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会報 No.12-2002/09/30

(資料2)

<納得できない対応>

 妻はるの死はあまりにも突然で、私もただただ呆然とし、何が起きたのか、なぜ妻が急に亡くなったのか、その場に居合わせたH医師や看護婦に訊いても、誰からも私に納得がいく説明がありませんでした。
  気持ちの整理がつかないまま葬儀の準備が進み、葬儀には市長も参列して下さいました。  
  葬儀が終わり、片付けが落ち着いてから、私は妻の主治医だったH医師のことについて市長に度々電話を掛け、その度に秘書課長が対応しました。それで葬儀から1ヶ月くらいたって、市長の部屋で、市長、秘書課長、病院の課長と私の4人で話し合いました。その時は、秘書課長が私を自宅まで迎えに来てくれました。市長は私の話を受けて、病院の課長に、
「Hはどうして来た?」 と、聞きました。それに対して、病院の課長は、
「慶應病院の者です。東京から来ました。」 と、答えました。私は、
「H本人を県外に出して欲しい。」 と頼みました。市長は、
「返事をするから、遠藤さん、4、5日待って欲しい。」 と、言いました。  
  そして、3月末日で、H医師は清水市立病院から異動しました。

<主治医捜索>

  しかし、H医師を病院から追放したものの、日が経つに連れ、H医師に私の気持ちを伝えたいと強く思うようになりました。妻と会話できる状態から、たった数時間で死に至った原因を私は知りたいし、容態の急変についての対応についてH医師に反省と、私に納得できる説明をして欲しいことと、患者に対して思いやりを持って欲しいことを私は強く望んでいます。このことは私のためだけではなく、H医師のためにもこのままにしておくことはできないと私は考えました。
  そこで清水市立病院を辞した後のH医師の行き先を事務部長に尋ねたところ、事務部長は、医師の行き先、住所等は相手が市長と言えども教えることはできないと繰り返し主張。「できない」の一点張りでした。
  結局、私はH医師を捜すため、数ヶ月間を要しました。そして、捜索にかかった経費は通信費など、私の身分をはるかに越えたもので、およそ20万円かかりました。そして、私独自の捜索の結果、H医師の行き先が明らかになりました。

        H医師(1998年、北里大学卒業)
        神奈川県相模原市麻溝台2−1−1
        北里大学東病院、消化器内科
        TEL042−748−9111
       

  そして私は、H医師宛てに手紙を出しました。しかし、平成13年12月22日付、平成14年2月4日付、平成14年4月23日付の通信に対し、本人からの返事はありません。

<まとめ>

 以上の経過で、私、遠藤五郎は60年連れ添った妻はるを清水市立病院で亡くしました。その突然の無念の死に対するH医師と病院側の対応に納得できずにいます。H医師には、私の気持ちを理解し、亡き妻に対する不手際を認めて謝って欲しいと強く望んでいます。私も高齢で、いつまで元気でいられるかわかりません。限られた人生を亡き妻の供養のために悔いを残したくないのです。 H医師と清水市立病院に誠意ある対応を促すよう宮城島市長に重ね重ねお願い申し上げる次第です。

   平成14年9月9日                 遠藤 五郎

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