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『病院に殺される!』(宝島社文庫)134〜171ページ

内部告発!「危ない」医師たちの巣くう清水市立病院のデタラメ医療

 米本和広(ルポライター)

 A自治体病院はベッド数五百床を誇る総合病院である。はじめに、患者がその病院で実際に体験した事例を四つほど紹介しておく。
 耳が腫れたため、耳鼻科に行ったところ、初診でがんと診断され、手術を勧められた。念のためほかの病院で診察を受けたところ、「バイ菌が入っただけです」と笑われた。
 会社の検診で貧血ぎみとの診断を受け、A病院で精密検査(胃カメラ、大腸スコープ)を受けたところ、「ポリープが二個あるが大丈夫」と言われた。増血剤と胃薬を飲みながら、二年間通ったが、どうも体調がすぐれない。思いあまって、別の病院にかかったところ、すぐに緊急手術となった。しかし、時すでに遅く、末期がんでどうすることもできなかった。
 乳がんと診断され、手術を勧められた。しかし、別の病院では「九九・九%がんではない」――その患者は今でも元気そのもので、「あのまま、あの病院に行っていれば、おっぱいがなくなっていた」と振り返る。
 ある患者が胃がんと診断され、手術を受けるため入院した。金曜日の午前中のことだった。パジャマに着替えて横になっていたら、医者がやってきて、「外泊していいんだよ。どうせ土日には何もやることないんだから」。この患者は再び外出着に着替え、自宅に戻った。入院患者が外泊すれば、看護婦の労働が軽減されるうえにベッドの利用代金が病院に転がりこむ。A病院では日常的に行なわれていることだ。

清水市立病院のウリは「乳がんの名医」

 古くは清水の次郎長、最近ではプロサッカーの清水エスパルスで知られる人口二十四万人の清水市に、おそろしく繁盛している病院がある。清水市立病院である。
 同病院はなだらかな丘陵地にあり、晴れわたった日には病室から駿河湾と富士山を望むことができる、市民にとって自慢の病院である。五百床ある病床利用率(ベッドの混み具合)は、じつに九五%を記録し、とりわけ四階にある外科病棟はI〇〇%を超える〈註1〉。全国に二百七十ある市民病院の病床利用率の平均が八五%であることからすれば抜群の数字と表現していいだろう。

 病院敷地内にあるバス停には十分おきにバスが到着し、そのたびに大勢の人びとが七階建てのレンガ色の建物に引き寄せられていく。やはり敷地内にあるタクシーの乗降車場はいつも賑やかで、面会の許可時間には約二百五十台の駐車場はほぼ満車となる。
 一日平均の入院・外来患者数は、県庁所在地である静岡市(人口四十八万人)にある静岡市立病院(ベッド数六百五十)を上回りヽ七百床を誇る県下最大の静岡県立総合病院(以下、県立総合)と遜色のない二千百八十八人にも及ぶ。

 玄関の右手には、財団法人・日本医療機能評価機構(以下、評価機構)の認定証が掲げられている。評価機構は日本における病院の質の向上を目的に、日本医師会、日本病院会など医療関係機関が出資して設立した団体であり、そこに認定されれば、「日本の権威から質の高い病院としてお墨付をもらった」ということに等しい。

 この病院のウリは、これ以外にももう一つある。それは、全国的にも、またがん学会でもまったくの無名だが、静岡県下では乳がんの名医とされている外科医の小坂昭夫氏(副院長)がいることである。女性宇宙飛行士の向井千秋さんが研修医だった頃の指導教官だったという話は知られているが、彼がなぜ名医になったのかは病院関係者を含め誰も知らない。口さがない人たちは「けんみんテレビ」に出演したり、出版社ライフ企画の『医者がすすめる専門病院』に顔写真入りで取り上げられたせいだろうと陰口を叩く〈註2〉

 しかし、彼の人気は絶大、乳腺外来の待合室は常に満席状態だ。風光明媚なうえに権威のお墨付、それに名医が加われば鬼に金棒。「外科の検査予約は半年先までほぼいっぱい」となるのは当然のことだろう。

〈註1〉午前中に退院した患者のベッドに、午後に別の患者が入る。そうなると、一ベッドを二人が利用したことになり、一ベッド単位でみれば、利用率は二〇〇%ということになる。こうしたことから、利用率一〇〇%以上ということもありうるのである。
〈註2〉かつて別冊宝島『病院ランキングー中部版』でも、清水市立病院はベスト八位にランキングされた。小坂氏のことには触れていないが、同編集部では増刷する場合に再度取材をし直すという。

乳がんは「清水市の風土病」!?

  しかし、にわかには信じがたいことだが、じつは冒頭で紹介したA病院こそが、この清水市立病院なのである。
 実際、この病院では医療過誤訴訟が六件も起こされ、和解になった一件を除けばいまだに係争中なのだ。これ以外にも数人が訴訟を検討しており、そのうちの一件は弁護士が訴状を書くだけの段階に入っている。
 係争中の五件が関係する医局は一つだけではない。小坂氏の外科が二件絡んではいるが、残りは産婦人科が二件、脳外科が一件。和解になったのは内科である。つまり、清水市立病院の医療ミスは一つの医局や一人のヤブ医者、あるいは病院に誠意がないといった単純な問題ではなく、病院の体質・構造そのものに起因しているといってよいのである。

 いったいこの公立病院で何か行なわれているのか、その背景には何かあるのか。告白してもらうのはこの病院に長く勤務していた医師のX氏である。
 彼の告白を聞く前に、一つだけ付言しておきたいのは、一九九九年の五月に聞かれた医療事故調査会のシンポジウムで、「調査した医療例のうち医療過誤と判定されたのは、大学、国公立、医療センター、基幹・準公的病院が全体の五三%を占めた」(調査会)と報告されたことである。清水市立病院だけではなく、今、公立病院全体の体質が問われているのである。

 では、さっそくX氏に登場してもらい、私が取材した元患者の証言を交えながら、彼の話を聞くことにする。X氏の発言は冒頭からすさまじい。

 つい最近もひどい例があったよ。末期の乳がん患者なんだけど、両方の胸を切除し、そのあと抗がん剤の投与を受けていた。足の静脈から注射針で抗がん剤を入れていたんだが、三回目の投与のとき、三井洋子さん(杏林大卒)という慣れない研修医がやったもんだから、血管の外に抗がん剤が漏れたんだよ。抗がん剤は毒薬だから、足の組織が壊死してね。それであわてて腿から皮膚を移植したんだが、結局患者さんは歩行困難のままで、今は車椅子生活だ。この方は小坂先生の信奉者だったけど、さすがに疑問を感じたのだろうな、市議を通して、病院側にクレームをつけた。そうしたら、小坂先生は「乳がん治療の一環でそうなったんだから、医療費は折半でどうか」と示談を提案した。患者さんもどういうわけか納得したみたいだけど、患者の足を壊死させておいて、半分に値切るんだから、小坂先生の腕たるや、相当なもんだよ。カッカッカ。

 こんな例もあった。胆石の手術をする前に、腹腔鏡で内部を調べていたときのことだ。やはり慣れない若い医者が操作を誤って、腹部を傷つけてしまった。それで出血が止まらなくなった。塞栓術を施せば、開腹手術をしなくても止血できる。それなのに、どういうわけか開腹手術をして止血した。あとで、こっそり外科のカルテを盗み読みしたら、胆石のことだけでなく、腹部に動脈瘤が見つかったと記されていた。あれには驚いたよ。ハハハ。あとで、看護婦に聞いたんだが、家族は「動脈瘤まで発見していただき、ありがとうございました」と頭を下げていたというんだ。さすがに、俺も複雑な気分になったなあ。
 これが発覚したら、医師法違反で医師の免許は停止。そればかりか、刑事事件に発展するよ。

 そうしょっちゅうあるわけじゃないけど、検査の際、孔をあけてしまう例はときどきある。病院内で密かに話題になったのは、看護婦の父親が大腸ファイバーの検査で腸に孔をあけられてしまった例だ。さすがに、この看護婦は文句を言った。裁判にはしない、その代わり示談金を払えと言ったらしい。いくら払ったかはわからないが、そのあとこの看護婦はいびり出されてしまった。

 清水市立病院は総合病院。内科に外科、整形外科、耳鼻咽喉科、産婦人科、眼科、小児科、皮膚科、脳神経外科、泌尿器科、歯科口腔外科、放射線科それに精神科、神経内科、形成外科などもある。このうちまともな科もあるが、手術が絡むような科には問題が多い。とりわけ、副院長で外科科長の小坂先生が絡む外科、そのなかでも小坂先生が直接執刀する乳がん関係はひどい話が多いねえ。

 だいたい、清水市立病院の乳がん患者の多さは異常だよ。県立総合の医師によれば、静岡県内の乳がんの症例数は一年間で、静岡市(人口四十八万人、以下同)が九十例、浜松市(五十四万人)が九十七例、沼津市(二十一万人)が五十例、富士市(二十二万人)が四十五例という。乳がん患者数と人口は比例しており、人口一万人に対してほぼ二例という割合だろう。ところが、人口二十四万人の清水市では清水市立病院だけで乳がんの手術件数が八十件以上もある。市内には、ほかに総合病院が二つある。そこでも乳がんの手術はある程度行なわれているだろうから、それを合わせればさらに増える。異常な現象と言っていいだろう。「乳がんは清水市の風土病か」と搦楡する人がいるのもわかる気がするね。

 しかも、清水市立病院で乳がんの手術を行なうのは小坂先生ただ一人。先生は五十七人の医師(九六年度現在)を管理する副院長で、外科科長。外科医は九人ぐらいはいるのに、年間八十件以上の手術を一人でやってしまうんだ。乳がんの手術は、外科のほかの手術とくらべると比較的単純で、それほど高度な技術を要求されないから、ふつうは若い医師にやらせようとする。小坂先生はたしか五十五歳でしょう。先生の手術が他の追随を許さないほど芸術的であれば、話はわかるけど――。どう考えても、異常だね。

 小坂先生は、じつは病院内では乳房フェチではないかと囁かれているんだ。というのは、乳がんと告知された患者さんは、一瞬頭が真っ白になったあと、ものすごく落ち込み、そして死の恐怖におののくでしよ。ところが、小坂先生は乳がんの患者が見つかると、じつにうれしそうな顔をするというからね。看護婦たちは、みんな気持ちが悪いと話している。

 名医の乳房診断は「触診というよりスケべな触り方」?

  九九年の五月、三十三歳の野田理恵さん(仮名)が、名医・小坂氏の診察を受けてみた。名医が乳房フェチかどうかを確かめるためである。

 診察室に呼ばれて入ると、野田さんは看護婦にいきなり上半身裸になって横になって待つように指示された。ふつうであれば、乳がんの診察は服を着たまま問診を受け、そして触診を受ける。ところが、清水市立病院は乳房をあらわにした状態で小坂氏の問診を受けなければならないのである。

 野田さんが横になって待っていると、名医が現われ、「乳腺になっちゃったの?」「しこりができたの?」としゃべりながら、野田さんの胸を触った。右を触り、左を触り、「何ともないと思うけど、レントゲンを撮りましょうね」。拒否すると、こんどは「エコーだけ、特別にエコーだけはやってあげる。一週間後に予約入れるからね」。この間も”触診”を続けながら、である。

 乳首を触ろうとするので、驚いた野田さんが身体をねじると、「怖からなくもいいからね」と、また触ってきた。
 最後に、野田さんを立たせ、右手を上げさせモミモミ、左手を上げさせモミモミ、そして両手を上げさせてモミモミ。野田さんが話す。
 「とてもいやらしい触り方でした。触診というよりスケベな触り方だった。もう、小坂の顔を見るのもいや」

 野田さんが名医の触り方を私の胸を実験台に実演してくれた。「こうやって8の字風に――」。恥ずかしい話だが、不惑の四十代にして不覚にも感じてしまった。それほど「いやらしい触り方」なのである。

「移動性・流動性のがん」なんて、あるわけない!

 小坂先生の乳房フェチが、乳房を観賞したり、触ることにこだわるフェティシズムなら、被害はそれほど深刻ではない。でも、乳房カットフェチなら――。こんなことを想像すると、恐ろしくなっちゃうけど、切除しなくてもいい良性腫瘍を乳がんだとして切った例はあるんだよ。

 放射線科の医者から聞いた話だが、放射線治療を受けにきていた患者さんのうち三人はまちがいなく良性を悪性とまちがわれて手術を受けた人だったと言っていたからね。ただし、乳がんは小坂先生が一手に引き受けているから、本当のところはよくわからないんだ。

 患者の体験談を紹介しておく。
 友田紀子さん(仮名)は、右の胸にできたしこりが気になって、小坂氏の診察を受け、レントゲンとエコーの検査を行なった。彼はレントゲン写真を見ながら、
「白いぶつぶつしたものが気になるなあ。細胞診をしよう」
 と言う。細胞診とは注射針で細胞の一部を吸い取り、がん細胞があるかどうかを調べる検査である。

 後日、小坂氏は検査結果を見ながら。”とんでも本”ならぬ、こんな、”とんでも発言”を宣わった。
 「ぼくの長年のカンからすれば、移動性・流動性のがんですよ。がん細胞が動いているため、針を刺したところになかっただけのこと。もう一回細胞診をやりましょう」
 がん細胞は移動する、というのである。

 その検査でもがん細胞は見つからなかった。小坂氏いわく「どうも気になるから、こんどは生体検査をやりましょう」。生体検査とは、体の組織を切り取って調べる検査である。小坂氏を名医であると信じていた友田さんも、この頃になるとさすがに疑いだした。そこで、県立総合に出向いた。移動性のがんのことを話すと、医者は爆笑した。
 「移動性のがんなんて初めて聞く病名だなあ。ハハハ。いったい、どこの病院でそんなことを言われたの? ハハハ」
 友田さんは小坂をこう評する。
 「小坂は名医ではなく迷医ですよ」

 吉田里子さん(仮名)は、七年前に名医に乳がんと診断され、左の乳房を切除した。それから七年間、過剰とも思えるほど検査に明け暮れた結果、九九年の三月に名医はこう語った。
 「右の胸に五ミリのしこりが見つかった。取ってみたい」
 わずか五ミリがよく見つかったもんだと感心するが、名医は吉田さんに「取ってみたい」を繰り返すばかりで、がん細胞なのかどうかをはっきり告げなかった。
 冴しく思った吉田さんは県立総合に出向いた。医者はていねいに触診したあと、こう話した。「九九・九%、がんではなく、乳腺症だと思いますよ。でも、偉い先生が切りたいとおっしやるんだから、念のためMRIをやってみましょう」。検査の結果は、切る必要のない乳腺症だった。
 吉田さんは今では、七年前に摘出された細胞が本当にがん細胞だったのか疑っている。

小坂医師の手で行なわれた乳がん手術の患者の写真。慶應大学の近藤誠氏は、裁判に使われた意見書の中で、上記の写真について以下のように述べている。「奇しくもわたしは、小坂医師が手術したケ−スについては幾つか、その術創を写真に撮っており、現在も保持しております。写真を撮影し保持している理由は、余りに印象的な術創だった」からであり、右の写真については「外科医が通常備えているべき技術をもたないことの証拠」、左の写真については「乳房温存手術をするうえで必要な基本的な知識ないし技術がないことがわかります」

教祖の正体

 清水市立病院が抱える五件の医療訴訟のうちの一件は、竹下勇子さんが九六年に起こしたものだ。彼女の当初の主な訴えは小坂氏のずさん手術によって後遺症が残ったというものだった。しかし、最近では「そもそも本当にがんだったのか」と疑いはじめ、九九年に入って請求原因を追加し、準備書面にこう記した。
 「原告は、乳癌ではなかったにもかかわらず、被告小坂は、非定型的乳癌根治術を施した」
 乳がんだったか否かを確かめる方法は、生体検査のときに切り取った組織を第三者の専門家に鑑定してもらうしかない。だが、小坂氏側が提出する組織が竹下さんのものかどうかわからない。ほかのがん患者のものに、すり替えられる可能性もあるからだ。このため、小坂氏が提出する組織のDNA検査を行ないたいと裁判所に申し出た。そこまで清水市立病院は疑われているのである。

 一方、名医とて、がん細胞を見落とす場合もある。
 井上伸子さん(仮名)は、九五年に右の乳房を切除した。その後の抗がん剤の副作用の苦しみについては省略するが、井上さんがどのような目に遭ったか一つだけ触れておこう。名医は井上さんの苦しみを理解できず、「脳に問題があるのではないか」と判断し、脳外科に回した。そこでも頭痛は治らず、脳外科医の今井昇氏は「歯の噛み合わせからくるものではないか」と推測し、歯科口腔外科に回した。口腔外科医の井川雅子氏は井上さんの口にマウスピースをはめるなどしたが、頭痛はいっこうに治まらず、こんどは精神科に回した。その結果、井上さんは一時期数十種類もの薬を飲まされたことがあった。しかし、小坂氏を名医と疑わなかった当時の井上さんは精神科に回されても、それほど疑問を抱かなかったという。

 小坂氏と、小坂氏を絶対だと信じている患者との関係について、竹下さんは「カルトの教祖と信者の関係みたいだ」と評する。その「教祖の正体」を、井上さんが見てしまったのは二年前のことである。
 切除し平らになってしまった右胸の傷跡の上に、「誰が触っても変だとわかる固くて大きなしこり」を発見したのである。それは、井上さんの夫も心配するほどのしこりだった。名医の”定期触診”があったとき、井上さんは名医の反応をうかがった。しかし、いつもどおり、なんともないというふうだった。小坂氏に対する疑問は決定的になった。井上さんは勇気を出して、こう聞いた。
 「先生、この右のしこりは何なんでしょうか?」
 名医は顔面蒼白になったという。
 その後、余裕を取り戻した小坂氏は「がん細胞が再発したんですよ」と、とり繕った。「弘法にも筆の誤り」とでも言えばよさそうなものなのに、どうも小坂氏の頭の中にはこの諺がなかったようだ。井上さんを診察した国立静岡病院の医者は、にべもなかった。
 「再発? たんに前の手術で、とり損なったがん細胞が大きくなっただけのことですよ」

名医は、先天的に手先が不器用

  俺より患者さんの証言のほうがリアルだねえ。ハハハ。俺はがんの専門医じゃないから、よくわからないところもあるけど、小坂先生が診断した乳がんにはシスト(日本語で嚢胞、英語でcyst)が多いんじゃないかなあ〈註3〉
 悲惨な例があるよ。
 ある母親が小学生の娘を連れて「この子のしこりが気になる」と病院にやってきた。小坂先生かどうかはわからないが、すぐに切除されたという。胸が大きくなる苗床を取ってしまったわけだ。当然、片方の胸だけは大きくならない。それで、国立静岡病院に診てもらったという。診断結果はもう大きくなることはないという悲惨なものだった。この話は、そこの医者から聞いたんだけど、ひどい話だよ。
 しこりがあれば、小坂先生はすぐにがんと見なしてしまうんじゃないだろうか。

 小坂先生のやり方について、一つだけはっきり批判してもいいことがある。それは、初診でがんだと疑えば、すぐに患者さんを入院させ、生体検査を行ない、ほぼ即日にがんかどうか診断し、それから二週間以内に切っちゃう。まるでベルトコンベア方式そのものなんだな(149ページの表参照)。そもそも、生体検査の結果をその日に調べる迅速処理は、病理医も認めているとおり、良性腫瘍を悪性とまちがえることが多々ある。それに、ベルトコンベア方式では、患者さんに考えたり、資料を取り寄せたりする余裕を与えない。


93年の乳がん患者4人の初診日から手術日までの推移(竹下勇子さんの調査から)
         Aさん    Bさん    Cさん   Dさん 
初診日     9月7日  10月19日  11月2日  11月17日
(問診/レントゲン/エコー)
生体検査    9月8日   10月20日  11月4日  11月25日
(しこりをとる)      
がん告知    9月8日   10月21日  11月4日  11月25日
入院日     9月8日   10月20日  11月4日  11月25日
手術日     9月22日   11月1日  11月17日  12月3日


 乳がんのがん細胞は、じつにゆっくり成長する。二倍になるのに九ヵ月はかかる。すぐに切除する必要は何もないはずだ。余裕があれば、患者さんはがんに関する本を読むことができる。そうなれば、乳がんについての知識を深めることができるし、治療方法について質問することだってできる。場合によっては、ほかの病院で、もういちど診察を受けることだってできるんだ。

 小坂先生はインフォームドーコンセントは充分にしていると反論するだろうけど、患者さんに小冊子を配るだけ。その表紙には、〈清水市立病院・外科では、患者さんのインフォームド・コンセントの充実の為、この小冊子を、患者さんに渡しています〉と仰々しく書かれているけど、裏表紙を読むと、何のことはない、提供=ゼネカ薬品株式会社となっている。カッカッカ。

 清水市立病院の構造のことを話す前に、もう一つだけ小坂先生の話をしておくよ。
 小坂先生は、手術がおそろしく下手なんだ!
 抗がん剤やがん検診に警鐘を鳴らした慶應大学医学部放射線科の近藤誠先生が『ぼくがうけたいがん治療』で、こんな一文を書いている。
 「乳がんの手術で名高いある外科医は、以前はお腹の手術を専門としていました。ところが手先が先天的に不器用なようで、胃腸を縫いあわせてもうまくくっつかないことが多く、それで手術した患者がつぎつぎと腹膜炎になり、かなり多数が死亡したといいます。それでさすがにお腹の手術はあきらめて、乳がんの外科に転向しました」

 なんで、この医者が乳がんの外科医に転向したかといえば、乳がんの手術はいくら下手でも患者さんが死ぬことはないからだ、と言うんだ。ハハハ。近藤先生は以前清水市立病院に週に一回放射線科医として通っていたことがあるから、直接会って確かめたわけではないけど、この外科医は小坂先生のことだと思うよ。
 入院病棟の看護婦は、小坂先生が手術をした患者さんの傷跡を直接見ているわけだ。ケロイド状になって、すごく汚らしいそうだ。数年前から始められた乳房温存療法も。”温存”とは言えないシロモノらしく、そうしたことが病院内で噂になって、看護婦たちは「乳がんになったら、絶対によその病院に行く」と話している。看護婦だけでなく、内科の患者で外科の手術が必要になったとき、良心的な内科医はそれとなく「外科はよそにもあります」とささやく。いちど、そのことが小坂先生にばれて、内科の医者たちがこっぴどくやられたことがあった。
 〈註3〉詳しくは近藤誠著、ネスコ刊『乳がんを忘れるための本』参照。

人減らしとパート化、派遣社員化で医療サービスが大幅に低下した清水市立病院

  小坂が、いや小坂先生がなぜここまで権力を握っているのか、疑問だろうねえ。自治体病院の場合、トップは市長で、次いで院長、市から派遣されてくる事務部長あたりがナンバースリーかなあ。自治体病院でなくても、複数いる副院長にそれはどの権限はない。ではどうして?ということになるが、小坂先生が力をもつようになったことと、清水市立病院がかかえることになった体質的な問題とには密接な関係がある。

 清水市立病院はもともとは良心的でこじんまりとした病院だった。それがおかしくなったのは、平成元年(一九八九年)に、今の風光明媚な場所に移転新築してからだ。それまではベッド数は二百五十以下だったが、いきなり五百床の本格的な病院にした。しかし、すぐにバブルは弾け、病院経営は危機を迎える。全国的に話題になっていた自治体病院の赤字問題に、清水市立病院も直面することになったわけだ。当時はたしか市議会でも問題になったはず。

 小坂先生が敏腕ぶりを発揮するようになったのは、このときからだ。医療サービス重視から利潤重視路線に切り替えたんだ。
 小坂先生の経歴は、東邦大学医学部を卒業し、六九年に慶應大学医学部外科学教室に入局。六年間そこで助手をしたあと、日本鋼管病院の外科医を三年間務め、そして七八年に清水市立病院の外科医長に就任する。八三年に外科科長。副院長に昇進したのは九五年のことだ。
 小坂先生が利益を重視するようになったのは外科科長になってからだが、バブル崩壊でますます小坂先生の利益重視発言に重きが置かれるようになった。
 まず行なわれたのが、人減らしだった。
 国立病院を除けば、県内で一日平均の入院・外来患者数が二千人を超えるのは県立総合。静岡市立、清水市立の三病院だが、医師数はそれぞれ九十四人、八十九人、五十七人。清水市立には県立総合の半分強しかいない(次ページの表参照)。

病院名

1日平均
入院外来患者数

医師数
看護婦数
 
(人)
(人)
(人)
静岡市立病院
2,128
89
379
浜松医療センター
1,570
80
395
沼津市立病院
1,963
66
283
清水市立病院
2,188
57
268
富士市立病院
1,721
63
311

病院名
病床100床あたりの
医師の
平均経験年数

医師数

看護婦数
全職員数
 
(人)
(人)
(人)
(年)
静岡市立病院
14.8
78.2
121.9
12
浜松医療センター
13.3
73.7
123.3
16
沼津市立病院
14.6
75.8
116.4
15
清水市立病院
12.6
69.5
114.2
4
富士市立病院
13.7
72.1
114.7
13
『地方公営企業年鑑―病院編97年度』より作成

  興味深いのは、医師の平均経験年数が清水市立病院の場合、わずか四年しかないということだ。人員削減を背景に、小坂先生が古くからの医者を実質的に追放した結果、大学の医局から派遣されてきた若い医者たちが三分の一以上を占めるようになった。それも一年サイクル、長くて二、三年で医局に戻ったり、別の病院に移動となる。人件費は安くてすむけど、医局で雑用係をしていた彼らの腕は心もとない。雑用係の研修医あがりでも、医局と違い、派遣された病院では。”先生扱い”される。これまでやったことのない手術も嬉々としてやれるのだから、危ないことこのうえない。

 五つの裁判のうち二つまでが産婦人科が訴えられているが、担当医は慶應から送られてきた研修医だった。そのうちの一人、青木大輔君は会陰部切開手術の執刀に失敗し、患者さんの膣やお尻の筋肉をメチャクチャに縫合してしまった。もう一人の新本弘君は陣痛促進剤の投与をミスリ、患者さんを子どもを産めない身体にしてしまった。その後、この二人の医師は慶應の医局に戻り、青木君は裁判にはいちども顔を出していないと聞いている。

 看護婦も三病院のなかでは清水市立がもっとも少なく、浜松医療センターの約六八%、静岡市立の約七一%しかいない。
 人減らしと同時にパート化、派遣社員化も始まった。外来の正規の看護婦は十二人、パートが十五人。それに看護婦資格のない派遣社員が二十人いて看護婦の仕事の補助をしている。患者からすれば四十七人がすべて清水市立病院の看護婦に見えるだろうが、実際は正規の看護婦なんて十二人しかいない。入院病棟にも補助看護婦が各フロアに数人いる。

 事務関係もそうで、五十五、六人のうち正規職員は十七、八入.パートが七、八人で、残りの三十人は派遣社員だ。病院内に雇用形態が異なる人たちがいるから、仲間意識は薄く、意思疎通がとても悪い。
 また、食堂と清掃業務はすべて民間業者に委託された。以前は病棟や外来の清掃は看護婦がやったもんだ。そうすることによって、病院や患者さんに愛着感が生まれた。しかし、今はそれがない。患者さんの身体を拭いたりするのは補助看護婦。看護婦がする仕事は上にあげる報告書づくりだ。医療サービスが低下するのは当然だろうね。

 もっとも、こうした合理化策を小坂先生が一人でやれるわけがない。市当局がそうとう後押ししたと思うよ。議会も「人件費を抑制せよ」って騒いでいたからね。
 いま自治体病院では委託化、パート化、派遣社員化によって経費削減する傾向にあるが、清水市立病院のようにならないといいんだが――。

 金を生む検査漬け、放射線漬け、化学療法漬け

 役所や議会とは関係なく、小坂先生が独自に利益を追求したやり方はいくつかある。
  一つは検査による収入のアップだ。とりわけがん関係で目立つが、いったん受診すると、半水久的に検査の予約を入れられる。
 そう言えば、乳房フェチを探索した野田理恵さんは、触診でもエコーでも乳がんではないことがわかったにもかかわらず、半年先に検査の予約を入れられてしまった。

 小坂先生は乳がんに関する講演をするために県内を隈なく歩いている。これには乳がん撲滅キャンペーンを行なっている自治体も絡むんだけど、乳がんが増えているという話を聞けば、参加者は不安になる。講演でしゃべる先生は当然偉い先生だと思うから、小坂先生のところで検診を受けることになる。検診を受けたが最後、半年また半年と、がんが発見されるまで検診が続くことになる。検診は触診、レントゲン、エコーがセットになっているから、収益は悪くない。

 がんか良性腫瘍かわからないが、そうした細胞が見つかれば、切除となる。それで終わりかといえばそうではなく、二ヵ月に一回の血液検査、一ヵ月に一回の触診、六ヵ月に一回のエコー、CT、レントゲン、骨シンチグラフイが、これまた半永久的に続く。患者さんによっては毎月レントゲンを撮られている人もいるという。

 また、手術後に抗がん剤の投与のために長期間入院させられる例もある。乳がんは二週間で退院するのが一般的だが、清水市立病院では小坂先生の手術があまりにも芸術的であるため、ハハハ、傷□がぱっくり開く場合がある。それに抗がん剤の投与のために、百日間入院なんてのもザラにあった。

 三十五歳の中山みどりさん(仮名)は、二十四歳のときにしこりが見つかり、開業医の婦人科から小坂氏を紹介された。小坂氏は「悪性じゃない」と話し、二、三ヵ月ごとに検診のために通院、年に二、三回はレントゲンを撮るように指示した。それから五年間、忠実に指示を守ってきた。二十九歳のときに「右のしこりが大きくなったから取りましょう」と言われ、簡単な手術を受けた。このときの病名は切る必要のない乳腺腫だったという。
 それからさらに検査を受けつづけ、九九年に入ってエコーによって左に小さなしこりが二つ見つかった。おそらくX氏が推測したシストだろう。小坂氏は「これから月にいちど来るように」と話した。
 「こんなに通っているのに、これからもずっと通わなければならないんですか」
 そう中山さんが切り出すと、小坂氏はムッとし、不機嫌になり、「悪性に変わるかもしれないから、通っていればいいんだ!」と甲高い声で答えた。その態度に不信感を抱き、国立静岡病院に逃げ出した。
 中山さんの検査漬け、放射線漬けは十一年間にわたって続いた。先の竹下勇子さんから「乳房の一枚のレントゲン(マンモグラフィ)による放射線量は、肺結核を調べる胸のレントゲンの十枚分に相当する」と聞かされ、中山さんは電話口で思わず悲鳴をあげたという。

 名医ならぬ迷医は小坂先生以外にも複数いる。
 産婦人科で子宮がんと診断された澤田和子さん(仮名)は、染谷健一氏(八八年慶應大卒)の手術を受けた。術前に二週間で退院との説明を受けていたので、そろそろ退院かと思っていたら、染谷先生はこう語った。
 「再発の可能性が数%ある。念のために五ヵ月間入院して化学療法(抗がん剤の投与)をやりましょう」
 不審に思った澤田さんは別の病院の診察を受けた。そこでは「抗がん剤は必要ありません」。そこで、清水市立病院の別の産婦人科医に、化学療法はやらないと告げると、このドクターは怒鳴った。「命がどうなっても知らんからな!」。

看護婦が白衣の悪魔に変わる病院

  小坂先生の、外科医を集めた朝礼ならぬ朝令は有名だよ。「今日は検査が少ないな。もっと検査を入れるようにしろ」「今日の胃カメラは何人だ? ちょっと少ないんじゃないか」。ハハハ、すごいよな。小坂先生の朝令に忠実に従うことで有名なのが外科医の四方敦君(九〇年藤田保健衛生大卒)だ。彼は、患者さんが頭が痛いといえばCT、肩が痛いといえばMRIだ。

 谷口浩美さん(仮名)は、九七年に外科医の四方敦氏から「エコーで見ると膵臓が腫れている。ぼくは膵臓がんだと思います。取ってみて良性だったらよし、悪性だったらなおのことよしでしよ。今ここで入院を決めてくれたら、早く処置ができます」と言われた。しかしその後、谷口さんは開業医からは「なんともない」、清水市立病院の内科医からは「がんとは言えない」、国立静岡病院の医者からは「これで腹を切られたら、たまったもんじゃない」と言われている。
 この頃の小坂先生の朝令は「手術件数を増やせ、病室を満室にしろ」だったのか……。

 患者さんをほかの病院に逃がすようなことがあったら、小坂先生は怒鳴りまくる。
 あるとき救急車で八十歳代のおじいさんが運ばれてきたことがある。潰瘍で十二指腸に孔があき、出血が続いていた。すぐに手術できればいいのだが、心臓にペースメーカーが入っていた。ペースメーカーは場合によっては医療器機に反応し、作勤しなくなることがある。そうなれば心臓停止だ。したがって、ペースメーカーの種類を調べなければならない。でも、そんなことをするより、その患者さんがペースメーカーの手術を受けた市内の厚生病院に、救急車で転送してもらえばいいだけの話なんだ。しかし、そんなことをすれば、小坂先生に叱られる。若いのが七人集まって、痛がる患者さんを前に、善後策を話し合っていた。結局、手術をすることになり、結果オーライだったが、ひどい話だよね。

 小坂先生の収入アップ作戦のもう一つは、ベッドの有効活用だ。土日になると患者さんを執拗に外泊させる。そうすれば、ただでさえ少ない医者や看護婦の負担は少なくなるし、患者が入院していなくても入院費用は入ってくる。
 胃がんの患者さんは食事療法もやっているから、患者さんが家に戻るといえば家族は反対する。それを理由に外泊を断わると、主治医、婦長、看護婦が入れかわり立ちかわりやってきて、追い出し作戦に乗り出すそうだ。
 「家族の誰が反対しているんですか? 連れて来なさいよ。私が説得してあげます」だって。ハハハ。一度、土日に四階の外科病棟を覗いてごらん? ガラガラだから。ハハハ。

 必要ないのに検査をやったり、土日に外泊を強要したりするやり方を見れば、白衣の天使を目指していた看護婦さんは辞めていく。とりわけ、矛盾の多い入院病棟の看護婦の離職率は高く、だいたい入って四、五年経つと辞めていく。辞めるといっても、看護婦を辞めるわけじゃない。ほかの病院に転職するんだよ。
 現在、残っている看護婦は転職予備軍の学校卒業後二、三年生か、白衣の悪魔になった中堅クラスか。ごく一部に、病院をなんとかしたいと悩み、苦しんでいる看護婦もいる。しかし、患者さんに親切にしようと、患者さんが髪の毛を洗うときには手伝ってあげるべきだと提案した看護婦に、白衣の悪魔たちは「なに格好いいこと言ってるの」と睨んだというから、良識ある看護婦は肩身の狭い思いをしていると思う。白衣の悪魔はおじいさんが粗相したら、「あんたがそんなことをすると、私たちが始末書を書かなければならないんだからね」と怒鳴ったというよ。すごいとしか言いようがない。

 俺があの病院を辞めてから、元ベテラン看護婦だった人から手紙をもらったことがある。
「患者さんには申し訳ないことをしたと、今でも心が痛みます」
 こちらの胸が痛むような内容だった。

市の態度が変わってきた!?

  手元にある資料をめくると、九五年度の前年度繰り越し欠損金は十一億円。この年に一億円の純利益をあげ、欠損金を十億円に圧縮している。九六年度は四億円近くの純利益をあげ欠損金を六億円に、九七年度は二億円の純利益で四億円に圧縮した。小坂氏の利益重視路線は着実に成果を上げているのである。現在、清水市立病院は救命救急センターの新設、ベッド数の増加を計画しているという。
 小坂氏が病院を黒字体質に変えたからといって、小坂氏のデタラメ医療は許されるのか。なぜ批判する人がいないのか。

 自治体病院の赤字問題が、どの病院でも課題になっている現在、経営面で実績を上げている小坂先生に面と向かって批判するような人たちは病院内にも市役所内にもいないだろうな。うまく表現できないが、小坂先生は大学医学部の権力の空白地帯に居すわっている権力者だと思う。というのは、院長の石原直毅氏(六七年慶應大卒)は大学の医局から派遣されており、そつなく院長の仕事をこなせば、医局に戻って大学の教授になれる可能性だってある。病院を黒字にしたと報告すれば、それは院長の手柄にもなる。そんなときに小坂先生とやり合ったらどうなる? 大混乱が起きるよ。院長にかぎらず、大学から派遣されてきた医者は、みんなローテーションをこなして大学に戻りたいと思っている。

 一方、病院に長く勤務した医者たちは、大学の医局のコントロールから外れている。どのくらいしたら外れるかという基準はないと思うが、医局に戻れる芽がないことは、本人にはなんとなくわかるもんだよ。そうした人たちは俺のように開業医を目指す。そうすると、残るのは開業医にもなれない医者たちだ。矛盾を感じてはいるだろうけど、小坂先生のイエスマンになるしかないだろう。

 小坂先生は最初は慶應の医局から派遣されたが、すでに二十年も経ち、慶應の睨みは届かなくなっている。その意味で、小坂先生を叱責する人は誰もいない。
 そもそも清水市立病院は慶應大学医学部のコントロール下にあった。しかし、今では慶應大卒は十七人しかいない。あとは、てんでバラバラだ。
 院長がだめなら、市長が鈴をつけなければならないが、小坂先生は病院を黒字にした功労者でもある。仮に、市長に医療問題の問題意識があったとしても、面と向かって叱責はできないだろう。
 しかし、市の幹部たちの動きが最近変わりはじめているのも確かだ。というのは、市長がKという看護部長に会って、どうやって口説いたのか、どういう人脈があったのかはわからんが、東大系の病院に異動させた。この看護部長は看護婦の質を低下させた元凶と言われており、病院内では小坂先生と深い関係にあったと噂されていたイメルダのような人だった。

 看護部門は医師から独立した存在で、医者の医療行為に問題があれば、看護部長は院長に注意を促す義務がある。副院長と看護部長が変な関係になってしまったらどうしようもない。二人の関係を問題にした看護婦が飛ばされたとも聞いている。その二人の関係に市が終止符を打つたということだから、俺には市の幹部たちが小坂先生の足元を崩しにかかってきたように見える。市長だって、こう医療過誤訴訟が続けば、たまったもんじゃないだろう。どの裁判でも被告名のトップに書かれているのは市長だから、ね。

 小坂先生が異動となれば、ごく一部の良識ある医者や看護婦は拍手喝采だろう。しかし、小坂先生が異動となっても、俺には「トカゲの頭切り」にしか思えんよ。というのは、医療分野では小坂先生の個人責任はあるんだが、小坂先生が利益重視路線を走ってきたのは、病院、市役所の幹部と一体になってのことだ。人件費抑制を叫んできた議会の責任もある。そうした人たちの責任が不問にされるのは納得できない。

 いや、そんなことより利益重視路線によって、病院は風通しが悪く、”物を言えば唇寒し”が体質になってしまった。何かしゃべれば上にチクられるのではないかという恐れがみんなに染みついてしまっている。それに、医療サービスの向上につながるようなことを提案する雰囲気はまるでなくなってしまっている。トカゲの頭を切っても、病院がよくなるとはけっして思えないんだ。

 自治体病院の経営はどうあるべきなのか。たんに利益をあげればいいのか。それとも民間の病院にはできない医療サービスを行ない、赤字分は市民が負担するようにするのか。自治体病院経営に哲学が生まれないと、どうしようもないよ。

小坂医師が書いた竹下勇子氏の初診からがん告知までの超スピード3日間のカルテ。 12/26初診、12/27生検、12/28がん告知と手術にむけての検査をしている

立ち上がる「患者の人権を考える会」

  清水市立病院は「悪魔の館」と呼ばれてもしかたがない。それにしても、この病院の医療過誤というより乱暴医療、デタラメ医療がどうしてこれまで清水市民の間で噂にならなかったのか、誰しも意外に思うだろう。
 それにはいくつかの要因が挙げられる。
(1)批判的で良心的な医師・看護婦・職員は実質的に追放されるというこの病院の閉鎖的体質。
(2)事を荒立てたくないという清水市の前近代的な保守的風土。
(3)身内に市役所や市役所と取引のある企業に勤める人が多いため、批判の声を上げればそうした人たちに迷惑がかかるのではないかといった恐れ。
(4)仮に噂を聞いても、まさか公立病院でそんなことが行なわれているとは信じられない、という日本人一般にも共通する公立幻想――などだ。こうした要因が重なって、この病院のデタラメ医療は市民の間に噂として広まらなかったのであろう〈註4〉

 清水市立病院を訴えた原告たちは、一部の市民からは「変わった人たち」「神経質な人たち」と見られていた。しかし、そうした偏見を乗り越え、一部の原告は九九年十月十六日に「患者の人権を考える会」(仮)を結成するという。この会の周囲に清水市立病院の良心的な人たちが集まれば、清水市立病院も変わっていくにちがいない。いや、そう期待したいのである。
  〈註4〉詳しくは、さいろ社刊『いのちジャーナル』九九年二月号の拙稿「ひどい病院が噂にならないわけ」参照。

【文庫版のための追記】
トカゲの頭切りで姑息な事態収拾策をもくろむ

 原稿を書いてから早九ヵ月が経った。その後の清水市立病院はどうなったか。
 私は原稿の末尾でX氏の口を通して、トカゲの頭切り、すなわち副院長小坂氏に対する肩たたきが行なわれることを仄めかした。予測は見事に的中し、小坂氏はこの四月に病院を退職した。

 とかく噂の多い小坂氏を切って”病院問題”に決着をつけようというわけだろうが、妻を失ったり、乳房を切り刻まれ未だに後遺症に悩んだりしている被害者からすれば、責任問題がうやむやにされただけの話である。市立病院の構造上の欠陥にメスを入れず、問題の本質を曖昧にしたまま小坂氏一人に責任を負わせるのは、姑息なやり方と言う以外にない。

 清水市立病院の問題の本質は、利益を重視するあまり医療の質を低下させている点にある。たしかに、小坂氏と小坂氏の外科は利益重視の先陣を走った。だが、利益重視は市長、市議会、病院の総意であったはず。それなのに、小坂氏だけに詰め腹を切らせる。利益重視を認めてきた院長の石原直毅氏は知らん顔。卑怯である。送別会の席上、小坂氏は知り合いの開業医にこう語ったという。
 「悪いとわかってやっていた。やらざるをえない状況だった。経営上やらなければ成り立たなかったんだ」

 院長続投、副院長退職というやり方を、小坂氏が何の条件もなく受け入れるわけがない。小坂氏には千葉県の最近伸び盛りなある病院の外科部長のポストが用意されていた。ところが、である。この病院の経営陣が別冊宝島を読み、「書かれた内容が事実なら、病院の信用問題にかかわる」と、いったん決まった内定を四月に入って白紙に戻してしまった。小坂氏はハシゴを外され、一人貧乏くじを引いたわけだ。今は閑居にこもる身。小坂氏の勇猛果敢な反撃を期待したい。

地元議員も不快な体験!?

 ”トカゲの頭切り”に至るまでの経過と現在の病院内部の状況について報告しておく。
 私の原稿に抗議文が来るなど何らかのリアクションが予想されたが、市や病院は不気味なほどに沈黙を守った。

 最初の反応は九九年の九月議会だった。議員の杉山欣司氏と西ケ谷忠夫氏が別冊宝島を取り上げ、市長の宮城島弘正氏と病院長の石原氏らに問いただした。杉山氏の質問は興味深いものだった。杉山氏自身、この病院で四回もの不快な体験をしたというのだ。それを紹介しておく(「 」内は議会での発言である)。

 杉山氏の義母が脳溢血で倒れ、救急車で市立病院に搬送された。金曜日のことだった。三日後の月曜日に家族が呼ばれ、担当医にこう告げられた。「この病気はしまいまで治らないから、別の病院を探してくれ」。

 杉山氏の知人の老夫婦が四階と五階に入院した。元気になった妻が四階の夫に会いたいと、見舞いに来ていた杉山氏に頼んだ。杉山氏が看護婦に頼み、了解となったとき、横にいた若いドクターが「おい、勝手なことをするな」。カチンときた杉山氏が「勝手なことをしたくないから、こうやって相談に来たんじゃないか。君、何て名前だ」と言ったら、「すっと逃げていっちゃった」。

 杉山氏のいとこが交通事故に遭った。見舞いに行くと、「ちょうど院長回診にぶつかった。で、僕らに外に出ろと言うから、廊下でおばさん(いとこの母親)と二人で待っていた」。二、三分するかしないうちに出てきた院長に、おばさんが「うちの息子どうですか」と質問すると、「わかった、わかった」と患者の症状を説明することなく、「どんどん行っちゃったんですよ。これ医者のやることですか」。

 わが清水市立病院は、なんと素敵な、市民のための病院であることか。

 四例目はこうだ。杉山氏の知人が一九九九年のはじめC型肝炎で入院した。腹水が溜まっている状態だった。患者に内緒で来てくれと家族が病院に呼ばれた。担当医は「いつ腹壁が破れて血管が破れるかわからない状態だ。それが一月中か二月に起きるかわからない」と末期的症状だと告げた。しばらくして、溜まった腹水が半分ぐらいになり、「思ったより長生きしたんじゃないか」と思っていたとき、退院を迫られた。末期だと言っていたのになぜ退院なのか、家族ば冴しく思った。退院後、三週間に一回の通院を指示された。それで通院することになったが、薬が二週間分しか処方されなかった。これでは、一週間薬を飲まない空白期間が生じる。当然、また腹水が溜まり、身動きできない状態になった。
 「先日、(この件で)エレペーターの前で石原院長と議論をしたわけです。そのときに、びっくりする発言があった。何だと思いますか。(院長に)末期患者を最期まで病院が診る責任があるんですかと言われたんです。あんた医者かと。それでも院長かと言いたかったです、本当に」と語ったあと、杉山氏は石原氏に質問した。「このことに対して、院長として、あるいは一人の人間として、石原院長、ここで一言御答弁いただきたい」。

 このあと、杉山氏はこんな感想を述べる。
 「そうしましたところが、今こういう本が清水市でベストセラーで売れているよと。この『病院に殺される!』という別冊宝島だということを(知人に言われた)。このなかで、今僕が縷々話したことと類似しているところが、かなりあると思うんです」

 これに対して、市長の宮城島氏は記事が低俗であり、「法的対抗手段を取ると、かえって話題を提供しかねない」と答え、石原氏は「事実と懸け離れた、故意に事実をねじ曲げてあり、大変、遺憾だ」と答弁した。笑止である。

 低俗なのは宮城島氏と石原氏のほうである。石原氏は議会答弁のあと、十月十八日付で、「職員の綱紀の保持について」と題した院長名の通達書を全職員にこっそり渡した。議会答弁と同じく事実無根だと根拠も述べず語ったあと、こう恫喝をかけている。
 「しかし他方では、どのようにして病院の医療の内容に関することまでが記事になったか理解に苦しむところであります。職員の間で医療従事者としてあるいは公務員としての守るべきルール、とくに、守秘義務についてもう一度認識を新たにすべきであると考えます」
 平たく言えば、「病院内部で誤診、デタラメ医療を目撃しても、職員は外部にしゃべるな」ということである。守秘義務は患者のプライバシイを守るために課せられたものであって、医療過誤の情報を隠蔽するために設けられた規則ではない。このことを含め、通達に対する反論を配達証明書付で石原氏に送ったが、今日に至るまで回答は届いていない。事実無根を声高にしゃべりながら、筆者のところに抗議をしてこない。卑怯なり、だ。慶應医局出身の石原氏は慶應に戻って教授になることを夢想しているという。もし、慶應に戻ったら、若い学徒にいったい何を講義するのだろうか。せいぜい、病院の利益管理論か、病院内部の情報コントロール論といったところか。

乳がん手術が激減

  被害者である竹下勇子さんたちが立ち上がり、予定より四ヵ月遅れて、この二月二十七日に「清水市立病院から被害をなくし、より良い病院にする会」(以下、会)を結成した。結成式には七十人が参加し、五十一人が会員となった。一つの病院に対する被害者の会の結成は日本で初めてのことだと言われている。これに感動した、麻酔医療の実態を告発している麻酔医の浅山健さんは、インターネットで清水市立病院の問題を医療関係者に流しはじめた。早くも援軍が現われたのだ。

 この動きに対抗するため、病院側は有識者に意見を求める懇話会を設置し、二月二十一日に初会合をもった。市側はなごやかな懇話を期待したのだろうが、委員(八入)からは「懇話会は会に対抗するための隠れ蓑ではないのか」「カルテ開示を検討しているというが、それ以前に患者とのコミュニケーションが欠けている」などの辛辣な批判が相次いだ。

 会は「患者、被害者との話し合いの場を設けてほしい」というささやかな要求を市と病院側に求めたが、答えはノーであった。なんと心の狭い市長、院長であることか。会の結成式、およびその数力月前に竹下さんたちが主催した講演会には、出席者をチェックするため市の人事課の小川勝義課長が直々来ていたというから、小心ぶりがわかろうというものだ。

 『病院に殺される!』の発売以降、乳がん手術は激減した。週に二件行なわれていた手術は二週間に一件に減った。その分、ほかの病院で手術が増えたという話は聞かれないから、乳がんは清水市の風土病ではなくなったということか。外科病棟の入院患者数は最盛期の三分の二に減った。喜ばしいことだが、最近では外科に代わって、石原先生が所属する内科が張り切りだした。外科の入院患者が減った分、内科の入院患者が増え、気管支鏡、医療事故率が高いといわれている心臓に管を通す検査(心臓カテーテル)が急増しているというのだ。

 一方、そんなこととはまるで関係なく、研修医あがりの経験年数の浅い若いドクターは相変わらず先生気取りで難しい検査をやりたがるし、医師・看護婦・職員の倫理観にもさしたる変化は見られない。市議会で市長、院長が答弁した約一ヵ月後、脳外科で証拠保全が行なわれた。保全を申し立てた女性(六十五歳)は、市が勧める脳検診ドック(MRI)を受けた際、脳動脈瘤の疑いありと診断され、今度は精密検査を受けるように勧められた。管を瘤の部位にまで通し造影剤などを注入する、技術を要する検査である。担当したのは「腕が未熟で態度がでかい」研修医あがりのドクター。カテーテル検査の結果、血管を詰まらせ、女性を半身不随で言語障害にしてしまった。再度調べてみると、動脈瘤など存在しなかったという。

 この若きドクターは、事故を起こしても反省するどころか、「鼻歌を歌って、冗談ばかりを言っている」という。来年になれば異動となるので、裁判を起こされても関係ないやということなのか。県内のある病院の放射線科の医師によれば、清水市立病院の脳外の検診事故率は一般に比べ十倍高いという。

 市の広報では、脳検診ドックを盛んに勧めているが、広報誌のどこを見ても検診に伴う事故の可能性について述べていない。かつては乳がん検診、今度は脳検診。市ぐるみで行なう検査による病院の収入アップ作戦は不変なのである。そして一方では、建設業者や医療機器メーカーとの癒着が噂されている救急センターを、開設するための増改築事業は”順調”に進んでいる。

 議会で問題になったというのに、デタラメぶりも”健全”だ。一例を挙げよう。
 九九年の十月、救急車で患者が運ばれてきた。この日の救急当番は厚生病院だった。腹を立てた清水市立病院の当直医は、患者そっちのけで厚生病院に抗議の電話をかけたというのだ。その間、救急隊員は黙って見守るしかなかったという。

 一方、患者にとって医療過誤裁判の進捗状況ははかばかしくない。五件のうち三件が一審敗訴。そのうち二人の原告が控訴したが、すでに一件棄却された。現在、係争中は三件となった。医療過誤裁判の勝訴率は全国的に低いと言われているが、こと一審で敗訴した三件は「弁護士の質」にも原因があるように思われる。

 控訴も棄却となったものは、静岡県でもっとも熱心に医療過誤裁判に取り組んでいるA弁護士が担当したが、控訴審の段階で原告と打ち合わせをしないばかりか、証拠は紛失するし、棄却されたことも原告が問い合わせるまで知らん顔。依頼人そっちのけは、患者そっちのけの清水市立病院といい勝負なのである。依頼人は医療過誤によって妻を亡くし、”弁護過誤”によって妻の霊を慰めることができなかった。売れっ子で超多忙のA弁護士は依頼人の気持ちを理解することができるのだろうか。

 会の結成式に参加したが、女性が圧倒的に多かった。そういえば、五件の裁判はいずれも女性が起こしたものだった。会に参加しようとした主婦を「事を荒立てるな」と止めた夫が少なからずいたという話を聞いた。実際、私が取材した人たちの姿は少なかった。清水市立病院が良い病院になるかどうかは、市や議会、病院関係者、地元のメディアの奮闘ぶりだけでなく、なにより保守的風土と言われている清水市民の意識にかかっていると思う。



●米本和広 よねもと・かずひろ
’50年島根県生まれ。横浜市立大学卒業。『繊研新聞』記者を経て、現在フリーのルポライター。著書に『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』(小社)他がある。’97年に日本ジャーナリズム賞受賞。

 

 

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