でこぼこ工房の紹介

でこぼこ工房は、浜松にある小さな家内制手工業の木工のおもちゃ工房です。

工房をはじめる前は、僕は保育士として子どもと関わっていました。
こどもたちの大好きな絵本の主人公を組木にできないかと
現場で試行錯誤し作りました。
保育の中ではパズルだけでなく、人形劇としても遊べ、
お話作り・劇遊びへの導入にも活用できました。

そして、1985年からでこぼこ工房としておもちゃを作り始め、
ご注文くださったお客さまに直にお届けしたり、
掛川に「こちょこちょの木」というお店を開いたりして、
こうやって遊べるよなどとお話しさせていただきました。
同時に、おもちゃを使って下さった方々が、口コミで広げていただき、
そのおかげで、ここまでやってこられました。

2005年に、目の難病を患ってしまったので、
掛川のお店「こちょこちょの木」は閉めさせていただき、
おもちゃの製作はベトナムの若い職人達の手ゆだねることにしました。

しかし、現在は症状も落ち着いていますので、
ベトナムでの生産は終了とし、
また、浜松の自宅兼工房でニホンイシガメやニホンタンポポの飼育や栽培をしながら、
自分でコツコツ一つ一つ作り上げています。

このおはなし組木に使われているヨーロッパブナ材はビーチ材ともよばれています。
木も、人間と同じで、堅い木・柔らかい木、いろいろな色や木目、
一つ一つ個性があります。

塗装もしていない白木のままですので、ひとつとして同じものはありません。
感想や意見質問等ありましたら、メールをいただけたらと思います。

おめでたいお父さん  

===藤田浩子さんによる森島紹介 (でこぼこ工房「とらの巻」より抜粋)===

  アメリカのスト−リ−テラ−、フラン・スト−リングスさんと私のおはなし会に、
お子さんを連れた若い(?)お父さんがいらしたのです。
オメデタイお父さんだなと思いました。

 フランさんが、聞き手も参加する「ぎゅづめ家族」という話を語ったとき、
前のほうに座っていた聞き手の方々に、
大工さん、お婆さん、子ども、赤ちゃんになってください…
と順にお願いしていきましたら、
その若いお父さんに赤ちゃん役をやっていただくことになってしまいました。
 
 まあその赤ちゃん役の上手だったこと!
フランさんも大喜び。
そして私は、
なんのくったくもなく手足をばたばたさせ
ギャ−ギャ−泣いているその様子を拝見しながら、
これはいよいよオメデタイ方だと思ったのでした。 
 
 清水真砂子さんから木のおもちゃを作っていらっしゃる森島さんと紹介され、
おはなし会の後、清水さんのお宅でお茶をごちそうになっていると、
おつれあいさんやお子さん方と一緒にいらしてくださいました。
そしてあれこれおはなしをしているうちにますますオメデタイ方だということがわかり、
私はこの御夫婦に一目惚れしてしまったのです。
 
 私は森島さんが作られた組木は持っていますが、
森島さんがその組木を使いながら語られるのは聞いたことがありませんでした。
でも語り手としてだけでなく、このつちのこさんをまるごと仲間に紹介したい、
是非千葉県にお呼びしようとそのとき決めました。
私のかかわっている子育てサ−クルや幼稚園、
語りの仲間や図書館の方々と相談しながら、
森島さんに来ていただく準備を着々と進めました。
 
 森島さんは、努力や経験や繊細な気遣いを前面に出さないまま、
いかにもその場の子どもたちに合わせながら、
自分が一番楽しんでいるという雰囲気でおはなしを展開していきます。
合わせてもらった聞き手はみな喜びました。
私は私で、子どもたちをだまくらかしていくそのちゃらんぽらんさにすっかり魅せられ、
いよいよますますオメデタイ方だと確信した次第です。
 
 後日談・
 森島さんが魔法用の風呂敷を忘れ、
さっきまで着ていたうす汚れた(?)ジャンバ−を板にかけて、
魔法で組木を作ってみせました。
おはなしが終わり、
そのジャンバ−を着て車に荷物を運んでいた森島さんを見た
5歳の子が母親に言いました。

「あれね、魔法のジャンバ−なんだよ」。
森島さんが「着てみる?」とその子に着せてくれました。
今でもその子は、
魔法のジャンバ−を着たからなんでもがんばれると思い込んでいます。


 まる2日、森島さんについて回り、森島さんのエキスを吸い取ったつもりの私、
「ぞうくんのさんぽ」は何回も聞いたので完全に覚えたぞとばかりに、
子どもたちの前でやって見せました。

 かばくんに出会って、わにくんに出会うまではよかったのですが、
かめくんがのそのそ歩いていきなりぞうくんに出会ってしまったら
「寝るんだよぉ」。
そうそう一休みするんだったねと寝かせたら
「寝る前にあくびをするんだよ」とまた訂正されてしまいました。
わにくんの背中に登りつくまでも何回も訂正され、
たった1回しか見ていない子どもたちが、こんなによく見ていたのかとびっくり、
そこまで子どもたちを引きつけた、森島さんの力にもびっくり、脱帽でした。
 
 黙って出されりゃトンボだかヒコウキだかわからないようなものが、
森島さんの手にかかるとトンボに見えてくるし、
色も塗ってないただの木が生きているように見えるから不思議ですね、
と若いお母さんの感想。

 
 これぞだまくらかしの名人、偉大なる詐欺師。
子どもをだまくらかす術を日々磨いている私としてはまだまだ盗むものがいっぱい。

おもちゃが連れて行ってくれたヴェトナム

===「道徳と特別活動」2007年1月号(文溪堂)のエッセイより===

この夏、息子二人(高1・中2)と一緒に、男3人組でベトナムに行ってきた。

メコン川クルージングのツアーで、バナナのチップを試食してた時、
「どうですか?」とひとりの娘さんが袋入りの製品を持ってきた。
ベトナムの貨幣価値はどのくらいなのかと思い、
「いくらですか?」と値段を聞いてみた。

でも、まだ旅の初日でおみやげを買うには早いと思い、
丁寧に買う意志のないことを示したら、
娘さんは、がっかりしたように去っていた。

すると、息子達二人が口をそろえて突っかかってきた。
「失礼だよ。おとうは。」「『いくらですか?』と聞けば、
むこうは買ってくれるものと信じちゃうじゃん。」
「それなのに、聞くだけ聞いて買わないなんてさ」と。

また、ベンタイン市場で、息子の気に入ったスポーツバッグを、できるだけ安く値切って、
親父の交渉力を見せてあげようとした時のことだ。

3割ぐらい値切り、さらに1000ドンを値切り、
最後にもう100ドンぐらい値切ろうと商売の駆け引きを楽しんでいたら、
またしても「もう、充分安いのだから、良いじゃん!」
「ベトナムの人にとっては、100ドンだって貴重なんだから」と・・・、
またまた息子達に水を差された。
そういえば、1000ドンは8円だし、100ドンは1円にもならないのだ。

さて、なぜベトナムなのか。
実は、僕がべ−チェット病という失明するかもしれないという難病を患ったからだ。

僕は保育園に勤めていた時、
子どもの好きな絵本の話を組木にしたらおもしろいかなと思い、
自己流で木のおもちゃを作り始めた。
その後、でこぼこ工房として独立し、制作・実演・販売をしてきたが、
こんなにも長く続けることが出来るなんて夢にも思わなかった。

作っているおもちゃに自信があったわけではなく、
こんなおもちゃもあってもいいかなくらいで作り始めただけだった。
口コミを頼りに販売をしてきたのは、このおもちゃが良ければ続けられるし、
注文が来なくなれば存在価値がないのだからやめればいいと思ったからだ。

でも、手作りということだけで、こんな値段で売って良いのか?
また、求めてくれたお客さんが、すぐに飽きたり、がっかりしたらどうしよう?
良いおもちゃ、悪いおもちゃの基準って何だろう?

そんな、信念がないままの悩みを抱えてのスタートで、
その悩みを引きずり解決できないまま20年が経ってしまった。

案の定、そんな精神の元では、病苦がやってくるのだろう。
難病と医者から言われたときは、妙に納得してしまう自分がいた。

しかし、失明したらどうやって生活していくのだ。
木のおもちゃ制作以外にお前のできることはなんなのだ。
おまえはそれしかやることがないじゃないか!
やれる仕事があるだけでも十分ではないのか?
全部とはいわないが、喜んでくれる人もたくさんいたんじゃないか!

ここまでやってこられたのは自分だけの力でなく、
口コミで応援してくれた人や家族がいたからではないのか…。
この先の仕事をどうするか悩んでいた自分に、
人を信じ、もっと人を頼りにしなさいということかもしれないと思った。

そんな時に、縁があり、ベトナムでのおもちゃ制作の話が浮上したのだった。

そして、旅の最終日には依頼をお願いするベトナムのおもちゃ製作工場に寄ってみた。

清潔な大きな工場には、息子達と同じぐらいの若人たちがもくもくと働いていた。
30年程前の日本の高度経済成長の集団就職の若者を思い出してしまった。

あの頃、ベトナムは戦争の最中だった。
その中で、この子達のお父さんやお母さんは何とか生き延び、
そしてこの子達の「いのち」を産みだし育てあげたのだろう!
ベトナム戦争のことは、毎日のようにニュースで流れていて知っていたが、
何も出来ない何をしたらよいか分からない自分がいた。
そのことが、ずーっと胸に引っかかっていた。

そんな工場内で、作ってもらうおもちゃをよく知ってもらうために、
おはなし組木人形劇を始めた。
そのとたん、単なる切り抜きのパズルが、
ストーリーにして遊べる意外性にびっくりしたのか、
笑い声が響き、僕とベトナムの人たちとの間が一気に縮まった気がした。
人なつこい明るいベトナムの若者に
自分のおもちゃの制作を託すことにしようと心から決心がついたのは
その時だったかもしれない。

病気が、僕の悩んでいた人生の後押しをして、
ボクの青春と重なったベトナムとつながることになり、
人生はおもしろいなと感じた旅だった。

絵本(おはなし)にヒントをもらった人生

==「大阪国際児童文学館を育てる会」の会報より==

「ヤッタ−」
何でこんなに嬉しいんだろう?
ただ、道路を横断しただけなのに、自然と笑みがこぼれている。
ベトナムの道路はバイクで道が覆い尽くされている。
バイクの途切れるのを待っていたら、
夜中になっても渡れないだろう。
その道を覆い尽くすバイクの海の中に飛び込み、
そして渡りきった僕は
ドーバー海峡を渡りきった大貫さんか、
パンツが初めてはけた「はけたよはけた」のたつ君だった。

僕は何かあると、自然と絵本をいろいろ思い出してしまう。
そして絵本から多くのヒントをいただいた。

保育園で保父をしていた時に
もっと楽しく水と遊べる方法はないのかと悩んだときも
「ぞうくんのさんぽ」「ももたろう」「おおかみと七ひきのこやぎ」などのお話を
プールでいっぱいごっこ遊びをして楽しんだ。
お話しの主人公になりきり、
水の中でも楽しく遊べる様になると、
水への恐怖心から解放されていく子供達がいた。

おはなし組木の誕生も、
単なる組木パズルだけではなく
もっと面白くできないのかと悩んだ時、
こどもたちの大好きな絵本に動物がいっぱいあるのに気づき
作り始めたのがきっかけだ。
子供達はパズルだけでなく、
人形劇としても遊び始めていった。

おはなし組木を作り続けて20年が経つが、
こんなおもちゃもあっても良いかなと思うぐらいだったので、
口コミ販売を頼りにひとりで作り続けてきた。
しかし、2年前に、
失明の可能性があるといわれる難病になってしまってからは、
ベトナムでおもちゃを作ってもらうようにした。

そこでは、
ベトナム戦争をのりこえてきた親たちから授かった命が育ち、
その若者たちが製作に励んでくれている。
そのことに感謝し、
いつか、
ベトナムの話を『おはなし組木』として作り、
ベトナムの文化を紹介できたらと思う。

何かあると、ふと思い出す絵本。
僕にとって絵本やおはなしは
生き方のヒントをもらったり、
幼い頃を振り返らせてくれるガイドです。



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