資料
●「近藤誠の『女性の医学』」(近藤誠著・集英社)23頁から26頁転載
がんを作り出す病院を司法は野放し
Iさんは逆転勝訴しましたが、実は医療裁判では被害にあった患者側がしばしば敗訴します。明らかに医者のほうにミスや責任があっても、です。
僕は、『患者の権利法をつくる会』および『医療事故調査会』の世話人となり、医療被害にあった患者さんの救済活動にも力を注ぐようになりました。それらの活動の中でも、医療における女性たちの不遇をたびたび目の当たりにしました。
1991年、静岡県在住の竹下勇子さん(当時42歳)は、乳房にしこりを感じ、乳腺外科の名医がいると評判の清水市立病院(現・静岡市立清水病院)を受診しました。
乳がんかどうかは触診、エコー(超音波)、マンモグラフィ(乳房のX線撮影)で多くは見当がつきます。それでもはっきりわからない場合は、しこり部分の細胞を注射器で吸引する細胞診を行い、それでも確定できない場合に組織を切り取る生検を行います。
しかし、勇子さんの担当医は、細胞診をすっとばし、初診の翌日、説明もなくいきなり生検をして、その翌日に「乳がん」と診断を下しました。そして、「乳房温存療法はデータがない。命をとるか、危険をとるか」と迫った。おびえきった勇子さんは乳房全摘術に同意するしかなく、せかされるように初診から13日目には手術が行われました。
手術の腕前は、評判とは裏腹にひどいものでした。術後、傷あとがふさがらずジュクジュクに。腕には機能障害が残りました。切り取ったがんについての説明を求めても、担当医は「神のみぞ知る」とまともに答えない。勇子さんは悩んだ末に、説明義務違反と機能を損なったことへの賠償を求め、1996年に民事訴訟を起こしました。
やがて、裁判上明らかになった諸事情から、「本当に乳がんだったのか」という疑問がわきました。診断に使った組織標本を他人の標本と間違えたのではないかと疑ったのです。
そこで東京医科歯科大学の法医学教室に依頼してDNA鑑定が行われたのですが、驚きの結果が出ました。DNA配列が3ヵ所も異なっており、病院が提出した標本は他人のものであることがほぼ確実。ということは、生検で得た勇子さんの組織は、どこかの時点で他人のがん組織とすり替えられたとしか考えられないのです。
ところが判決は意外なものでした。突然変異の可能性を否定できないなどの理由をつけて、鑑定結果は無視されたのです(インフォームド・コンセント違反があったとして一部勝訴)。控訴審でも鑑定結果は無視され、2007年、上告は棄却されました。
奇妙なことに、提訴した時点では、DNAは争点になっていなかったにもかかわらず、被告人の弁護士には、最初から、東京のDNA鑑定訴訟の第一人者がすえられていました。おそらく病院幹部が選任したと思われる。つまりは病院側も乳腺外科医の所業を知っていて、組織ぐるみで隠蔽工作をはかったのでしょう。
裁判には負けましたが、もし泣き寝入りしていたら、竹下さんはただただかわいそうな被害女性として、一生悔やみながら生きていかなければならなかったでしょう。
竹下さんは裁判を通して、自分の人生を取り戻したのだと、僕は思います。
彼女が勇気をもって声をあげたことで、同様の被害にあった女性たちが続々と現れました。竹下さんは自分のような被害者を出さないためにと、『静岡市立清水病院から被害をなくす会』を設立し、医療被害をなくすための活動を地道に続けています。
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