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雑記帳
赤字病院のこわさ―病気がつくられる
新しい風土病出現を危惧 2025年12月13日 1.「来る時元気、帰りは病気」 2.がん患者を作り出す病院 3.乳がん患者お仕立て代―病理診断費用と外国人がん標本代 4.急ぐ「生検」手術の意味―がん患者お仕立ての「罠」 5.金を生む検査漬け、放射線漬け、化学療法漬け 6.逃げ出したから生きている 7.市の対応―知っていて何の手も打たず野放し 8.売上げのため新しい風土病が出現しないよう監視の目を 1.「来る時元気、帰りは病気」 私が清水病院で体験したことは、「まさか、まさか」の連続でした。そして、その後の裁判では、「やっぱりそうだった」の連続でした。 病院は病気を治す所だと思っていたし、市立病院は「市でやっている病院」だから疑う余地は無いし、ましてや、医者が嘘をつくとは思ってもいませんでした。 小坂医師一家は清水へ来た当時、家が近くて、どちらも息子たち2人。同じ幼稚園に通わせていたので、送迎バス停ではいつも奥さんと一緒だったという間柄でした。ご主人の小坂医師は清水へ赴任した当時から「乳がんの名医」として知れ渡っていたので、何の疑いもなく受診したのが大間違いでした。 診断と治療に疑問をもち始めても、「まさか、○○ちゃんのお父さんが私を騙すわけがない」と、疑問と否定を繰り返していました。しかし、疑問が確定的になった時、同じ思いを他の人たちにさせたくない、被害をくい止めるには私が声を上げるしかないと、手術から2年後(1994年)に市政モニターに応募しました。しかし、被害をくい止めることはできませんでした。 後から思えば、初診は蟻地獄のようでした。私の提訴報道を知って声を上げてきた病院職員から清水病院のことを、「乳がんは清水の風土病」と、「来る時元気、帰りは病気」と教えてもらいました。受診する前に知るべきでした。 2.がん患者を作り出す病院 私が声を上げた最も大きな理由は、手術後、がんについて「神のみぞ知る」としか答えてもらえなかったことです。人格否定され、とんでもない屈辱的な対応しか受けられなかったことでした。 カルテを差し押さえる手続きのための陳述書に、「病院ぐるみの詐欺にあったと思っている」と書きましたが、のちに清水病院放射線科に勤務された近藤誠医師は、治療現場で体験されたことと、私の裁判であばかれた乳がん診断方法から、清水病院を実名で、「がん患者を作り出す病院」・「医療詐欺のカラクリ」とご著書に書かれています。私が医療を受ける側として認識したことと合致し、私だけの問題ではないことが証明されました。 3.乳がん患者お仕立て代―病理診断費用と外国人がん標本代 私は請求されていないし支払っていない 初診翌々日のがん告知。病理診断が介在したとは思えないスピード診断。後の裁判で、「いつどこでだれが診断したのか」の問いに対する市側主張に沿った診断方法で費用を算出してみました。 小坂医師は生検手術後、迅速標本をつくった。それを持ち、浜松医科大の著名な病理学教授のところへ、アポなしで初めての診断依頼のため清水病院を出発。清水病院からタクシーで静岡駅。静岡駅10時26分発の「こだま」で浜松駅へ。その先の交通手段にふれていませんが、浜松駅から浜松医科大までタクシー。帰路も同様の交通手段とすれば、 清水病院 ↓↑ タクシー(片道13.6㎞) 4,620円×2 静岡駅 ↓↑ 新幹線自由席(片道) 2,330円×2 浜松駅 ↓↑ タクシー (片道8.7㎞) 2,890円×2 浜松医科大病院 現在の金額で交通費を算出して往復約2万円。33年前なので、現在より低いでしょうがそれなりの交通費と、アポなしで「偶然にもいらっしゃった」国立医科大学の著名な病理学教授に迅速標本を「がん」だと診断してもらい、後日、永久標本ができた際の診断のお願いもしたのですから、しかも初めての依頼なので相応の診断費用が生じたはずです。 交通費と診断費用は誰が負担したのでしょうか?私は請求されていないし、支払ってもいません。売上げのために乳がん患者を仕立て上げても、お仕立て代未収では税金から補填でしょうか? しかも、小坂医師は「アポなし」なので、教授が不在ならば交通費は無駄。診断は不可能。市側は、そんな「賭け」に出た主張を展開し、教授の診断書面は無いのに裁判所は「筋が通っている」と認定しました。 裁判当時、教授はすでに亡くなられていて、教授が竹下裁判に無関係であったことを証明して欲しいと、奥様は日記を裁判資料として提出して下さいました。 存在したのは教授の日記、存在しなかったのは病理診断書面でした。 小坂医師がアポなしで診断依頼した日は、教授にとって年末仕事納めで、その日の行動が日記に記されていました。 清水病院で適切な病理診断を行っていれば、つじつま合わせの作り話は必要なかったはずです。しかも、診断に使われた標本はDNA鑑定で私と一致せず、外国人のものでした。教授に外国人のがん標本を診断してもらったとすれば、それこそ教授を欺く行為で、ご遺族がお気の毒過ぎます。 「乳がん患者お仕立て代」に、病理診断に使われた外国人のがん標本代追加です。がん標本を「外国旅行の際に入手した」となれば、旅費も追加です! 参考記事 ◆米本和広氏寄稿「竹下裁判『判決の真実―6.死人に口なし』」 4.急ぐ「生検」手術の意味―がん患者お仕立ての「罠」 1993年の乳がん患者4人の初診日から手術日までの推移(竹下調査から) Aさん Bさん Cさん Dさん 初診日 9月7日 10月19日 11月2日 11月17日 生体検査 9月8日 10月20日 11月4日 11月25日 がん告知 9月8日 10月21日 11月4日 11月25日 入院日 9月8日 10月20日 11月4日 11月25日 手術日 9月22日 11月1日 11月17日 12月3日 彼女たちは初診で、「明日、一日入院で生検」と言われて、初診翌日に入院させられ、入院・生検・がん告知が同日だったり翌日でした。私の時(1991年)よりスピードアップしています。 生検手術とがん告知が同日の患者(?)が、「いつどこで誰が診断したのか」と問えば、市や病院はどのようなストーリーを用意したのでしょうか。あと1人でも裁判を起こしてくれればと、どれほど思ったことか。声を上げる困難さを痛感し続けました。 その間にも年間100件近く(年末年始・夏季休暇除く週2回の手術日毎)の乳がん手術と、生検を含む「乳腺その他」手術は年間200件を超していました。 (手術件数平成4・11年度・平成12年度参照) 清水病院乳がん事件の一番の謎は、「なぜ、それほど生検手術を急いだのか?」です。私の裁判を通して導き出した答えは、「生検=罠」。 生検手術によって、「がんではない組織を摘出して、がんではない証拠を隠滅」。問題が起きた場合等に、「外国人がん標本を登場させる場面づくり」のための「罠」だったとしか思えないことです。小坂医師1人で考え出したとは到底思えない巧妙な手口です。 それにしても、「乳がん」と「乳腺その他」の手術で年間300超手術件数に、病理診断はどう対応してきたのでしょうか?市側主張による私の例に倣えば、小坂医師は標本を持ち歩いて、時間はもちろん、交通費や病理診断費用、外国人がん標本代にどれほど費やしたことでしょう。 5.金を生む検査漬け、放射線漬け、化学療法漬け 怖いのは、がん患者に仕立て上げた後の下手な大きな手術だけにとどまらなかったことでした。無断で勝手に患者(患者にさせられた?)をグループ分けして薬の投与試験をやっていたことをカルテで知り、抗がん剤と知らせずに薬を強要していた理由がよくわかりました。薬の売上と、投与試験のために何が何でも乳がん患者に仕立て上げねばという意気込みさえ感じました。 別冊宝島452『病院に殺される!』、83頁『内部告発!「危ない」医師たちの巣くう清水市立病院のデタラメ医療』で、ルポライター米本和広氏は「金を生む検査漬け、放射線漬け、化学療法漬け」と書いていますが、何の抗議も受けていないことを院長通達に対する反論手紙で明かしています。 参考記事 ◆別冊宝島452『病院に殺される!』、83頁『内部告発!「危ない」医師たちの巣くう清水市立病院のデタラメ医療』(HPには「文庫版のための追記」を含む「文庫版」を掲載) ◆院長通達反論 6.逃げ出したから生きている 私と同時期に乳がん手術を受けて6人部屋に入院していた人から、同室の他の5人がすでに亡くなっていると聞きました。また、乳がん手術後に小坂医師から、「抗がん剤は黄色にしますか、赤にしますか」と問われた人など、それぞれ本物のがんだったかもしれませんが、私の所へ声を上げてきた乳がん手術体験者の何人もが亡くなっています。初めての電話で小坂医師から受けた治療について4時間以上話してくれた人も、その後、亡くなっています。 私は小坂医師から命を引き合いに抗がん剤を強要されながらも副作用がきつくて自主的に服用をやめました。まともに服用したのは2~3か月くらいでしたが、劇症的に直腸炎を発症し、その後、炎症を繰り返して、クリニックで潰瘍性大腸炎と診断されました。健康体に抗がん剤だったのですから、身体が拒絶して当然でした。 2016年には大腸を全摘するしかないと言われるほど炎症が広がり、手術を回避するために腸内フローラ移植を受けて今は長期寛解に至っています。 下手な大きな手術による後遺症によって、身体がねじれてゆがみ、歩けなくなったため、補整のためにオーダーインソールに助けられて今は生活しています。 ネット検索で情報収集ができたおかげで腸内フローラ移植やオーダーインソールと出会うことができ、現在はどちらもサポートしていただきながら日常生活を保つことができています。情報収集力と費用負担力がなければ今を生きることは到底不可能でした。 乳がん手術1年後に清水病院から逃げ出しましたが、医者の言うなりに乳がん患者として売上に貢献(検査漬け、抗がん剤漬け)し続けていれば命はなかったと思っています。 7.市の対応―知っていて何の手も打たず野放し 係争中の小坂医師を講師に講演会 私が乳がん被害をくい止めたくて市に対して初めて声を上げたのは1994年、市政モニターとしてでした。市職員同席で小坂医師と、後日、事務部長と話すことができました。しかし、私の疑問に答えてもらえず、モニターレポートで小坂医師の技量や対応の問題に言及していたにもかかわらず、その後も市は何の手も打ちませんでした。(陳述書参照) しかも、小坂医師は、妻まち子さんを亡くされた久保山さんから1992年に提訴され、係争中だったことを後から知りました。 市政モニターとして声を上げた翌1995年7月にも、清水病院で小坂医師を講師に「乳がん講演会」が開かれています。案内チラシには「増えている乳がん でも早く見つけることは可能です。」と、乳がん検診を煽っています。「増やしているのは誰だ」「下手に切られたいのか」と怒り心頭でした。 案内チラシに主催が書かれていませんが、問合せ先が「清水市保健センター」、共催「清水市医師会・清水市立病院・清水市保健センター」となっています。市民にとって小坂医師を名医と思わせる機会になり、市ぐるみで小坂医師に餌食を捧げる手助けをしていたとしか言いようがありません。 市や病院に声を上げても何も変わらず、日々下手な手術で切られている人がいると思うといたたまれず、私の疑問も解けなかったため、1996年に市と小坂医師を相手に提訴しました。市の代理人がDNAに関する国の政府委員と知った時、何が何でも私を押さえこみたいのだと思ったし、裁判が進むにつれて市ぐるみの壮大な詐欺事件だったと認識していきました。 8.売上げのため新しい風土病が出現しないよう監視の目を 病院の収入は受診した人から得るしかありません。身の丈に合わない建物を建て、赤字病院であることを知らずに何の疑いももたずに市の病院を受診し、私は「生検の罠」にはまってしまいました。 久保山さんが市を訴え、私からも小坂医師に問題有りと市政モニターとして市へ公に声を上げたにも関わらず、メスを持たせ続け、講師として講演会を開催して市民に健診を煽った市と清水病院。 私が市と小坂医師を訴えた裁判では、外国人のがん標本や、亡くなっている著名な国立医科大病理学教授を登場させてまでもがん患者に仕立て上げようとした市と清水病院。 清水病院放射線科に勤務した近藤誠医師は小坂医師について、「これほど下手な外科医が日本にいたことに驚いた」・「外科医としての技量をもっていない」・「いずれ病院がわや清水市も気づいて、何か手を打つだろうと考えていた」(近藤誠意見書)と、裁判所へ提出した意見書で述べています。それでも何の手も打たずメスを持たせ続けた市と清水病院。 久保山さんの妻まち子さんと私のカルテには、現病院参与兼外科科長・医療安全管理室長の医師名が記載されています。「乳がんは清水の風土病」の渦中に院内にいて小坂医師手術後の患者を診ていたので、小坂医師の所業に気付かないわけがありません。まさに生き証人で、乳がん事件は決して遠い昔の話ではないこと、清水病院が自浄能力ゼロであることを如実に示しています。 早期に被害をくい止める機会があったにも関わらず、市や病院が何の手も打たず人権侵害を続けたことは、到底許されることではありません。 乳がん手術件数に表れているとおり、「小坂医師の実績づくり」と「売上げ」に市民は10年以上犠牲にされ続けました。 「乳がんは清水の風土病」によって、黒字を経験している清水病院です。 被害から学ぶ姿勢は皆無です。 清水病院に市民の多額の税金が投入され続けています。 税金の使い道として正しいのか、注視を! 売上げのための新しい風土病出現に監視の目を! (注:文中「市」=「旧清水市」) 竹下勇子(2025年12月13日)
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