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竹下裁判

『判決の真実』米本和広

はじめに
1.争いのない事実および標準診断
2.判決文の構成にみられる偏頗性
3.証拠採用の偏頗性
4.手術と傷害の関係について
5.「65万分の1」の確率
6.死人に口なし
7.竹下裁判控訴審の意義

 pdf版はこちら

  ※ 一審・静岡地方裁判所判決(2004年3月18日)

6.死人に口なし

「はじめに」で書いたように、訴えを起こした竹下さんは次第に「自分は乳癌でないのに乳癌だとして手術をされた」と疑うようになり、それをもとにした主張を行なうようになりました。

 すると、小坂氏側は途中でこんな主張をするようになるのです。
「91年12月27日に生検手術をしたあと、迅速標本をつくった。それを持って、私は浜松医科大病理医の喜納教授のもとを訪れた。喜納教授は癌と診断した。その際に、1月6日にできあがる永久標本を診断してもらうことを頼んだ。当日、塩野義製薬の営業マンT君に標本を喜納教授に届けるように頼んだ。午後、喜納教授から癌という診断を電話で聞いた。それをもとに竹下さんや家族の方に最終診断を説明をした」
 重要なことなので繰り返しますが、喜納教授の診断を仰いだという重要な“事実”を、裁判の途中から主張するようになったのです。

 迅速標本のことを説明しておきます。
 生検組織に癌があるかどうかは、生検組織を永久標本にしたものを病理医が顕微鏡で調べます。これに対して、迅速標本−迅速診断は癌の切除手術中に癌組織の広がりを調べるためなどに行なわれるものであり、緊急事態ならいざ知らず(迅速標本は5分ぐらいでできあがる)、癌かどうかを調べるために迅速標本−迅速診断は適さないとされています。

 小坂氏の主張によれば、喜納教授に12月27日に迅速標本による診断、1月6日に永久標本による診断をしてもらったといいます。しかし、癌細胞があるかどうかは永久標本で調査をすればいいわけで、緊急事態でもないのに、わざわざ迅速診断をしたという主張は不自然です。
 ほんとうに迅速標本-迅速診断があったのか。小坂氏側が主張する証拠は、12月27日に迅速診断をしたという非常勤の稲田病理医の診断書です。しかし、この診断書は仮報告書と題され、周囲を鋏で切り取ったペラペラ紙に手書きで書かれたもので、裁判になってから証拠として提出されたシロモノです。

 この仮報告書の証拠価値については触れませんが、ともかく、小坂氏は生検手術のあと迅速標本をつくり、それを稲田病理医に診てもらったあと、現物をもって喜納教授のところに出向いたというわけです。この主張がいかに不自然かは以下の通りです。

@清水病院の病理診断は、小坂氏の陳述書によれば、東海大学から3人の病理医を非常勤で派遣してもらって行なっていたといいます。東海大の医局に依存していたわけです。仮に稲田病理医(助手)の力量に問題があったとするのなら、東海大学のベテラン病理医に意見を求めればいいはずです。

A小坂氏が浜松医科大学に出向き、喜納教授に診てもらったのは、竹下さんの「迅速標本」が初めてのことだといいます。

B12月27日は師走る「師走」で、仕事納めにあたり、みんなが忙しいときです。喜納教授は世界に通じる日本でも著名な権威ある病理医です。それなのに、アポイントを取ることなく、事前の予告なしに喜納教授のところに出向いたというのです。そして、偶然にも「いらっしゃった」というのです。喜納教授がこのとき不在なら迅速診断も、そのあとの1月6日の永久標本による診断もなされなかったことになります。アポなしで面会したという主張はいかにも不自然です。

 喜納教授の診断はすべて口頭でなされ、診断書などの証拠はないといいます。小坂氏が喜納教授のことを持ち出したとき、喜納さんは亡くなられていました。竹下さんたちは喜納さんの夫人を探し、当時の手帳と日記を提出してもらっています。夫人や同僚によれば、喜納教授はとても几帳面な方で、その日にあったことを手帳にメモし、あとで日記に書くという作業を毎日繰り返し行なっていました。

C12月27日また1月6日の手帳・日記には小坂氏のことは記述されていませんでした。

Dでは、権威にアポなしで面会もできるほど、懇意の間柄だったのでしょうか。手帳・日記には小坂氏のことが二度ほど登場しています。ある研究会で一緒になったとき、清水病院で講演を頼まれたときです。そのときのことは手帳・日記にあり、「Dr.小坂が取り仕切っているらしい」といった好意的でない表現で書かれています。

E12月27日の手帳・日記には「amイワタへ」と記されています。これは「午前中に磐田病院(磐田市)に着く」という意味です。喜納教授は月に2回、磐田病院に通っていました。浜医大から磐田病院へは車で一時間の距離にあります。通常、手帳に約束時間を書き入れる場合、出発時刻を書くことはしません。「何時に誰だれ」と書きます。その場合、その人に会うために「何時に出発」と出発時間を書く人もいるでしょうが、手帳に出発時間だけを書く人はいません。
 またこの日の手帳・日記には「御殿場で雪との情報。あわてて午後2時に東京に向け出発」と書いてあります。喜納さんは浜医大は単身生活で、金〜日曜日は東京の自宅で過ごしていました。自宅には車で東名高速を利用していました。この日は朝から天気予報で関東は雪模様になるとアナウンスされていましたから、東名高速が閉鎖されることを心配して、あわてて午後2時に磐田病院を出発されたのでしょう。当時の天候と喜納さんの手帳・日記は符合しています。

 小坂氏は二度目の証人尋問で、「amイワタへ」は「午前中に磐田病院に出発する時刻を書いたものだ」と強弁し、次のように当日の行動を供述しました。
◆清水病院からタクシーで静岡駅に。
◆静岡駅で10時26分発のこだまに乗る。
◆11時、浜松駅着。
◆11時30分に浜医大に到着。
◆喜納教授に迅速標本を診断してもらう。

 不自然極まりない主張です。
 もし小坂氏の主張が正しければ、喜納教授はお昼に浜医大を出発。午後1時に磐田病院に到着。昼食も取らず、1時間だけ仕事をして、2時に東京に向かう-ということになります。
 磐田病院での喜納教授の仕事は、永久標本を顕微鏡で覗き、癌かどうかを診断し、診断書に診断結果を記載するというものです。弁護士照会による磐田病院の回答は、喜納教授はこの日約20件、病理診断をしているということです。1件につき3分で次々と“こなして”いたことになります。小坂氏主張にそってこの日の喜納教授の仕事ぶりを考えると“超人的スピード”です。

「amイワタへ」の記載は、手帳の午前10時のところに記載されていました。
 繰り返しますが、朝の天気予報では関東は雪模様でしたから、喜納さんは朝早く浜医大での仕事をすませ、9時前に浜医大を出発、10時に磐田病院に到着。昼食を挟んで4時間の間に、20件の病理診断を行い、年末年始の打ち合わせを行なった上で、東京に向かったと解釈するほうが自然です。
 それが認められなくても、少なくとも、午前中に、どんなに遅くとも12時までに磐田病院に到着し、2時間ほど仕事をしたと解釈すべきでしょう。


 ところが、判決では@〜Eすべてを無視し、次のように結論づけるのです。

「確かに、喜納教授が診断した結果としての書面は存在しない。しかしながら、小坂の供述等は筋が通っている」
「27日に小坂が喜納教授に出会うことがなかったということはできない」
「小坂氏と喜納教授は知り合いだった」

 これが不当判決と言わずして、なんと言えるのでしょうか。

 ちなみに、あえて明記しておきます。
 裁判長の名前は佃浩一氏です。司法修習26期で、静岡地裁の前は東京地裁で統括判事をしていた人です。

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