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会報 No.12-2002/09/30●(資料2) 清水市長 宮城島弘正様前略、突然のおたよりをお許し下さい。 亡き妻の葬儀の際にはご出席下さってありがとうございました。前々から市長に話したとおり、私は現在90歳になります。昨年1月に当時78歳の妻はるを清水市立病院で突然亡くしました。そのために、それまでの生活を維持することが不可能となり、不本意ながら今年3月に自宅を引き払い、4月から施設を転々と渡り歩く不安定な生活を余儀なくされています。 このような生活をすることになったきっかけは、妻はるの無念の死でした。その突然の死に対して、入院していた清水市立病院と、主治医だったH医師の対応は、私にとってまったく納得できるものではなく、心やすまることなく、つらい毎日を送ってきました。 つきましては、妻の死のことで、私に対し誠意ある対応を促すよう市立病院の管理責任者である宮城島市長に直接お願い申し上げる次第です。 <遠藤はる入院に至る経過> 妻はるは持病があって、清水クリニックで透析をしていましたが、まあ普通 に生活できている状態でした。ところが外でころんだため、清水市立病院へ行 きました。その結果、あばら骨を折っており、1ヶ月くらいでくっつくからと 入院をすすめられ、平成12年12月11日頃、6階内科病棟に入院しました。 <入院中のこと> 妻はるは、静岡赤十字病院へ転院を予定していた日に突然亡くなるまで、44日間入院していました。入院中、食事も水もなく、栄養剤のみ与えられていました。私は毎日5時に起床して、6時10分には救急入り口から入り、夕方6時頃帰宅するまで妻の看護に努めました。 入院して間もなく栄養剤を入れるために、右の喉の横に3本くらい管が入れられました。それでもかすかに声が出ていました。妻が自分でその管を抜かないように、夜、両手を縛られ、涙を流していました。それで私は帰宅する時、ベッドに「ゆるくして欲しい」と看護婦あてにボールペンで書いていました。 妻はどんどん容態が悪くなり、帰宅を強く望み、怖い怖い恐ろしい先生だと私は妻から、かすかな声で聞かされました。この他、種々あって言葉にはつくせませんが、埒があかないため、宮城島市長に電話でH医師を交替させるよう申し出ましたが、かないませんでした。 <転院予定当日の突然の死> 入院中、納得いく治療を受けられず、H医師の交替もかなわなかったため、 平成13年1月23日に、私は静岡赤十字病院へ転院させたいと申し出ました。妻はる本人が、生きることを強く望んでいたからです。その結果、翌1月24日に静岡赤十字病院へ行くことになり、病院側は市で連れて行くと言ってくれました。 転院を申し出て、それが決まった23日夜に、K医師、H医師、婦長がテーブルにつき、こちら側は私の友人、知人5人が話し合いに出席しました。婦長が白紙の用紙を提示し、その用紙に確かに退院して静岡赤十字病院へ移しますという内容で承諾捺印させられました。 ところがその話し合いが終わって、私が病院から帰宅した数時間後(まだ床に着く前)、1月24日未明(午前2時半頃)、知人であり常日頃世話になっていて、転院の話し合いにも同席していた滝間俊成議員の奥さんから「遠藤はる危篤」の知らせを受けました。すぐにその奥さん運転の車に乗って、清水市立病院6階の妻はるの床に行ったところ、本人は苦しみ、もだえ、事態は無念の有様で、病院側の言葉は何もありませんでした。 H医師は妻はるの心臓が止まるのを見ていました。折角転院の段取りをした静岡赤十字病院へ行く用がなくなってしまいました。転院についての話し合いに同席していた婦長らからも何の音沙汰もありませんでした。
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