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「乳がんは清水の風土病事件」をくい止める原動力となった

ルポライター米本和広氏の訃報に接し     
                           2026年8月12日
                   


 しばらく前に、ネット上で米本和広氏の訃報を知りました。記事では昨年亡くなっていたとのこと。即座には信じられず真偽を確認できずにいました。

 「清水病院と清水厚生一体運営」報道をお伝えしたく、ご家族にお便りを差し上げたところ、お電話をいただいて経緯を教えていたくことができました。

 2022年7月、山上徹也騒動があって、その後に体調を崩され、翌年春に松江から埼玉へ戻られて、2025年10月22日にご家族に見守られて老衰で亡くなられたとお聞きしました。74歳だったとのこと。山上騒動1か月後、2022年8月に亡くなられた近藤誠医師と奇しくも同じ享年でした。  

 米本氏は私と出会う前に、抗がん剤の取材を通して近藤誠医師とはつながりがありとても尊敬されていました。私が近藤医師の訃報を知って、米本氏に電話でお伝えした際、突然亡くなられたことに大きな衝撃を受けていました。その1か月前に山上騒動でしたから衝撃が重なって体調を崩されても無理はない成り行きでした。

米本氏との出会い  
 1998年8月、清水病院被害者として取材を受けたのが米本氏との出会いでした。同じ小坂医師被害者元原告久保山さんと2人で応じました。私たちの話に先入観をもたずまっすぐ受け止めてから質問攻めの厳しい取材でした。
 当時は多くの被害者や病院関係者からも声が届いていたので、それらも伝えるうちに5時間近くを費やしました。

 取材後、米本氏は、「はまった、カルトだ」とおっしゃって、予定の1か月分の原稿を2か月分に変更することをその場で出版社に電話していました。 
 その後、何人もの取材を重ねて発刊されたルポが、「訴訟5件を抱えた病院が「いい病院?」」(「いのちジャーナル」1998年11月)・「あの市立病院にしてこの乱暴医療」(「いのちジャーナル」1998年12月号)でした。   

 それ以前に病院へ取材を申し込んだが断られたと聞いています。

 その後、
「ひどい病院が噂にならないわけ」(「いのちジャーナル1999年2月号」)
内部告発!「危ない」医師たちが巣くう清水市立病院のデタラメ医療(『別冊宝島452病院に殺される!』1999年8月)
院長通達反論
2000年2月「静岡市立清水病院から被害をなくす会」設立に至る
内部告発!「危ない」医師たちの巣くう清水市立病院のデタラメ医療文庫版(『別冊宝島社文庫657』2000年6月) 
追跡ルポ虚像の名医乳癌を切りまくった医師に問う(月刊現代2003年1月号)
寄稿『判決の真実』(2004年3月18日付竹下裁判地裁判決を受けて会のHPに寄稿)
 米本氏のペンの力が小坂医師を退職に追い込み乳がん手術被害をくい止める原動力になりました。数えきれないほどの被害をくい止めることになったのです。

竹下裁判において
 DNAと病理の鑑定結果を数か月待っている間、静岡の弁護士から東京の弁護士2人に替えることができたのは、弁護士のことで悩んでいることを米本氏に相談した結果でした。
 竹下裁判判決に大きな影響を及ぼした清水病院提出のがん標本のDNAと病理鑑定の順序が逆転した要因が、前任弁護士の問題の一端でした。

 私と同じように病院で被害に遭い、その後弁護士の被害に遭った人たちを取材した米本氏のルポが「別冊宝島Real028・モンダイの弁護士」(2002年2月)に掲載されました。

 東京の弁護士たちに替えてからは頻回の打ち合わせに、米本氏と近藤誠医師がまったくの無償で交通費も受け取らずに出席し続けて下さいました。  
 清水病院の被害実態を知った責任と弁護士紹介責任を果たすお二人の姿勢には心からの感謝の気持ちでいっぱいです。打ち合わせ後、3人で食事をしたことがなつかしく思い出されます。

 裁判の結果は残念でしたが、清水病院での出来事は到底想像もできない、他人に話して信じてもらえるような内容ではなかったため、米本氏と近藤誠医師に出会えていなければ、あきらめざるを得なかっただろうし、被害をくい止めることは到底できなかったと思っています。

会設立・ホームページ立ち上げ
 裁判と並行して2000年2月に米本氏と近藤誠医師をお招きして当会を設立。会のホームページも米本氏がお知り合いに作成を依頼して、その後は独り立ちを促され、その後も事あるごとにご指導いただき鍛えに鍛えられて今に至っています。

 2020年は会設立20年でしたが、コロナ禍で何もできずに過ごしたため、2025年には25周年を米本氏と近藤誠医師と10周年の時のようにお祝いできるといいなと思っていたのに本当に残念でした。お二人とも早すぎます。

ペットのこと
 米本氏も近藤誠医師も心の支えはペットでした。
 米本氏はお母様の介護で松江へ転居された際は、猫ちゃんを寝台特急で連れていくための工夫をしたり、ブログにもペットのことを載せていました。それをご覧になって、近藤誠医師が二人あてにメールをくださったことがありました。

 <一緒に活動していたのが昨日のように思いだされます。
米本さんのブログをみたら、ワンちゃんを飼い始めたようで、安心しました。
猫ちゃんも大切に。近藤誠(2021年9月7日付)>

 お二人ともそれぞれ唯一無二の存在でした。2013年に米本氏が大腸がん手術で松江の病院に入院されていた時、近藤誠医師がお見舞いに東京から焼酎を持参された話はなつかしく思い出されます。

安らかに
 「被害者を信じろ」・「知った責任を果たす」、米本氏がよくおっしゃっていた言葉です。お疲れさまでした。どうぞごゆっくりお休み下さい。
 心からの大きな大きな感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
 どうぞ安らかに、心からご冥福をお祈り申し上げます。
お二人が遺して下さった資料を活かすべく、これからもがんばっていきます。

                     竹下勇子(2026年8月12日)
                 サブタイトル加筆(2026年8月16日)
                   

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