『月刊いのちジャーナル1998年12月号(14〜26ページ)』(さいろ社)
●あの市立病院にしてこの乱暴医療
取材・文 米本和広
慶応大学病院の近藤誠氏が抗がん剤とがん検診の無効性、危険性に警笛を鳴らしてから、世論は少しばかりだが変わったように思う。医者たちが「私ががんになったらこんな治療を受けたい」と本音で発言するようになったのがそのいい例である。自分たちが日常行なっている治療と自分が受けたい治療は別だというのだからおもしろい。
「だったら、自分が受けたい治療を患者にも施すべきだ」と反発する人もいるだろう。だが、スーパーの鮮魚コーナーのパートタイマーが自分で魚を買うときには他の店に行くとか、市場に出荷する農薬づけの野菜を農家の人たちは絶対に口にしないといったことはよく聞かれる話だ。建前と本音の違いは、医療だけに限ったことではない。
これらのことから導かれるのは、店舗の良し悪しを見分けるには従業員が自分の店で品物を買っているかどうか調べればいい、ということになる。病院とて同じである。看護婦が病気になったときに自分が勤務する病院でかかるかどうかで病院の良し悪しも決まってくる。
「乳がんにかかったら、絶対に他の病院で治療を受ける。うちの病院で手術を受ける看護婦はおそらくゼロでしょう。だって、手術が下手で、傷跡がケロイド状になって残ってしまうからです」(写真)
こんな空恐ろしいことを看護婦が話す病院はいったいどこか。前号で紹介した、財団法人・日本医療機能評価機構が質の高い病院として認定した清水市立病院(病床数500)である。同病院は多くの医療過誤訴訟を抱えていただけでなく、なんと看護婦が病気になっても利用しない病院だったのだ。
清水市立病院の信じがたい実態と、なぜ看護婦がそっぽを向くような病院になってしまったのか、その原因を解きあかす。
上半身裸で"名医″を待つ
友田紀子さん(仮名)は今年の1月16日(金)の夜、右の胸にしこりがあるのを見つけ不安になった。さっそく休み明けの月曜日(19日)に清水市立病院を訪れた。看護婦の指示に従い、上半身裸になってベッドに横だわっていると、乳がんの”名医″、副院長の小坂昭夫氏が入ってきた。
待合室の〈乳腺外来受診時の注意事項〉にはこう書かれている。(1)順番待ちをしている時、上衣を脱いで待つこと、(2)診察時は上半身脱いでベッドに横になってください、(3)診察終了後はなるべく早く衣類を着て、次の人と交替してください。
どういうわけかわからないが、小坂氏は全国レベルでは無名の医師なのに、静岡県内では乳がんの名医とされている。地元のけんみんテレビで何度か、乳がんについて話したことから、いつの間にかそのようになったらしい。加えて「市立病院」という安心感もあって、乳がんを心配する清水市周辺の女性たちのかなりが小坂氏のもとを訪れる。そのせいで乳腺外来はいつも混む。それをさばくために、どの病院でもやっている、問診してから服を脱ぐというまどろっこしいことはやめて、最初から裸になって小坂氏を待つという仕組みにしているのだ。患者の羞恥心よりもスピーディな処理のほうが大切というわけである。
小坂氏は友田さんに問診をすることなくいきなり触診し、「レントゲンを撮るから明日くるように」と話した。翌日、レントゲンと超音波検査(エコー)をし、22日に再び小坂氏の診察を受けた。小坂氏はレントゲンの写真を見ながら、こう語った。
「白いぶつぶつしたものが気になるなあ。あなたの場合放っとけないから細胞診をしたほうがいい」
細胞診とは注射針で細胞の一部を吸い取り、がん細胞があるかどうかを調べる検査だ。27日に同じ外科医の四方敦氏が「おそらく違う(がんではない)と思うよ」と言いながらこの検査を行なった。四方氏がそう語ったのは、友田さんが胸の痛みを訴えていたからだ。乳がんの場合ふつう痛みをともなうことはないからである。
29日、友田さんは検査結果を聞くために、小坂氏の診察を受けた。3度目である。
「結果はシロ、なんともない」と言ったあと、こう付け加えた。
「ぼくの長年のカンからすれば、移動性、流動性のがんですよ。がん細胞が動いているため、針を指したところになかっただけのこと。1ヵ月後にもう1回(細胞診を)やりましょう」
医学知識のある人が聞けば、おそらく爆笑ものである。しかし、友田さんはこの話を聞いて足が震えた。〈がん細胞が流動的になっている? どうしよう〉
1ヵ月後の細胞診の結果もシロだった。小坂氏は再び語った。
「長年の経験からすると、放っておける状態ではない。入院して生体検査(生検)で深く組織を切り取って調べてみましよう」
この頃になると、友田さんは平静さを取り戻し、2年前にこの病院の元看護婦から聞いた話を思い出した。
「小坂先生の手術は下手で傷跡がケロイド状になる。手が上がらなくなってしまうという後遺症も残る」
移動性のがん″は大ウソ
こんなときに、前号で触れた、医療過誤で清水市立病院を訴えている竹下勇子さんの存在を知った。電話をかけると、違う病院で1度診てもらったほうがいいという。そこで、静岡県立総合病院(県立総合)に出向いた。移動性のがんのことを話すと、医者は爆笑した。
「移動性のがんなんて初めて聞く病名だなあ。ハハハ。いったい、どこの病院でそんなことを言われたの? ハハハ」
深刻に思い詰めていた友田さんは戸惑った。
対応は清水市立病院とまるで違った。
いきなり裸にさせられるのではなく、丁寧な問診をしてリラックスしたあと、「包み込むようなやさしい態度」で触診を受け、レントゲンを撮った。写真を見ながら、医者はつぶやいた。
「なんで、これで乳がんと診断したのか」
すっかり元気を取り戻した友田さんがしみじみと話す。
「細かい話のように思われるかもしれませんが、清水市立病院は最初から裸で診察を受けるでしよ。恥ずかしいから症状を細かく話したり、疑問点を口にすることができません。あのままあの病院にかかっていたら、乳房は切られていたのではと想像するとゾッとする。乳がんではないのに胸を切られた人もいるのでは……」
同じレントゲン写真を見て、清水市立病院の名医は白いぶつぶつを気にかけて、”移動性のがん”を疑い、県立総合の医者はなんともないと診断する。竹下さんや、同じく医療過誤で清水市立病院を訴えている久保山甲三さんたちが「乳がんでないのに切除された人もいるのではないか」と疑うのは当然だろう。
県立総合の医師が95年に富士市で乳がんについて講演したことがある。それによれば、静岡県内の乳がんの症例数は年間で600人。内訳は静岡市(人口48万人)が90、浜松(54万人)が97、沼津(21万人)が50、富士(22万人)が45という。症例数はほぼ人口に比例している。
これに対して、人口24万人の清水市の市立病院の乳がんの手術件数は、76件(90年)、85件(91年)、80件(92年)、90件(93年)、80件(94年)、82件(95年)となっている。人口が2倍の静岡、浜松市なみ、異常に多いのである。
1度、竹下さんの車に同乗し病院の周辺を走ったことがある。竹下さんが説明してくれた。
「あそこのガソリンスタンドの奥さんも乳がん、その向かい側のスタンドもそう。その裏側に住む人も。ほら、あそこのコンビニの奥さんもそう。ここのスーパーの奥さんは1度に両方の胸を取られ、後遺症のせいで、レジが打てないそうですよ」
まるで病院の前の通りを”乳がん通り”と名づけていいほど、乳がん患者だらけだった。
患者を「流れ作業」でさばく
竹下さんたちが調べたところによると、竹下さんがそうだったように、初診から手術を受けるまで患者に考える暇を与えないほどのスピーデイ、ベルトコンベア式に処理されていることがわかった。【表1】はその調査の一端で、4人とも初診のすぐあと検査入院し、その日にがん告知を受け、2週間以内に切られている。組織をえぐり取ってがん細胞があるかどうかを調べたのだから診断に間違いはないだろうと思われるかもしれないが、生検の場合、迅速診断と永久標本があり、前者は10〜20分、後者は5日程度で結果が出る。清水市立病院の検査も担当する病理医の堤寛氏(東海大学医学部)によれば、
「僕たち病理医は迅速診断はやってほしくないと思っています。というのは、迅速診断は永久標本に比べ、がん細胞の微妙な判定が難しい場合があるからです」(第9回イデアフォー総会での発言)
という。簡単にいえば迅速診断では良性腫瘍を悪性腫瘍と見間違う可能性があるということだ。
【表1】清水市立病院を受診した、93年の乳がん患者4人の初診日から手術日までの推移(清水市立病院医療過誤訴訟の原告団長・竹下勇子さんの調査による)
Aさん Bさん Cさん Dさん
初診日(触診/レントゲン/エコー)9月7日 10月19日 11月2日 11月17日
生検(しこりをとる) 9月8日 10月20日 11月4日 11月25日
がん告知 9月8日 10月21日 11月4日 11月25日
入院日
9月8日 10月20日 11月4日 11月25日
手術日 9月22日 11月1日 11月17日 12月3日
ある事務職員が明かす。
「放射線科の医者から聞いた話です。3〜4年前のことですが、放射線治療を受けに来ていた患者さんのうち3人が良性を悪性と間違われて手術を受けた人でした。永久標本を見て、わかったそうです」
これが事実であれば、小坂氏たちは切らなくてもいい乳房を切除していたことになる。刑法でいえば過失傷害罪にあたる。
清水市立病院の誤診については小坂氏に限った話ではない。あとでもう1度具体例を出して説明するが、先に「名医」の執刀ぶりを紹介しておく。
乳がん患者の多さもさることながら、清水市立病院で驚かされるのは乳がんを摘出するのが小坂氏ただ1人ということだ。
日本の一般病院は民間を含め8519(『地方公営企業年鑑ト病院編』、95年10月現在)あり、500床以上を誇る病院は449ある。500床の清水市立病院は自治体病院の中でも大規模病院といってもいい。それなのに乳がんを摘出するのは小坂氏ただ1人なのである。齢54で副院長にして外科科長。指導的立場に立って若手医師に執刀を任せてもいいはずだ。「各領域の専門医が、主にその領域の医療に携わることは当然のこと」という清水市立病院のコメントは一般論としてはわかるが、小坂氏1人が3日に1回せっせと乳房にメスを入れる構図の答えにはなっていない。
くらべてわかる不器用さ
遠山薫さん(仮名)が話す。
「気持ち悪かったですよ。だって、小坂先生はニコニコしながら嬉しそうに乳がんですよと言うんですから。すぐに県立総合に移りましたよ」
元看護婦の証言もこれを裏付ける。
「乳がんの患者が来ると、先生はまた手術ができると言わんばかりに喜々としていた」
こうした情報が入るからなのか、職員の間では「小坂は乳房フェチ(乳房を見ると切りたがるフェティシズム)なのでは」と囁かれているという。しかし、乳房フェチであっても手術の腕が確かであれば、文句を言う人はいまい。ところが、これが不器用ときている。元看護婦が証言する。
「縫い方がバッバッバツと雑なんですよ。ですから皮膚がなかなかくっつかない。術後に縫ったところが裂けてしまうこともしよっちゅうありました。また、多めに切り取るから、肉が盛り上がり、傷跡がケロイド状になってしまう。乳房の形を損なわないはずの乳房温存療法でもそうなんです。看護婦の間では乳がんになったらよその病院に行くというのは常識になっていました」
小坂氏は91年頃には否定的だったはずの乳房温存療法を93年から積極的に行なうようになった。誰かに指導を仰いだ形跡はないからテキストをもとに見よう見まねでやっているのだろう。その結果が、看護婦も逃げ出す、乳房の形が崩れてしまう特殊”小坂流乳房温存療法”となったのだ。
傷口がくっつかないというのだから、患者の入院日数も当然長くなる。通常、乳がんの入院日数は2〜3週間程度だが、小坂氏の患者は2〜3ヵ月にも及ぶ。複雑骨折なみの117日間入院という患者もいた。慶応大学の近藤誠氏によれば、「アメリカなら専門医の資格を剥奪されるでしようね。慰謝料請求? うーん、アメリカなら裁判になると思いますよ」という。
執刀するのは小坂氏だけ、傷跡も入院の長さも同じだから、小坂氏の手術が下手かどうか患者にはわからない。ところが、日赤外科部長を務めたこともある東泉東一氏が開業した東泉クリニックが同じ市内にあり、手術が必要な患者が来ると、東泉氏は執刀する場所として清水市立病院を利用する。開業医が総合病院の施設を利用して手術を行なうのはそれほど特殊なことではないという。
東泉氏が執刀した患者も当然清水市立病院に入院する。
そこで、東泉氏の患者と小坂氏の患者が対面することになる。「ゲッ!ウソッ、どうしてそんなにきれいなの」。小坂氏の患者はショックを受ける。再び元看護婦の話。
「ですから、東泉先生の患者と小坂先生の患者を一緒にするなという指示が出されたことがあります」
同病院の内科医も外科医には不信感をもっているようで、内科にかかっているがん患者が手術が必要になったとき「よその病院もありますよ」とそれとなく患者に転院を勧めたことがあっだ。「それがもとで一時期外科と内科が険悪な関係になったことがあります」と内科の看護婦は証言する。
「膵臓がん」はバイ菌だった
話を誤診に戻す。
清水市立病院の誤診には3つのパターンがあるようだ。1つは友田さんのように病気ではないのに病気とされるケースだ。〈無なのに有〉とでも表現できようか。もう1つはその逆で〈有なのに無〉というケースだ。3つめは他の病院でも多い医者の力量不足からくる判断ミス、治療ミスだ。
1つ目の〈無なのに有〉の実例について、先の友田さん以外にもいくつか紹介しよう。
Aさんは93年に清水市立病院で「初診の翌日が検査、その翌日にはもうがん告知」というベルトコンベア式で乳房を全切除された。「当時のことを振り返るとほんとうに乳がんだったのか」といくつかの具体的材料をあげて不信がるが、これについては割愛する。
この病院ではいったん手術を受けると、退院しても本人が辞退しない限り、アメリカでは意味がないとほぼ結論づけられた再発検査が半永久的に続く。2ヵ月に1回の血液検査、3ヵ月に1回の触診、6ヵ月に1回のエコー、CT、レントゲン、骨シンチグラフィの検査である。退院する患者に小坂氏が話すのは決まってこうだ。
「3ヵ月後にまた先生におっぱい見せてちょうだいね」
Aさんは97年1月22日に「エコーで見ると膵臓が腫れている」と言われた。翌23日にかかりつけの開業医にそのことを話すと、エコーの画像を見ながら「何ともないよ」。その2日後に再び清水市立病院を訪れると、外科医はこう言った。
「ぼくは膵臓がんだと思いますよ。取ってみて良性だったら良し、悪性だったらなおのこと良しでしよ。今ここで入院を決めてくれたら、早く処置ができます」
Aさんは目の前が真っ暗になったが、また開業医で診てもらったところ、「肝臓、腎臓、膵臓いずれも何ともないですよ」
Aさんはきつねにつままれたような気分になった。その開業医に今度は清水市立病院の内科に紹介状を書いてもらった。CTの結果を見ながら、内科医は話した。
「ぼくだったら、膵臓がんとは言いません」
Aさんは静岡国立病院で再度検査を受けた。
「これで腹を切られたら大変だった。たまったもんじゃないな」
Bさん(男性)は耳が腫れたため、耳鼻科に行った。初診でがんと診断され、手術を勧められた。ショックを受けたBさんは念のため清水厚生病院で診察を受けた。
「バイ菌が入っただけです」
3度目の救急車
2つめの〈有から無〉のケースはこうだ。
Cさんの夫は会社の検診で貧血気昧との診断を受けた。95年5月のことである。内臓のどこかで出血しているのではと清水市立病院の内科で精密検査を受けた。胃カメラの結果は「中は荒れている。かたまりのようなものがある」。2週間後の大腸スコープ検査では「ポリープが2個あるが、問題はないでしょう」だった。増血剤と胃薬が処方された。その後も調子はすぐれず、何度か通った。便に鮮血があったとき、医者はこう話した。
「1年間で貯金(血液)が増えたね」
増血剤で血液が増えた結果が便の鮮血になってあらわれたと言わんばかりだった。2年後の97年の5月に再度大腸スコープで中を覗いたときも、「ポリープが相変わらず2個あるだけ」。疑問に思ったCさんの夫は静岡の済生会総合病院に行った。
すぐに緊急手術となった。Cさんが話す。
「開けたらひどい状態ですでに手遅れ。末期がんでした」
Cさんは現在、清水巾立病院を訴えるぺく準備に入っている。
Dさん(男性)は97年10月29日の夜、頭に急激な痛みを感じ、救急車で清水市立病院に運ばれた。当番の若い内科医はCTを撮らず血圧を計っただけで、風邪と判断し、飲み薬をくれた。ベッドでしばらく休むと、症状は収まった。家に帰るように言われたので、タクシーで帰宅した。再び、頭痛がひどくなり、救急車を呼ぶとともに、病院に連絡した。看護婦がそのまま様子を見るようにと指示したため、救急車は帰ってしまった。深夜、Dさんは吐き、痙掌を起こした。三たび救急車を呼び、今度は脳外科の医者に診てもらった。CTを撮ったところ、中は血だらけ、蜘蛛膜下出血だった。10日後にDさんは亡くなった。
3つ目の「判断ミス、治療ミス」は前号で紹介した5件の裁判のいずれもがそうである。
「今日は検査が少ないなあ」
乳がん患者の多さ、名医・小坂氏の手術の不器用さ、目立つ誤診などのほかに、清水市立病院には際立った特色があと2つばかりある。
元看護婦が証言する。
「どこの病院でもそうでしょうが、毎朝先生方が集まってミーティングするでしょ。小坂先生の声がドア越しに聞こえてくるんです」
〈今日は検査が少ないなあ。もっと入れるようにしてくれ〉
〈今日は胃カメラが何人だ? ちょっと少ないんじやないか〉
元看護婦が話を続ける。
「頭が痛いという方がくればCT、肩が痛いといえばMRTJ。先生の茶坊主のような1入の若い医師が嬉々として検査実績をあげているけど他の外科医は白けている。それでも先生がハッパをかけると検査のオーダーを出さなければならないようです」
検査づけによって収入をあげるのは個人病院ではよく聞かれる話だ。どうして、自治体病院でそういうことが行なわれるのか。
それは89年の、この病院の移転増築に原因があるように思われる。これによって清水市立病院は病床数が2倍の500床となり、大規模病院の仲間入りを果たした。ところが、建築中はバブルの真っ最中、完成したときはバブルが弾けたとき、当然のことながら赤字を背負いこむことになった。こういうときには赤字減らしの先陣を走る人間の発言力が増す。手術が不器用であっても小坂氏が批判されないのは、彼が病院の収入に貢献しているからということではないのか。
手元にある資料をめくると、95年度の前年度繰越欠損金はH億円。この年に1億円の純利益をあげ、欠損金を10億円に圧縮している。96年度は4億円近くの純利益をあげ6億円に圧縮し、97年度は2億円の純利益を計上し4億円に圧縮した。このままのペースで推移すれ2000年度には赤字は一掃されそうだ。
収入アヅプは過剰な検査ばかりではなく、ベッドの効率的な運用も功を奏している。語るのは元入院患者だ。
「金曜日になると、明日、明後日は先生方もいないから外泊なさって結構ですと、看護婦さんが言いに来るんですよ」
別の入院患者も笑いながら振り返る。
「正月休みに入るとき、看護婦さんばかりか先生たちも説得に来る。『年末・年始は自宅でのんびりするように』って。家族は何かあったら大変だと当然反対しますよね。そのことを話すと、お医者さんはこう言うんです。『家族を連れてきなさい。ぼくが説得してみせます』」
すべて婦長の采配だというが、休日の入院患者が少なくなればそれだけ職員は少なくてすむ。
職員が怒った調子で話す。
「土日には治療は行なわれないから、本来は金曜日に退院していいはずです。ところが、月曜日に退院させる。土日は外泊扱いで実質的に金曜日に退院となる患者さんもいる」
こうし婦長の”地道な努力”によって病床利用率は【表2】に見られる通り、6自治体病院の中でもトップの94・7%を誇る。小坂氏の外科では午前退院・午後入院ということも行なわれ、100%を超える。
|
県立
|
市立
|
|
静岡総合
病院
|
静岡市立
病院
|
浜松医療
センター
|
沼津市立
病院
|
清水市立
病院
|
富士市立
病院 |
病床数
|
700
|
650
|
625
|
500
|
500
|
610
|
1日平均
入院外来患者数
|
2277
|
2128
|
1570
|
1963
|
2188
|
1721
|
一般病棟
利用率(%)
|
91.5
|
93.8
|
85.7
|
93.0
|
94.7
|
87.1
|
医師数(人) |
94
|
89
|
80
|
66
|
57
|
63
|
医師の平均
経験年数(年)
|
6
|
12
|
16
|
15
|
4
|
13
|
看護婦数(人)
|
416
|
379
|
395
|
283
|
268
|
311
|
医師1人
当たりの
患者数(人)
|
外
|
6.5
|
6.3
|
6.3
|
7.0
|
7.5
|
6.3
|
入
|
11.9
|
11.8
|
8.7
|
15.2
|
17.6
|
10.0
|
看護婦1人
当たりの
患者数(人)
|
外
|
1.4
|
1.1
|
1.2
|
1.5
|
1.4
|
1.2
|
入 |
2.6
|
2.1
|
1.6
|
3.2
|
3.2
|
1.9
|
【表2】静岡県内の県立・市立病院の比較
(『地方公営企業年鑑―病院編 97年度』より作成)
国産か外国産か
限りなく100に近づける努力はこればかりではない。
がんの手術後、患者は放射線治療を受ける。ふつうは通院である。ところが、つい最近になって通院も可とするようになったが、清水市立病院は人院しながら受けさせていた。かつて放射線科医の近藤誠氏がこの病院の勤務医(週に1回)になったとき、小坂氏はこうのたもうた。
「今度、悪い医者がくる。そいつに患者を回さないようにしろ」
近藤氏が早くから乳房温存療法の重要性を力説していたのが気に食わなかったのか、あるいは放射線治療は通院が常識と発言されるのが怖かったからなのか。おそらく両方なのだろう。
このほかにも外科の投薬には首を傾げることが多い。多剤併用ではなく、効果がほとんどないといっていい抗がん剤の単独投与がやたらと目立つからだ。Eさんのケースを紹介する。
Eさんは95年に乳がんで小坂氏の乳房全切除の手術を受けたあと、抗がん剤UFTを処方された。退院後頭痛がひどかった。この前年に近藤誠氏の『抗がん剤の副作用がわかる本』が出版されているから、素人でも抗がん剤の副作用を知ることができていた。それなのに頭痛を訴えると、脳神経内科に回されCTを撮られた。異常なし。医者は「寝ている間に歯を食いしばっているから頭が痛くなるのではないか」と語り、歯と頭の関係を研究しているという口腔外科の担当医に回された。そこでマウスピースを買わされ、寝ているときにそれを着けるように言われた。それでも頭痛は治らない。今度は精神科に回され、薬を処方された。
この時点で筋肉弛緩剤、安定剤を含め10種類の薬を飲んでいたという。
退院後、前述したAさんと同じように検査を受け続けた。97年の秋、切除した乳房の表面に、夫もすぐにわかったほどのしこりを見つけた。10月に小坂氏の触診を受けた。「大丈夫ですよ」。不安にかられたEさんは思い余って、しこりの存在を”自己申告”した。名医・小坂氏は真っ青になってうろたえた。触診で発見できなかったばかりか、前回の手術で大きくえぐり取ったはずなのに、一部のがん細胞を取り損なっていたのだ。
再度の手術のあと、若い医師は「抜糸する前に抗がん剤を投与すると傷口が治りにくいから、あとでやりましよう」と語った。すると若い医師の報告を受けたのか、小坂氏が飛んできた。
「すぐに抗がん剤をやる。傷口が治りにくいほうを選ぶか、命を取るか」 そこまで言われれば、疑問に思いながらも同意せざるを得なかった。抗がん剤と同時に1本6万円もするホルモン抑制剤(『リュープリン』)の投与も受けた。最近になってわかったことだが、検査の結果はホルモン抑制は不要となっていた。必要のない薬だったのである。
96年に乳房全切除の手術を受けたFさんは、小坂氏からこんな質問を受けた。
「抗がん剤は黄色にしますか、赤にしますか」
何のことかわからない。説明を求めると、小坂氏日く。
「国産か外国産のどちらにするかという意味です。国産はきつくて毛が抜けるし、吐き気がひどくなる。外国産のは保険がきかないけど、いい薬です」
このようなエピソードは取村中無数に聞かれた。「製薬会社と癒着しているのではないか」と疑う人がいるのは当然だろう。
患者にわたさない「同意書」
この病院のもう1つの特色に話を進めてみる。
もう1度【表2】をみてもらいたい。この表は県立病院と県下5都市の自治体病院の6病院を比較したものだ。2つのことが読み取れるだろう。
1つは医師数、看護婦数ともに6自治体病院中最も少ないことだ。医師1人当たりの患者数の多さは外来、入院ともにトップ。看護婦1人当たりでも外来は沼津が多いが、入院になるとトップである。ベッド数に違いがあるのではという指摘は当然あるだろう。そこで病床100床当たりの医師、看護婦、全職員数を見ると、次の通りになる。なお、県立総合は700床のうち病床利用率が60%台の結核病棟が100床あるため、比較の対象から外した。
医師 看護婦 全職員
静岡 14.8 78.2 121.9
浜松 13.3 73.7 123.3
沼津 14.6 75.8 116.4
清水 12.6 69.5 114.2
富士 13.7 72.1 114.7
100床当たりの医師、看護婦数は清水市立病院が最も少ない。それだからこそ、休日に入院患者を自宅に戻したりして、人のやり繰りをしているわけだ。忙しいから看護婦の口もついぞんざいになり、やさしくなくなる。抗がん剤の色がいつもと違うと患者がいうと、「カルテがたくさんあるから間違えた」と看護婦は悪びれることなく答える。
人数が少ないからといってミスが免責されることはないが、医師、看護婦が足りないから構造上ミスが起こりやすいのではないか。
もう1つ注目できるのは、医師の経験年数がわずか4年ということだ。医師の平均年齢は40才だから、1人前ではない若い研修医を多く引き受けているということだろう。「先生は抗がん剤の説明をするとき辞書のようなものを見ながら答えていた」といったことが多々生じるのは、研修医が多いからなのだ。
研修医は大学病院では患者の治療を責任をもってすることができない。その意味で、研修医にとってこの病院は練習場になっていると言ってもいい。5件ある医療過誤訴訟のうち2件は研修医が主治医だった。人件費は安くてすむだろうが、ミスもまた起こりやすい。裁判に訴えているGさんの苦しみを紹介する。
清水巾立病院の産婦人科に入院していたGさんは85年2月の夜、突然力みが来て分娩室に入っだ。その時、慶応から派遣された研修医のA氏は近所のスナック「キャッツアイ」で飲んでいた。20分ぐらいしてやってきたA氏は会陰部切開手術を行なった。切った瞬間、高圧電流に触れたようなしびれと痛みが走り、ギャッと叫んでしまった。
GさんはA氏がどの程度飲み、どんな手術をしたのか質問するために裁判への出廷を求めたが、病院側は拒否した。Gさん側は会陰部を切開しただけでなく、会陰腱中心、肛門筋挙筋、骨の膜まで切断してしまったと見ている。
入院中も退院してからも、座ると痛いし、歩くと下腹部に電流が走ったような痛みを感じる。それは13年が経過した今でも続き、取村中もGさんは持参のドーナツクッションの片方に重心を置いて座っていた。肛門筋が働かないから、排便もままならず、今も下剤が欠かせない状態だ。 彼女は病院を次々と訪ね歩いた。県立総合、浜松医科大、慶応大学病院、東大付属、清水市の今井産婦人科……。ハワイの病院まで足を運んだこともある。病院側は裁判で真っ向から否定しているが、それほどA氏がやった手術は医学の常識では解明きにくいほどデタラメだったということだ。手術から9年経った94年に腔口から7ミリ大のたこ糸が2本出てきたことがあっだ。Gさんは「まだ糸は出てきそう」と寂しく笑う。縫合も杜撰だったようだ。
退院2ヵ月後に性生活をもったが、バシッと中が切れたような痛みが走った。赤ちゃんは授かったものの、このとき以来今日まで性生活はない。
もう1人の研修医、S氏にかかった別の女性は、陣痛促進剤の投与方法のミスにより胎児を失い、出産後の母体管理の怠慢によって子宮内膜症から子宮癒着となり、赤ちゃんを産めない身体になってしまった。
2人の研修医はその後、慶応大学に戻った。被害にあった女性たちは「裁判になっているかどうか、本人たちはわからないのではないか」とみている。
医療過誤訴訟の原告や代理人の弁護士は「病院の対応がもっと丁寧で患者にやさしかったら訴訟は起きなかった」という。しかし、私にはそうは思えない。清水市立病院は特異な小坂氏という存在があるにせよ、構造上ミスが起きやすい体質になっているのだ。
前号でもそうだったが、今回も病院は取材を拒否した。ファックスで質問に回答してもらったが、いずれも鼻であしらうような抽象的な文言ばかり。その中から1つだけ紹介して、この病院が今後進んでいく方向を予測しておく。
この病院は訴訟が起きてから抗がん剤を投与するときに同意書を取るようになった。なんのためか。
〈抗癌剤投与に際してインフォームドコンセントの立場から、十分説明し、同意していただいているのは、むしろ当然のことと認識しています〉
なるほど。ならば、同意書を取った場合、契約書のように、1通は患者に渡していなければならない。常識だろう。ところが、この病院では患者には渡さず、病院が保管するだけだ。しかも、通常では考えられない、患者本人だけでなく親族代表者の署名・捺印まで取っている。抗がん剤の副作用で患者が亡くなり、親族が裁判に訴えても、法廷で「おまえだって署名したじやないか」と言えるのだ。
この病院は5件の訴訟に反省することなど微塵もなく、今後も訴訟を全面的に受けて立つ気なのである。
よねもと・かずひろ◆1950年島根県生まれ。『繊研新聞』記者を経て、現在フリーのルポライター。著書に『大川隆法の霊言』(宝島社)、『平成サラリーマン白書』(講談社)、『洗脳の楽園ヤマギシ会という悲劇』(洋泉社)などがある。『Views』に連載した「巨大カルト集団ヤマギシ”超洗脳”体験ルポ」で97年に日本ジャーナリズム賞を受賞。