資料
●「あなたの癌は、がんもどき」(近藤誠著・梧桐書院)
38頁13行目から44頁6行目まで転載
がん患者を作り出す病院
しかし他方で、前述のように、病理診断が義務づけられているわけでもない。
じつは、そのことを利用した、犯罪的な診療行為を散見します。
以下紹介するのは、癌ではないのに、外科医が故意に癌と診断して、乳房全摘術を施行したケースです。ミステリーもどきの話なので、正確を期すため多少長くなります。
一九九一年、静岡県清水市(当時、現在は合併により静岡市)在住の竹下勇子さん(当時四二歳。お許しを得て実名)は、乳房にシコリを触れ、乳腺外科の名医がいるという市立病院を受診しました。外科医はすぐに生検を行い、乳がんという診断を得ると、せき立てるように手術を勧め、乳房全摘術が行われた。
ところが評判とは裏腹に、術後、傷跡がひきつれ、腕の機能障害も生じたので、勇子さんは、悩んだあげく、説明義務違反と、機能を損なったことに対する賠償を求め、一九九六年に民事訴訟を起こしました。
やがて裁判上明らかになった諸事情から、勇子さんには、「私は本当に乳がんだったのか」という疑問が湧きました。診断に使用した組織の標本を、他人のがん標本と間違えたのではないかと疑ったのです。そして、そのことを主張すると、裁判所は鑑定を命じました。
鑑定内容は、病理診断とDNA分析です。後者は、勇子さんの身体から組織を採取して、ミトコンドリアのDNA配列を特定し、病院から提出させた病理標本中のDNA配列と比較するのです。
鑑定結果は、驚くべきものでした。配列を比較した二七〇個のDNAのうち、三ヵ所が異なっていたからです。しかも、標本中のDNA配列は人に特徴的な配列(数タイプある)の一つと一致していたのです。これは、確率的にみて、突然変異で生じることはありえないといえます。
つまり標本は、勇子さんの組織由来ではないとの結論になる。勇子さんの疑問は当たっていました。生検で勇子さんから得た組織は、どこかの時点で、他人の乳がん組織とすり替えられていたとしか考えられないのです。
ところが判決は、意外なものでした。突然変異の可能性を否定できない等々の理由をつけて鑑定結果は無視されたのです(インフォームド・コンセント違反があったとして、原告一部勝訴)。控訴審でも、この鑑定結果は再び無視されました。しかし、東京医科歯科大学の法医学教室が実施したDNAの鑑定文をそのまま受け容れられないとすれば、何をもとに判決文を書くことができるのか。
この裁判結果は、民事訴訟の限界を示しているように思われます。標本のすり替えは、健康人を手術したという犯罪を隠蔽するために行われたわけですが、民事訴訟の場で、警察のような強制的捜査権限を持つわけではない民間人が犯罪を立証することの限界です。
また裁判官としては、すり替えを認定して大騒ぎになるのを嫌った可能性がある(裁判長は地元病院協会との交流もあった)。
ところで、被告病院の代理人(弁護士)に関し、奇妙なことがあります。清水市立病院(当時。現在は静岡市立清水病院)は、それまでも医療訴訟を起こされたことが少なからずあり、その場合、地元弁護士の中から、特定の複数の弁護士を共同代理人として選任するのが通例でした(どの地方でも、病院が選任する弁護士はたいてい決まっている)。
ところが勇子さんの裁判では、東京の弁護士を単独で代理人として選任したのです。しかもこの弁護士は、鑑定が出たあと調べてみると「ヒトゲノム解析研究に関する共通指針(案)検討委員会」という、DNAに関する政府委員会の委員を務めていた。
提訴した時点では、勇子さんは病理標本がすり替えられたという疑惑を抱いておらず、訴状もその点に触れていない。それなのに被告病院は、それまでの通例を破って、裁判開始当初から、DNA分析の第一人者をわざわざ東京から呼んで代理人にすえた(しかも、他の弁護士は共同代理人として選任しない)。将来DNA分析が問題となることを予想していたと考えないと、説明がつきません(なおこの弁護士自身は、おそらく事情を知らずに受任したと思われる)。
そうなると、新たな謎が生じます。誰が弁護士を推薦したのか、です。これが本件最大の謎です。問題の外科医は、弁護士を選べる地位にいなかった。おそらく病院の中枢ポストのだれかが、訴訟の将来を予想し、弁護士を選任したのだと思われます。
しかしそうすると、その者は、乳腺外科医の所業を知っていたことになる。
「医療詐欺」のカラクリ
じつは清水市立病院では、同様のケースが他にもありました。本当に偶然なのですが、私はある時期、放射線治療外来の担当を頼まれて、清水市立病院に週一回通っていました(勇子さんのことは、清水市立病院に通うのをやめてから知った)。その間、くだんの乳腺外科医からは(疎まれたらしく)患者の治療依頼は一件もなかったのですが、放射線治療外来を担当している別の医者から相談を受けることがよくあり、その中にこんなことがありました。
その乳腺外科医が乳がんと診断して、乳房温存手術後の放射線治療を依頼してきたケースで、病理診断結果がカルテにないので、「病理診断レポートともに再依頼ください」と差し戻すと、再度の依頼がなかった。そういうケースが数回続いた、というのです。
諸事実を矛盾がないよう整理して構図を描くと、この病院で行われていたことは、以下のようになります。
まず乳腺外科医は、乳がん早期発見を叫んで検診を勧め(協力する報道機関もあった)、健康人を集め、なんだかんだと理由をつけて生検をする。そして、何らかの方法で入手した、乳がん患者の組織とすり替えるか、もしくは生検組織を病理検査科に提出せずにおく(病理診断がなくても、癌の診断が可能であることは前述)。
生検後、患者には乳がんと告知し、乳房全摘手術に持ち込む。当然手術件数は増え、しかも健康人だから再発・転移はありえない。
手術件数が多い一方、再発・転移が少ない名医とされ、名医紹介本にも載ってますます患者が増える。全摘術であれば、治療は外科という単一診療科の中で完結するので、外科の外来と病棟を支配していれば、悪事は簡単には露見しない。
そうであっても、健康人を乳がん患者に仕立て上げるカラクリに、やがて病院内のだれかが気づいたのでしょう。
しかし彼女/彼は考える。真実を他に漏らしたら、病院がスキャンダルまみれになる、と。それで、沈黙するのですが、一度でも黙認すると、外科医の犯罪遂行を幇助したことになり、共犯者になってしまいます。
そして今や共犯者となった罪の意識から、結局、口が堅そうな別の者へ告白することになり、聞かされた者も同様に罪の意識を抱き、黙ってはいられない。
こうして病院内に、共犯者の輪が広がるわけで、病院外から見れば、組織ぐるみの犯罪と評すことができます。その輪の中に、病院の中枢ポストにいる者がいたのでしょう。勇子さんが提訴したとき、すかさずDNA分析に詳しい弁護士を代理人に選ぶことができた。
他方で乳がん治療の主流は、乳房全摘術から乳房温存療法へと変わり始めていた。外科医は流れに遅れまい(遅れると患者が減る)と、温存手術を始めることにしたのですが、温存療法では、乳房内再発を減らすため、放射線治療が必要です。それで放射線科に依頼しなければならなくなり、病理診断なしに乳がんと診断していたことが知れてしまった、という構図なのでしょう(ところで、この外科医は乳房温存手術をだれにも習わず、見よう見まねで始めたようで、傷跡は無残なことになっていた。上記裁判に提出された実例写真は『乳がんを忘れるための本』〈文春文庫〉130ページに転載)。
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