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『月刊現代2003年1月号』
追跡ルポ

虚像の名医 乳癌を切りまくった医師に問う

静岡・清水市立病院の経営を立て直した副院長が突如、行方不明に。
ずさんな手術と医療裁判、そして大学医局の威光。医学の矛盾を衝く


                             (ルポライター)米本和広

 東海に乳癌の名医あり。
 昔は次郎長、今はエスパルスで有名な静岡県の清水市。その市立病院の副院長、小坂昭夫(58歳)は乳癌のスペシャリストとして評判の医者だった。出自も慶応義塾大学付属病院医局(以下=慶応医局)と文句なし。病院の乳腺外来は先生の診断を待つ人たちでいつもごった返し、外科病棟は乳癌患者であふれかえっていた。

 その小坂が2000年4月に病院を突然退職し、行方をくらましたのである。困った患者が先生の行方を病院に尋ねると「わかりません」と、つれない返事が返ってくるだけ。一体、名医はどこに消えてしまったのか。

 本稿のテーマは「消えた名医を探せ」。もう少し詳しく言えば、突然の退職の背景とその後の足どりを探ることを通して、大学病院の医局と公立病院のいびつ歪な関係を明らかにすることにある。

 小坂が慶応医局から日本鋼管病院を経て市立病院にやってきたのは78年のことである。主に腹部外科を担当していたが、乳癌を手がけるようになってから頭角を現す。とりわけ、88年に地元の静岡けんみんテレビ(現静岡朝日テレビ)が「ストップ乳がんキャンペーン」を開始したことが大きかった。小坂はこのキャンペーンの先頭に立ち、テレビに出演し、毎月のように講演会の演壇に立った。

 テレビは、小坂の顔写真とともに「清水市立病院外科科長」「ストップ乳がんキャンペーン」「あなたも検診を」の文字を並べた静止画面をスポットCMのようにひんぱんに流し、先生が出演し乳癌について説明するコーナーを定期的に設けた。

 小坂の講演会の最後には決まって、司会者がこう呼びかけた。
「乳癌は増え続けています。今日ご自宅に戻られたら家族の方、ご近所の方に検診を受けるように話してください」
 それに呼応するかのように、市役所も広報や町内会の回覧版を通して検診を呼びかけたのだった。

 翌89年には病院は移転新築。大型病院に生まれ変わった。移転先は日本百景の一つ、日本平の麓という景勝地。病室の東側からは駿河湾の青い海、北東側からは富士山を一望できる。市自慢の市民病院となった。

 この移転新築とキャンペーンが相乗効果となって、患者がどっと増えた。ベッド数が500床にも増床したというのに、92年度のベッド利用率は絶好調のホテル並みの92%(96年度は95%)。小坂率いる外科病棟は102%に達した。100%を超えるのは朝に退院し、夕に新規患者が入院するからである。小坂のおかげで乳癌患者が外科病棟の半数以上を占めるまでになった。いつしか小坂先生は乳癌の名医≠ニ呼ばれるようになった。

 92年に出版された『医者がすすめる専門病院・静岡県版』(ライフ企画)に小坂は顔写真入りで登場し、96年には別冊宝島『病院ランキング 東海・中部・北陸版』(宝島社)の乳腺部門でも8位にランクされるなど、メディアでも取り上げられるようになった。

 小坂はその本のコピーを講演会会場で配るとともに、『別冊宝島』のランキング表を外科の待合室に張り出した。地元のテレビにひんぱんに出演しているだけでなく、出版社も先生のことを高く評価している。患者の小坂への信望はますます厚くなり、「名医」の座は揺るぎないものになった。

 小坂の1年間の乳癌の手術件数は90前後。勤務日を200日とすれば2日に1回は乳房を切っていた計算となる。異常な多さだが、治療件数の多さをもって良い医者とする最近の厚生労働省の考え方からすれば、実績からして小坂は文字通りの名医だった。

 学会の活動にも熱心で、日本乳癌学会評議員、日本乳癌検診学会評議員など多数の公職に就いており、肩書も申し分なかった。  小坂の名声、市をあげての検診キャンペーンが見事にあたり、病院の収支は次第に改善されていった。バブル期の移転新築が負担となり累積赤字は11億円に膨らんでいたが、小坂が副院長に出世した95年から黒字に転換し、97年には累積赤字を4億円までに圧縮。赤字一掃は目前となっていた。

 退職の裏側

 その病院の功労者でもある小坂が行方をくらましたのだ。先生の行方について病院に改めて質問してみたが、患者への返事と同様に、つれない言葉が返ってくるばかりだった。

「異動されたお医者さんならともかく、退職された方なんで、どこに行かれたのか、いまどこにいるのか、本当にわからないんですよ」(同病院庶務課長)

 退職にあたってはセレモニーもなく、別れの挨拶もなかったという。病院に勤務して22年。収入を伸ばした功労者だというのに、最後は、ひとり寂しく病院を去っていったようだ。

 小坂は病院退職と同時に、藤田保健衛生大学の客員教授、浜松医科大学の非常勤講師も辞任している。そこにも問い合わせたが、知らないという。  小坂の自宅は、病院からそう遠くない所にいまもある。近所の人が話す。

「2年前の4月に『引っ越しする』と挨拶があったけど、なぜか急遽取りやめになった。ときたま奥さんが掃除かなにかで戻って来られるだけで、住居は別のところにあるようです」

 先生探しはひとまず置くとして、そもそもなぜ小坂は病院を辞めたのか。意外なことに、私が以前に書いた記事も関係しているのだという。小坂の行方が気になって調べてみようと思ったのは、そのためである。

 99年に私は別冊宝島『病院に殺される!』で、小坂の乳癌治療に疑問を投げかける記事を書いたことがある(次頁以降で触れる)。この記事は同年9月の清水市議会でも取り上げられたが、宮城島弘正・清水市長や石原直毅・同市立病院長(現南多摩病院長)の答弁は歯牙にもかけないものだった。だから、私の記事が原因で病院を辞め、その後に行方をくらましたと言われてもピンとこなかった。

 その当時の様子を、ある市会議員が明かしてくれた。 「じつは、あなたの記事がきっかけになって、99年の初秋ごろ市長が直々に医者や看護婦たちを集めてヒアリング調査を行ったんだよ。その結果、小坂さんは問題あり≠ニなり、退職処分にしたということです」

 しかし、小坂が退職したのは、正確には2000年の春である。 「退職を翌年の春まで延ばしたのは、あの時点で退職させると、あなたの記事が正しかったと市側が認めたことになる。だから定期異動の時期を狙って目立たなくした。それともう一つ、小坂さんが所属する慶応医局への根回しに手間取ったからだとも聞いている」

 慶応医局が絡むのである。この点については後で検証するが、市長が問題にしたのは、小坂のいわゆる「検査づけ医療」が明らかになったからだという。 市をあげて市民に検査を呼びかけてきた責任はどうなのかと疑問に思うが、それにしても「名医」から一転して「問題医」。あまりの落差に戸惑うが、小坂の乳癌診断と手術の実態を知れば、この名医がいかにマスコミや講演会活動などによってつくられた虚像だったかがわかるだろう。

 小坂の問題点は、市長が指摘するような「検査づけ」ばかりではなく、むしろ「手術」そのものにあった。  

暴かれた「治療」

  名医の手術とは、いかようなものだったのか。それを知ってもらうには、多少専門めくが、まず乳癌の標準的な「診断と治療」を理解する必要がある。

 乳腺外来を訪れるのは、乳房のしこりが気になった人たちである。最初は服を着たまま椅子に座っての問診から始まる。それが終わると服を脱いでの視診、触診が丁寧に行われる。しこりがなければ経過観察に、見つかれば、医者は検査部にマンモグラフィ(=レントゲン・以下マンモ)とエコー(超音波検査)の予約を入れる。検査後は、検査技師から写真と検査報告書が医者のところに送られる。

 両検査で腫瘍が見つかると、今度は「細胞診」と呼ばれる診断が行われる。これは腫瘍部分の細胞を注射針で吸引し、顕微鏡で調べる検査だ。ここで良性腫瘍とわかれば経過観察となる。

 良性か悪性か判断がつかない場合、もしくは癌の可能性ありとなれば、「生検」手術(組織診断、試験切除)が行われる。切り取った組織は標本化され、病理医が診断する。生検は乳房にメスを入れ身体を傷つける。そのため、傷のつかない「細胞診」を抜きにした「生検」は考えられない。(参考文献=『乳がんの診断と治療・改訂版』大阪府立成人病センター編、『科学的根拠に基づいた乳癌の診断・治療ガイドライン』カナダ医師会編、南雲吉則監修)

 では小坂の場合はどうだったのか。  初診時の問診は、最初から上半身裸で行われる。名医は忙しい。患者は裸のままベッドに横たわって、先生の登場を待つ。先生はやってくるなり触診する。乳房を揉みながら「何か気になることでもあるの」。元患者たちは「恥ずかしくてろくに受け答えもできなかった」と一様に話す。

 名医は腫瘍がなくてもマンモとエコーの検査をその日のうちに行う。その結果、良性であれ腫瘍が見つかれば「細胞診」をふっ飛ばし「生検」手術の予約を入れる。生検の結果は前述したように病理医が診断するのが一般的だが、小坂はしこりを取ったその場で癌告知することも少なくなかった。

 つまり、初診日に触診・マンモ・エコーの検査を行い、翌日か翌々日に生検手術。さらにその日か翌日のうちに癌告知し、数日後にはもう乳房の全摘出手術だ。いかに「標準」とかけ離れているかが理解できるだろう。悪性の癌ならともかく、通常は初診から手術までは1〜3ヵ月はかかる。乳癌の場合、癌の進行が遅いため、あわてて手術をする必要がないからだ。それに対して、名医はベルトコンベア式に1〜2週間でバサッバサッと切っていく。

 では、肝心の腕前はどうか。外科医の腕のみせどころは手術が上手いか否か。それは術後の入院日数でわかる。メスさばきの見事な外科医の患者ほど退院は早い。乳癌患者の入院日数は平均で1週間(長くて2週間)である。

 高野静さん(仮名)はエコーで0.9oという極小のしこりが見つかっただけで、乳房を丸ごと取ってしまう全摘出の手術を勧められた。91年のことだ。彼女のようなケースであれば「乳房温存療法、1週間程度で退院」で済むはずだが、高野さんは41日間も入院していた。

 なぜ、そんなに長いのか。 「縫ったあとに傷口がパカッと開いたりして、いつまで経っても塞がらないからです。私の場合、完全に塞がったのはちょうど1年後でした。入院仲間に聞いても、塞がるのが早い人で6ヵ月。1年以上かかった人も少なくないですよ」

 278ページの写真は先生から手術を受けた患者のものである。腕前については語るまでもないだろう。同じく92年に手術を受けた竹下勇子さんが振り返る。

 「小坂医師の手術は乳房を皮膚ごと大きくえぐり取ってしまうため、残っている上の皮と下の皮をむりやり強引に引っ張って粗くギザギザに縫合するんです。そのために傷口が塞がらない。そればかりか、肩が胸の方に引っ張られ、前かがみに縮まざるを得ない。だから乳癌患者は片方の肩を内向きに下げて歩く。外見だけで乳癌手術を受けたかどうかわかるんです。ショックでした」

 「術後の後遺症がひどいため、病院ではリハビリを受けるのが当たり前になっていた。リハビリ室はいつも乳癌患者であふれかえっていました。手術が下手だから入院とリハビリで儲かる。ひどい話です」

 高野さんも竹下さんもすでに10年が経過するというのに、いまだにむくみ浮腫、しびれなどの後遺症に苦しんでいる。  小坂は「名医」どころか「問題医」さえ通りこし、ひどい「ヤブ医者」だったのである。こんなデタラメ医療が10年以上にわたって行われていたのだ。

 「名医」という権力

 竹下さんは96年に小坂を裁判で訴えた。その法廷に、抗癌剤の危険性にいち早く警鐘を鳴らしたことでも有名な慶應義塾大学の放射線科医、近藤誠氏が98年に意見書を寄せている。医者が外科医の腕前を論評するのは医療業界においては非常に勇気がいる。ちなみに近藤氏は清水市立病院に週に1回、非常勤で通っていたことがある。

 「小坂医師が手術した傷あとを見て、びっくりした。これほど下手な外科医が日本にいるんだ、それが公立病院の要職にある、と知って驚いたのです」  最近テレビや雑誌によく登場する外科医の平岩正樹氏は、清水市に近い蒲原町の公立病院で外科部長を務めていたことがある。その際、小坂の患者を2人ほど診ている。

 「患者さんのレントゲン写真を取って、驚きましたね。内部がクリップ(ホッチキスのようなもの)で縫合されていたんですよ。手術にスピードが要求される場面や、手で出来ない、血管より細い部分を縫合するケースでクリップを使用することはありますが、一般には使いません。CTやMRIなどのときにハレーションを起こしてその周辺がはっきり見えなくなり、癌の再発を見落としかねないからです。でも、小坂さんはあの当時、名医として有名な人でしたから、何か特別な事情があったのだろうって、思いましたが」

 竹下さんの場合も内部がクリップで縫合されていた。小坂に見切りをつけ、地元の内科医に診てもらったところ、やはり仰天されたという。  劇薬であるはずの抗癌剤についても一切説明されることなく、患者はのんでいた。抗癌剤だと知った患者がのむのをいやがると、小坂は「命が惜しければのめ」と怒鳴った。疑問を抱く患者もいたようだが、何しろ名医の発言である。従うしかなかった。後に「癌の予防のためにのめ」「ビタミン剤だと思ってのめ」と、表現を変えて言うようにはなったが、それにしても劇薬をビタミン剤とは……。前出の高野さんが回想する。

 「入院仲間がけっこう亡くなりましてね。悪質な癌だったのかもしれませんが、隣のベッドの人はものすごく元気だったのに抗癌剤の投与が始まってから急に元気をなくされ、亡くなった。隣の部屋で亡くなった方は二十数種類もの薬をのんでいました」

 そこまでひどいことをされてどうして逃げ出さなかったのか―。竹下さんが説明する。 「とにかく急かされたのです。初診のときにマンモ、エコー、次の日がもう生検。そしてその翌日にはもう癌告知。名医という評判の先生から癌だと言われてパニック状態。癌からは死を連想しますから恐怖感に襲われ、乳癌のことを調べる精神的な余裕なんかありませんでした」

 病室は、傷口がいつもジュクジュクし、なかなか塞がらない人たちばかり。「標準」がわからないから、乳癌手術はこんなものかと思ってしまう。仮に退院後に「標準」を知ったとしても、「胸をバッサリと削り取られた」と、他人に話すことは恥ずかしくてできない。そもそも乳癌の全摘手術を受けた女性は夫にさえ裸の姿を見せないのが一般的なのだから。

 患者の口から漏れなくても、名医が虚像に過ぎないことを部下の外科医と看護婦たちは知っていたはずである。しかし、病院の収入を伸ばす小坂は市の覚えめでたい、病院の人事まで左右するほどの実力者。誰もがだんま黙りを決め込んでいた。それどころか、傷口の手当てをしながら高野さんや竹下さんたちに「きれいな手術で良かったわねえ」と語る、小坂に迎合する白衣の悪魔さえいたのだ。

 癌ではなかった

 こうしたわけで、実像と虚像は長く乖離したまま小坂は名医であり続けた。ところが、先生にとって気が気でないことが起こってしまった。前出の竹下さんによる提訴である。

 「小坂の手術は下手だ。そのために後遺症に苦しんでいる」 「本当は癌ではなかったのに小坂は乳房を摘出したのではないか」  と声をあげたのである。小坂を最初に訴えたのは久保山甲三さんである。

 「妻の死は、立て続けの三度にわたる手術と抗癌剤の投与ミスだ」。敗訴となったものの、この久保山さんの勇気に、竹下さんは励まされたという。  自分は癌ではなかった―。竹下さんがそう思うようになったのは、生検の結果はもとより手術後も入院中も、肝心の「癌」に関する説明が一切なかったことが大きい。退院後にどんな癌だったのか改めて質問をしても、小坂は甲高い声で一言。

 「神のみぞ知る!」  不信感を抱いた竹下さんは、小坂に対する疑問を連ねたレポートを市役所に提出した。すると、名医は自宅に竹下さんを呼びつけ怒鳴りまくった。そして興奮のあまりか、突然、前後の脈絡とは関係なく、妻に向かって、こうわめいたのである。

 「前に自宅周辺でビラを撒かれたことあるよなぁ。『癌じゃないのに手術された』って、な!」  竹下さんはそのとき「ああ、やっぱり同じように疑問を抱いていた人がこれまでにもいたんだ」と思ったという。

 裁判のため、病院から保全した証拠資料を読んだとき、竹下さんは自分が癌でなかったことを確信した。初診の外来カルテに癌の記載はなく、精密検査表には「しこりがある」と記されているだけ。マンモの結果はカルテに書かれておらず、エコーの検査報告書には技師によって「良性腫瘍」と記載されていた。標準診断からすれば、「生検」手術をする必要はなかったのだ。

 自分が癌であった証拠はなかった。だが、裁判では癌でなかったことを原告が立証しなければならない。そこで、生検で切り取った竹下さんの組織標本に癌組織があるか調べることになった。裁判所は病理医に鑑定を依頼した。

 その際、竹下さんは「病院から提出された標本が(癌細胞のある)他人の標本の可能性もある」と疑い、鑑定に出す条件として、自分の組織と標本組織が一致するかどうかDNA鑑定も行うように主張した。医療事故の裁判では前代未聞のことである。

 鑑定の結果、標本から癌組織が見つかった。ところが、そのあと提出されたDNA鑑定では、二つの組織のDNAが、なんと一致しなかったのである。鑑定にあたった東京医科歯科大学名誉教授の支倉逸人氏は、定年後に出版した『検視秘録』(光文社)で、このときのことを次のように記している。

 <ミトコンドリアDNAを検査したところ、その女性のDNA型と一致しなかったのである。つまり、病院側は、女性以外の誰かの組織標本を、女性のものだと偽って出したか(後略)>

 ミステリアスな法廷劇はいまも続いているが、私はこう推測する。―この裁判の過程で、小坂は癌でなかった患者の乳房を摘出していたことが露見するのを恐れて、いや、もっと言えば、竹下さん以外にも裁判に訴える人が出てくるのではないかと不安になって、退職と同時に雲隠れしてしまったのではないか―。

 なにしろ、これまでに小坂が手術した女性は1000人以上にのぼる。高野静さんは「私の知り合いも次から次へと乳癌と診断され手術を受けた」と語っていたし、竹下さんの案内で近所を車で回ったときには、

 「あそこも乳癌、こっちの人も乳癌。あそこの店の奥さんは両方とも乳房を取られ、レジが打てなくなっている」  と教えてもらった。清水市周辺だけに乳癌が集中発生≠キるのはどう考えてもおかしい。地元では一時期こう囁かれたことがあった。

 「乳癌は清水市の風土病じゃないかしら」  乳癌の発症率に関する統計はないが、厚生労働省の「患者調査」から推計すれば人口1万人あたり2人の割合である。これは静岡県の外科医が発表した静岡市(人口47万人)90人、浜松市(同54万人)97人とほぼ一致する。ところが、人口24万人の清水市では市立病院だけで90人。風土病では? と囁かれるのも、もっともな話なのだ。

 竹下さんの「癌ではなかった」という主張には説得力があるのだ。実際、「先生から癌だと診断されたのに他の病院で癌ではないと言われた」という人は、私が調べただけでも合計9人にのぼった。この9人は、他の病院に行かなければ小坂の手によって乳房を摘出されていた……。

 発見!

 話を戻す。名医が消えたのは、私が推測したように、乳癌でない女性の胸を切っていたことが露見するのを恐れてのことだったのか。どうしても知りたい。それには小坂の居所を突き止め、直接聞くしかない。

 小坂に関する情報は一つだけあった。先生が退職する前に、職員の間で「千葉県船橋市の病院に就職するらしい」という噂が流れたのだ。だが、それを聞きつけた竹下さんがその病院を突き止め、小坂の名医ぶり≠伝え、内定は取消となった。「引っ越しは急遽取りやめになった」という近所の人の話はこのあたりの動きに絡んだものだろう。この病院の経営母体であるセコム医療システム株式会社に問い合わせると、

 「(小坂氏は)慶応医局からの紹介で採用することにしたと記憶していますが、取消したので、その後は……」 という。ここまではわかったが、その後がわからない。小坂とともに「ストップ乳がんキャンペーン」を行っていた静岡県医師会の会報には「神奈川県に異動」と載っていた。同県のいくつかの大型病院に電話してみたが、徒労に終わった。先生が評議員になっている学会の事務局も一様に「居所はわからない」というし、「ストップ乳がんキャンペーン」で一緒だった他の病院の外科医もやはり知らないという。

 しばらくして、朗報≠ェ入った。「小坂先生は伊豆・韮山町にある伊豆韮山温泉病院(以下・伊豆韮山病院)にいる」という清水市内の開業医からの情報だった。この情報は正確だった。たしかに小坂は今年の8月に同病院の院長に就任していたのだ。

 先生を探し始めてから3ヵ月、ようやく名医の居場所が見つかった。さっそく、インタビューを申し込んだが、「裁判中なので取材には応じられない」というばかり。にべもない対応だった。ようやく突きとめたというのに……。  

後見人の正体

 それにしても、清水市立病院を退職してから2年と4ヵ月。大病院の副院長まで務めた人物は、いったいどこに潜んでいたのか。伊豆韮山病院のホームページを開くと、これまでの足どりが書いてあった。先生はパソコンが苦手とのことだから、ホームページに自分の経歴が載っているのを知らないのではないか……。

 退職から1ヵ月後の00年5月、小坂はなんと高知県・室戸市の室戸中央病院に就職していた。静岡県医師会には「神奈川県に移動」と届けながら、実際は四国の南端に行っていたことになる。しかも室戸には、わずか1年間いただけで、その後、東京の河北リハビリテーション病院に異動し、そこから1年3ヵ月あまりで静岡に戻った。清水市から室戸市、東京、韮山町と、まるでフーテンの寅さんのようだ。

 小坂一人の意思で、病院を転々としていたとは思えない。 室戸、河北、伊豆韮山の各病院には一つの共通項がある。それは、回復期にある患者を対象にした「療養型」のリハビリ中心の病院で、手術が必要な急性期患者は対象外ということだ。そもそも伊豆韮山病院には外科すらない。つまり、小坂は事実上メスを捨てていた、あるいは捨てさせられていた……。小坂の就職の面倒を見てきた後見人≠フ存在が色濃く漂ってくる。

 後見人は誰か。室戸中央病院の事務局長はこう話していた。 「(小坂氏は)慶応の医局から来られ、1年間いらっしゃったのですが、また慶応に戻られたと記憶しています」

 昨年新設された河北リハビリテーション病院に聞くと、「公募によって採用しました」と言うが、同病院の母体は河北総合病院で、理事長の河北博文氏は慶応医局出身である。伊豆韮山病院の前々院長で現清水市立病院の院長、重野幸次氏も慶応医局出身である。

 こうまで慶応が絡んでくれば、小坂の後見人は慶応の医局に間違いないだろう。  

大学医局という存在

そもそも、慶応医局と清水市立病院はどのような関係にあったのか。それを象徴するのは、小坂の退職の際に清水市長が1回、同病院の院長と事務部長が1回、わざわざ慶応大学に出向き、外科医局教授で医学部長の北島政樹氏に退職の了承を取りつけていたという事実だ。人口24万人の地方都市とはいえ、市長が大学の一教授に頭を下げる。しかも、問題医の退職の了解を求めるために。にわかには信じがたい話だろう。

 だが、大学の医局(教授)は地方の公立病院に対して絶大なる影響力をもっている。 清水市立病院の場合、院長の重野氏をはじめ、副院長、医務部長の三役はいずれも慶応医局から派遣されている。そればかりか、60人の医者のうち33人が慶応からの派遣であり、内科、外科など九つの診療科目を慶応の各医局が押さえている。慶応外科医局のトップである北島氏への挨拶≠抜きにして、医局所属の小坂をクビにしてしまえば、外科医などの派遣がスムーズにいかなくなり、病院の機能が低下してしまう。

 一般に、公立病院は清水市立病院のように莫大なお金をかけ、豪華な建物と高額な医療機器を用意し、医者は大学医局から派遣してもらう。医療のことは医局任せ。たとえ問題医がいても責任者の市は知らん顔だ。清水市立病院に限らず、医療事故裁判が国・公立病院にとりわけ多いのは、背後にこうした歪んだ構造があるからである。

 たとえ医局任せであっても、公立病院の人事を握る医局が医者をきちんと管理していればいい。だが、清水市立病院で85年から02年までに、新聞に載ったものだけでなんと9件(うち6件は死亡事故)もの医療事故が起きている。そのうち実に8件までが慶応医局の医者が絡んでいるのである。それなのに慶応医局が事故対策に乗り出したという話は、ついぞ聞いたことがない。

 だが、北島教授は小坂が所属する外科医局のボスである。小坂の退職の了承を市当局が取り付けた際に、北島氏はこう語ったという。 「(清水市立病院に派遣していた)別の医師からも『小坂君が問題のある医者だ』と聞いていた」

 つまり、問題医であることを以前から知りながら、何の手も打たなかったわけだ。その間も続々と被害者が生まれていたことを考えれば、北島氏の態度は「不作為」と批判されても仕方がないだろう。

 北島氏は本誌の質問に秘書を通して 「(小坂氏は退職した時点で)慶応の医局から離れている。だから、伊豆韮山病院の人事は、慶応の外科医局とは関係ない。また小坂氏の前病院でのトラブルは、私的なことなので答えられない」

 と回答した。それでも依然として疑問は残る。室戸中央病院の事務局長は「慶応医局から派遣されてきた」と断言したし、その後の歩みも常に慶応の影がちらついているのは事実だ。慶応のいずれかの医局が小坂の面倒を見ているのは間違いないだろう。同医局に所属するある医師は首をひねる。

 「北島先生が関係しているのかと思ったが、そうでないとすればリハビリ関連の医局かなあ。それにしても、医局から外れた医者の面倒を見るなんて絶対にあり得ない話ですよ。ひょっとすると、小坂先生は清水時代に何か慶応の弱みを握ったんじゃないか。そうとでも考えない限り……」

 謎は残ったままだ。 名医を失った清水市立病院が、その後どうなったかについても触れておきたい。名医のクビを切ったあとも、同病院では3件の医療事故(いずれも慶応医局の医者が絡む死亡事故)が続いている。さすがに市民も「真相」に気づきはじめたのか、外来患者は減り続け、ベッド利用率は70%前後。累積赤字は今年度25億円に。95%を記録した6年前とは隔世の感がある。

 現代の公立病院に課せられているのは一言でいえば、医療事故のない、市民が安心して通える市民のための病院づくりである。それなのに清水市は相変わらず建物、医療機器の投資に力を入れる一方、院長の重野氏は医者の派遣を求めて頭下げての医局回りに余念がない。近々「胆のう手術の初歩的ミス」で、これまた慶応医局の医者が裁判に訴えられそうだというのに、これでは相変わらず大学医局にバカにされるだけだ。市の職員が語る。

 「慶応医局に医者の派遣を頼んだところ、『小坂一人を守れなかった病院に、皆、行くのを嫌がっているんだ』って、言われたらしいですよ」 東海を暴れ回った清水の次郎長も、さぞや草葉の蔭で泣いていることだろう。
                                 (文中一部敬称略)



よねもと・かずひろ 1950年島根県生まれ。企業・教育問題から新興宗教まで、幅広く執筆活動を行う。著書に『カルトの子』(文藝春秋)ほか

 

 

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