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竹下裁判●『判決の真実』米本和広はじめに1.争いのない事実および標準診断 2.判決文の構成にみられる偏頗性 3.証拠採用の偏頗性 4.手術と傷害の関係について 5.「65万分の1」の確率 6.死人に口なし 7.竹下裁判控訴審の意義 6.死人に口なし「はじめに」で書いたように、訴えを起こした竹下さんは次第に「自分は乳癌でないのに乳癌だとして手術をされた」と疑うようになり、それをもとにした主張を行なうようになりました。 すると、小坂氏側は途中でこんな主張をするようになるのです。 迅速標本のことを説明しておきます。 小坂氏の主張によれば、喜納教授に12月27日に迅速標本による診断、1月6日に永久標本による診断をしてもらったといいます。しかし、癌細胞があるかどうかは永久標本で調査をすればいいわけで、緊急事態でもないのに、わざわざ迅速診断をしたという主張は不自然です。 この仮報告書の証拠価値については触れませんが、ともかく、小坂氏は生検手術のあと迅速標本をつくり、それを稲田病理医に診てもらったあと、現物をもって喜納教授のところに出向いたというわけです。この主張がいかに不自然かは以下の通りです。 @清水病院の病理診断は、小坂氏の陳述書によれば、東海大学から3人の病理医を非常勤で派遣してもらって行なっていたといいます。東海大の医局に依存していたわけです。仮に稲田病理医(助手)の力量に問題があったとするのなら、東海大学のベテラン病理医に意見を求めればいいはずです。 A小坂氏が浜松医科大学に出向き、喜納教授に診てもらったのは、竹下さんの「迅速標本」が初めてのことだといいます。 B12月27日は師走る「師走」で、仕事納めにあたり、みんなが忙しいときです。喜納教授は世界に通じる日本でも著名な権威ある病理医です。それなのに、アポイントを取ることなく、事前の予告なしに喜納教授のところに出向いたというのです。そして、偶然にも「いらっしゃった」というのです。喜納教授がこのとき不在なら迅速診断も、そのあとの1月6日の永久標本による診断もなされなかったことになります。アポなしで面会したという主張はいかにも不自然です。 喜納教授の診断はすべて口頭でなされ、診断書などの証拠はないといいます。小坂氏が喜納教授のことを持ち出したとき、喜納さんは亡くなられていました。竹下さんたちは喜納さんの夫人を探し、当時の手帳と日記を提出してもらっています。夫人や同僚によれば、喜納教授はとても几帳面な方で、その日にあったことを手帳にメモし、あとで日記に書くという作業を毎日繰り返し行なっていました。 C12月27日また1月6日の手帳・日記には小坂氏のことは記述されていませんでした。 Dでは、権威にアポなしで面会もできるほど、懇意の間柄だったのでしょうか。手帳・日記には小坂氏のことが二度ほど登場しています。ある研究会で一緒になったとき、清水病院で講演を頼まれたときです。そのときのことは手帳・日記にあり、「Dr.小坂が取り仕切っているらしい」といった好意的でない表現で書かれています。 E12月27日の手帳・日記には「amイワタへ」と記されています。これは「午前中に磐田病院(磐田市)に着く」という意味です。喜納教授は月に2回、磐田病院に通っていました。浜医大から磐田病院へは車で一時間の距離にあります。通常、手帳に約束時間を書き入れる場合、出発時刻を書くことはしません。「何時に誰だれ」と書きます。その場合、その人に会うために「何時に出発」と出発時間を書く人もいるでしょうが、手帳に出発時間だけを書く人はいません。 小坂氏は二度目の証人尋問で、「amイワタへ」は「午前中に磐田病院に出発する時刻を書いたものだ」と強弁し、次のように当日の行動を供述しました。 不自然極まりない主張です。 「amイワタへ」の記載は、手帳の午前10時のところに記載されていました。 ところが、判決では@〜Eすべてを無視し、次のように結論づけるのです。 「確かに、喜納教授が診断した結果としての書面は存在しない。しかしながら、小坂の供述等は筋が通っている」 これが不当判決と言わずして、なんと言えるのでしょうか。 ちなみに、あえて明記しておきます。 |
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