロナ禍で何もできずに過ごしたため、2025年には25周年を近藤先生と米本氏と10周年の時のようにお祝いできるといいなと思っていた矢先に訃報に接してしまいました。早過ぎました。残念です。

 我が家の犬(パグ・12歳)は近藤先生の一言で飼い始めた犬です。それまで飼っていた犬の死を伝えた時、「ペットがいなくてさびしいですね。私は今から次は何を飼おうか考えています」と書いたお手紙をいただいて背中を押されたのです。後から「あのように書けば飼うと思っていた」と近藤先生から言われ、心理作戦にはまったわけです。

 近藤先生とは約30年間のご縁でした。強烈に頑固な一面をお持ちなのは、まわりからの攻撃から守るすべだったのでしょう。
 病院被害者にとっては本当に大事な大事な存在でした。お疲れさまでした。どうぞごゆっくりお休み下さい。
 心からの大きな大きな感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
 どうぞ安らかに、心からご冥福をお祈り申し上げます。
 
                                竹下勇子(2022年8月21日)

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