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乳がん手術で歩行不能――防げたはずの被害  
                             
「これほど下手な外科医が日本にいるんだ。それが公立病院の要職にある、と知って驚いたのです。」(近藤誠医師意見書)と指摘された乳腺外科医にメスを持たせ続けた旧清水市と清水病院の人権意識
                          2025年3月20日

 フジテレビが中居氏の問題がわかった後も番組を続けていたことが報道された時、清水病院小坂医師問題とまったく同じだと思いました。

 旧清水市(以降、市)は、清水病院(以降、病院)の元患者家族や元患者から重ねて提訴され、「小坂医師の技量に問題がある・手術が下手である」と指摘されながらも何の手も打たず、それまでと変わらず小坂医師を講師に乳がん講演会を開き、健診をすすめて受診者を集め、メスを持たせ続けました。
 
 しかし、正体を明かさず勧誘する霊感商法と同じで、「手術が下手である」という肝心な情報を外部にいっさい伝えませんでした。

 小坂医師が清水病院へやってきたのは1978年(昭和53年)。1995年(平成7年)副院長に昇格、2000年(平成12年)春に退職。

 被害者が声を上げ続けて被害をなくす会を立ち上げ、マスコミに取り上げられたことがきっかけで市や病院は小坂医師を辞めさせましたが、副院長にまで昇格させていました。

 セクハラや性被害問題が報道されるたびに、医療現場での女性蔑視としか思えない女性の人権がないがしろにされた問題が、なぜ取り上げられないのか・許されてきたのか疑問が渦巻きます。

「手術が下手である」ことを明かさず受診をすすめた市の責任
 小坂医師は地元テレビ局が「ストップ乳がんキャンペーン」で頻回に取り上げたり、ランキング本に掲載されたりで「乳がんの名医」として知れ渡っていました。しかし、「手術が下手である」という肝心な情報はいっさい外部に伝わることはありませんでした。
 
 常識的な手術であれば生存できたであろう人たちが下手な手術ゆえに命を落とす。命があってもきつい後遺症で苦しみ続けて拷問を受けているような日々を現在も過ごしている人たちがいることを市や病院は考えたことがあるでしょうか?
 「手術が下手である」ことを伝えていれば、受診を避け、防げたはずの被害です。

小坂医師の手術が下手と認識した根拠と時期
 私は初診翌日に受けた生検手術だけで腕が上がらなくなりましたが、その後に受けた乳がん手術のひどさを客観的に認識したのは手術から1年後(1993年・平成5年)でした。

 清水病院から逃げ出した国立静岡病院の小坂医師と同世代の乳腺外科医に手術痕を見てハッと驚かれ、「二・三〇年前のやり方だ。こんなひどい手術、ここ何年も見たことがない。これじゃ中はメチャメチャだ」と言われ、大ショックを受けました。
 その時の医師の驚きようと気の毒がる様子を忘れることができず、一刻も早く被害をくい止めたい・同じ思いを他の人たちにさせたくないと強く思いました。

 それ以前に内科医で胸のレントゲン写真を撮った時には、手術内部がホッチキスの針のようなクリップ多数で縫合されていたことを初めて知って仰天したこともありました。後の裁判で、チタンクリップだと知りました。(→電磁波過敏症発症
 とにかく被害をくい止めたい一心で情報発信に努めた結果、何人もの人たちが私が逃げ出した医師のもとへ行くようになりました。

人権意識のかけらもない市と病院
 小坂被害をくい止めるため、1994年(平成6年)に市政モニターに応募し、清水病院での体験をレポートで提出しました。(*詳しくは「裁判の原点」参照

 翌1995年(平成7年)、私の思いとは裏腹に小坂医師は副院長に昇格。その年度の乳腺手術件数は乳がん94件・その他206件。他の医師の執刀もあるでしょうが、年間計300件、乳房にメスを入れています。
 乳がん手術94件とは、人口比からすると約2倍、休日以外の年間週2回の手術日すべて切っていたことになります。清水病院が現在地に移転新築してからほぼ同様の件数が続いていました。

 下手な手術をくい止めるために市政モニターとして声を上げた私の切実な思いを、市はまったく聞く耳持たずで、人権意識の無さに呆れました。

市はDNAに関する政府委員会の委員を代理人(弁護士)に選任
 「手術が下手である」だけでなく、初診翌日のいきなりの生検や、術後にがんについての説明も「神のみぞ知る」だけという信じられない屈辱的な対応に、小坂被害は私だけの問題ではないという思いから、1996年(平成8年)市を提訴しました。

 市側は代理人に東京の弁護士を単独で選任。この弁護士がDNAに関する政府委員会の委員を務めていたことを知った時、市は小坂医師の悪行を知りながら何が何でも守る一方、私を抑え込みたいのだと思いました。
 裁判では、市側が外国人のがん標本を用意してまでも私をがん患者に仕立て上げようと貶める手法に、人権意識の無さを通り越して唖然でした。
          
「手術が下手である」1998年(平成10年)12月3日付近藤誠医師意見書
 裁判過程で、清水病院に勤務経験があった近藤誠医師が小坂医師の技量について意見書を裁判資料として提出。

 <これほど下手な外科医が日本にいるんだ、それが公立病院の要職にある、と知って驚いたのです。(中略)いずれ病院がわや清水市も気づいて何か手を打つだろうと考えていた>(*全文は「近藤誠意見書」参照
 小坂医師が「手術が下手である」・「外科医が通常備えているべき技術をもたない」公的証拠となりましたが、意見書提出後も、市や病院は何の手も打たず、小坂医師にメスを持たせ続けました。

 女性は人間扱いされないのか、人の命より売上げなのか…。切られる人の身になれないのかと叫びたい思いで日々過ごしていました。

メスを取り上げるべきだった
 小坂医師は過去にはお腹の手術を専門としていました。しかし、不器用さゆえに手術した患者が次々と腹膜炎になり、かなり多数が死亡したため、内臓に関係のない乳がん手術に転向したと聞いています。(*「病院に殺される」参照

 私の前に小坂医師を訴えていた久保山甲三さんは、1989年(平成元年)清水病院が現在地に移転新築して間もない頃、元気だった妻まち子さんを初診から3か月半で亡くしています。

 名医を信じて小坂医師を受診し、私と同様に初診からすぐに乳がん手術。傷口が化膿してお腹の皮膚を切り取って乳がん手術部位に皮膚移植。下手な手術ゆえに皮膚移植が必要になった手術を更に不器用に手術されたのではたまったものではありません。
 その後も、卵巣摘出と人工肛門手術。2か月余の間に立て続けに全身麻酔3回の大手術を受け、抗がん剤治療も乳がん手術後から受けていました。

 小坂医師が乳がん手術に転向する前に市や病院がメスを取り上げていれば、又、「手術が下手である」と外部に情報を伝えていれば受診を避け、まち子さんの死を防ぐことができたはずです。
 幼い子供2人を抱えて久保山さんは提訴しましたが敗訴でした。しかし、久保山さんの存在がその後の私の大きな支えとなりました。

小坂医師を放任した市と病院
 腹部手術から乳がん手術へ転向させた経緯を思うと、市や病院は、人間の尊厳を奪うような屈辱的な切られ方をされた人たちの人権をどのように考えていたのかと怒りと疑問が渦巻きます。
 乳がん手術の対象者はほとんどが女性です。女性の人権をまったく考えていない許されない行為です。

乳がん手術で歩行不能
 逃げ出した先の医師に「あっ!」と驚かれた私が受けた乳がん手術は、胸を皮ごと大きく切りとって、上下無理やり引っ張り合わせているため、切られた側の肩は前傾に落ち、身体全体がタオルを絞ったようにねじれていき、身体のゆがみは年々ひどくなっていきました。首は曲がって傾き、足は左右びっこが生じ、2020年(令和2年)に歩けなくなりました。手術から28年後です。

 歩けなくなってから、オーダーインソールを入れた靴を使って普通に歩ける状態を維持しています。家の中ではオーダーインソールを使った室内履き・運動靴・トイレ用に、その都度履き替えて生活しています。目が悪い時にはメガネが必要になるのと同様に、身体のゆがみにあわせたインソールを手放せなくなりました。身体のゆがみ状態を毎月計測してインソールを作り直して日常生活を維持することができている状態です。

 「乳がん手術で歩行不能」とは、誰にも信じられないでしょう。私も信じたくない小坂手術後の現実です。

リンパ浮腫ケアで自由に寝ることができない
 鎖骨下と腋のリンパ節をごっそりとられているため、リンパ浮腫ケアが必須です。腕のマッサージや夜就寝中も患肢側に腕を載せる枕を置き、高くして仰向けでしか寝ることができません。
 下手な大きな手術によって、腋はボールを挟んだ感覚、胸は鉄板に挟まれたきつさを抱え、しびれや感覚がない箇所もあって、右上半身が腐ってきそうな不安に駆られることはしょっちゅうです。

チタンクリップで電磁波過敏症
 手術時には知らされず、裁判過程で体内にチタンクリップが入っていることを知りましたが、それがアンテナの役目をして体内に電磁波を集めてしまうため電磁波過敏症を発症。電磁波で体調不良を起こしてしまうため、家の中、クルマの中、電化製品の近くに電磁波対策グッズを置き、毎晩、就寝前には放電カードで体内にたまった電磁波を放電しています。

骨だけ残す手術
 私と同時期に小坂医師の手術を受けた手術仲間が手術から30年以上経って初めて本音を伝えてくれました。

 「80歳過ぎて介護を受ける時のことを考えるとお風呂のことが心配。骨だけ残す手術で夫に見せたことはないし、身体のゆがみがきつく、首まで曲がっている。もちろん、がんではなかったと思っている。なぜ手術に応じてしまったのか自分を責める日々が続いている。日本ではどうして女性がこんな目にあうのか」と。

 小坂医師の手術を受けた人は私と全く同じ思いで日々過ごしていることに、あらためて事の重大さに心が重くなっています。

困る病歴
 医療機関を受診の際、困るのは過去の病歴です。大きな乳がん手術痕がありながら、「どういうがんだったのか」と問われても、「神のみぞ知るとしか聞いていません」としか答えられないからです。
 まるで笑い話ですが、小坂医師から聞かされているのは「神のみぞ知る」だけです。私が認知症か頭がおかしいと疑われかねないので、病歴を訊かれそうな所へは行かないようにしています。

声を上げられないことにつけ込んだ傷害行為
 小坂医師の乳がん手術は女性が声を上げられないことにつけ込んだ悪質な傷害行為です。
 ひどい手術を受けた人たちが声を上げなければ、どのようなつらさか伝わりません。でも、声を上げられる人がいるでしょうか?常識的な手術にしても乳がん手術を受けたことは誰にも知られたくなく黙っていたいと思うのが普通でしょう。

 乳がん手術の対象者はほとんどが女性です。妻であり、母であり、嫁であり…家庭で起きる問題に対処する優先順位からすると、自身のことは後回しにせざるを得ないのが現実です。疑問を持って声を上げたくても自分さえ我慢すればとなってしまいます。私のところに相談があった何人もの人たちが途中で連絡が途絶えました。声を上げることを断念せざるを得ないのです。

 清水病院で乳がん手術後、放射線科へまわされた患者で、がんの所見がなかった人たちのカルテを裁判資料として近藤誠医師が提出して下さったことがありました。それらの人たちへ連絡をとりましたが、すでに手術を受けてしまったからそっとしておいて欲しいということでした。

 がんを疑うことなく手術を受けたのに、がんではなかったと知らされた場合、心と身体の不一致に苦しむのです。すでにがん手術を受けて元に戻らない身体の状態で、がんではなかったとなると心がついていくことがとても難しく、声など上げられるわけがありません。

 ことほどさように女性が声を上げることは困難を極めます。だからこそ声を上げた小坂手術体験者の声に耳を傾けるべきだったのです。

傷害行為をくい止める手立て―自浄能力ゼロ
 私が市に対して、市政モニターとして声を上げても、裁判を起こしても、近藤誠医師の意見書を提出しても、情報発信に努めても、議員に相談しても、市長に直接話しても、乳がん被害をくい止めることはできませんでした。

 私の提訴報道がされた時、最初に連絡してきたのは病院職員でした。病院内部で「乳がんは清水の風土病」と言われていることを教えてくれました。小坂医師の所業に疑問をもち、患者さんのために何とかしたいと思っても内部改革は難しいからと被害者への協力を約束してくれました。良心をもった人たちが院内にいることはとても心強く励まされました。  
   
 その後、ルポライター米本和広氏の取材に被害者や病院職員が応じて、清水病院についてのルポが雑誌に掲載されて問題が表面化(*いのちジャーナル参照)。それでも乳がん被害をくい止めることはできませんでした。
 改革を期待して取材に応じた職員たちは期待を打ち砕かれ、精神を病んで退職した人もいると聞いています。

 翌年、「別冊宝島・病院に殺される!」に米本和広氏のルポが掲載されて、市議会でも取り上げられました。後に「宝島議会」と言われましたが、即座には乳がん被害をくい止めることはできませんでした。
 最終的には米本和広氏のペンの力が小坂医師を退職(2000年春)に導きました。(*月刊「現代」『追跡ルポ虚像の名医 乳癌を切りまくった医師に問う』2003年1月号参照

 ここまでのことがなければ小坂被害をくい止めることはできませんでした。1993年(平成5年)に、私が清水病院から他院へ逃げ出して小坂手術のひどさを客観的に認識し、声を上げ始めてから7年かかりました。その間の乳腺手術件数は乳がん581件・その他1143件。他の医師の執刀も含まれているでしょうが下手な手術の医者を野放しにした市と病院の人権意識には言葉もありません。(病院年報手術件数4年度版・11年度版、 12年度版参照)

 小坂医師在籍中の乳がん手術件数およそ1000件のうち、人口比からすると、500件はがんではなかったと思うと近藤誠医師に伝えた時、黙って深くうなずかれました。

 私がルポライター米本和広氏や、偶然にも清水病院に勤務経験がある近藤誠医師との出会いがなければ、到底、小坂医師を退職に追い込むことはできず、下手な手術の犠牲者は歯止めが利かない勢いで増え続けていたことでしょう。当時、両胸をとられた人たちが次から次でしたから。

病院が黒字を目指す怖さ
 小坂医師の問題は下手な手術にとどまりません。私の裁判では「まさか、まさか」と疑問をもって調べていくと、「やはり、そうだった」の連続でした。(*「裁判が終わって」参照
 
 初診翌日の生検手術は、切除した組織の証拠隠滅とがん標本を登場させるアリバイづくりのためとしか思えません。近藤誠医師が著書「あなたの癌はがんもどき」に、清水病院で体験されたことを「がん患者を作り出す病院」・「医療詐欺のカラクリ」の小見出しで書かれています。(*全文はこちらです

 がん患者に仕立て上げ、グループ分けして薬の投与試験をやっていたこともカルテで知りました。抗がん剤と知らせずに強要していた理由がよくわかりました。私は手術の後遺症だけでなく抗がん剤の後遺症で直腸炎を発症し、その後、潰瘍性大腸炎(指定難病)に苦しみました。(*腸内フローラ移植を受けて現在は寛解状態を維持

 清水病院で私が体験したことは、「売上げのため」と考えると、すべてに納得がいく所業でした。手術が下手であればあるほど外科もリハビリも売上げが上がります。市にとっては小坂医師を抱えていれば病院を黒字に導く貴重な存在でした。
 
誤算
 私ががんに罹患しないで長生きしていること、地裁途中で代理人を静岡の弁護士から東京の弁護士たちに替えたため、地裁結審を間近に控えた裁判が継続されたことは市と病院にとっては大誤算だったことでしょう。

 清水病院でとんでもない目にあってしまいましたが、ことあるごとに出会いに恵まれてきました。
 清水病院から逃げ出して受診した医師が、私の乳がん手術痕に驚いて、ひどい手術であることを正直に伝えて下さったことに心から感謝しています。声を上げるきっかけとなりました。
 
 久保山さんとは彼の提訴報道記事がきっかけで出会い、その後、次々と清水病院被害者たちに出会うことができました。当時、静岡地裁で係争中の4件は市側代理人が地元の同じ顔ぶれの弁護士複数人でしたが、私の裁判の時だけ東京から弁護士1人が来ていたので当然疑問がわき、調べたところ、DNAに関する政府委員会の委員であることがわかりました。被害者仲間同士で裁判を傍聴していたからこそ市側代理人の違いに気付くことができました。

 近藤誠医師が偶然にも清水病院に勤務されていたことは驚きでした。小坂医師は「明日から近藤という悪い医者が来るから患者をまわすな」と放射線科へお達しを出していたと職員から聞いています。患者をまわさなくても病理診断なしで手術をしていたことや下手な手術はバレました。

 ルポライター米本和広氏はカルト問題に詳しく、清水病院を取材した際にはカルト宗教との類似性に驚いていました。清水病院の被害実態の深刻さに、被害をなくすための会設立の提案やホームページ開設にご尽力下さいました。

 市は私が訴えた裁判に思惑通り勝訴しましたが、近藤誠医師と米本和広氏の義憤によって、市や病院は稼ぎ頭を失い、市民は救われました。

伝説ではない乳がん事件・現院長はすべてご存じのはず
 現院長は、「私は平成8年から当時の清水市立病院に勤務」と、清水病院のホームページ病院長メッセージに掲載されています。
 平成8年は、私が市を提訴し、小坂医師は副院長でした。現院長は小坂医師の悪行をすべてご存じのはずです。

 ちなみに乳腺外科のページには、「現在、残念ながら当院では乳腺専門の常勤医不在のため、乳がん手術は行っていません」とあります。「残念ながら」に意味があるのか、乳がん手術をやっていないと下線が引かれていることも、売り上げを上げられない残念さがにじみ出ていると思えるのは、ひどい目にあわされた故のひがみでしょうか。

人権回復に向けて
 人間の尊厳をズタズタにされた小坂医師の犠牲者は、名医を信じて清水病院へ行ってしまったこと・行かせてしまったことを今も悔い続けています。

 正体を明かさず勧誘する霊感商法に引っかかったのと同様、「だまされた」という思いをぬぐえずにいます。 「手術が下手である」と、正体を明かしてくれていれば行かなかった、被害にあわずに済んだという後悔の念を抱えています。

 遺族の心は癒されることなく、命ある被害者は、きつい後遺症を抱えて今を生きています。決して過去のことではありません。

 小坂医師が退職しても、身の丈に合わない建物を建てて利益重視路線を推進してきた市や病院・議会の責任が未だ問われず、売上げに貢献させられた人たちの人権はまったく無視されたままの幕引きはあまりにも無責任過ぎます。
 何の検証も反省もない市や病院に未来はないでしょう。
        (文中表記:「市」=旧清水市 「病院」=清水病院)


上記一文は清水病院被害者の人権回復の一助になることを願って綴りました。




                    竹下勇子(2025年3月20日)

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