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竹下裁判

控訴審準備書面(1)

平成16年(ネ)第2435号 損害賠償請求事件
控訴人(一審原告)  竹下勇子
被控訴人(一審被告) 静岡市 外1名

2006(平成18)年3月6日

控訴人訴訟代理人 弁護士 渡  邉  彰  悟
同            福  地  直  樹

控訴審準備書面(1) 〜事実関係について〜

本書面の目的
 本書面では、控訴人竹下の診療経過等を明らかにして、被控訴人小坂が控訴人竹下を乳癌と診断したことに根拠がないことを明らかにするとともに、これらの点に関する原審の判断が誤りであることを指摘する。

第1 本件について解明されていないこと
1 本件は非常に不思議な事件です。解明されていないことがあまりに多い。
  控訴人竹下は、原審の最後に、そのいくつかの点を指摘した。

2 事実について不思議な点は以下のようなことが挙げられる。
 @ 初診時に乳ガンの所見がないにもかかわらず,その翌日に生検を実施している。
 A 迅速標本診断についての乙7は、本件の提訴後に1996(平成8)年11月7日に被告準備書面の添付書類として提出された
 B  喜納教授による病理診断(被告主張では91年12月27日)は、原告が提訴後に病理についての釈明を行った後に、初めて被控訴人側から登場することになった。そしてその主張のときには喜納教授は既に死亡していた。
 C  永久標本ではなく迅速標本を乳癌診断の使用している。しもか,年末の仕事納めの日に,タクシー,新幹線,タクシーを乗り継ぎ,浜松医科大学の喜納教授のところまで被控訴人小坂自身が迅速標本を持って行っている。
 D  喜納教授が迅速標本を診て診断し,その日に永久標本の診断まで約束させられている。本件診療及び本件訴訟に関与している病理医は,稲田健一氏,多田伸彦氏,中村雅登氏,長村義之氏であり,いずれも東海大学の病理に属する医師である。
 E 迅速標本が残っていない。
 F 永久標本についての病理診断が1月7日になされているのに、この結果にかかわらず6日に控訴人竹下が癌であることを前提に被控訴人小坂が説明を行っている事実

3 そして鑑定についても、様々な疑問がある。
 @ 癌による変異という説明を試みようとする場合に、その変異が日本人特有の塩基配列の部位のみで起こる不自然
 A 変異がありえたとして、なぜ塩基配列が異なる3箇所のうち2箇所はホモプラスミーとなっているのか。正常細胞の部分には変異がないのであるから、少なくともその部分は竹下の塩基を含んだヘテロプラスミーでなければならないのにそうなっていない。この結果をどう合理的に説明をするのか

4 さらに、改めて本件事件の提訴後の推移を振り返ってみると、非常に特徴的なことがあります。この点も裁判所にぜひともご留意をいただきたい。
  それは続々と裁判提起後に一審原告竹下が癌かどうかを疑い出して、その主張を展開し始めた後、被控訴人から新規の資料が提出され、被控訴人から新規の主張が展開されている事実であります。つまり被控訴人が後付けで物語化・証拠化したものを原審はそのまま受容してしまった。
  その典型的なものを以下に列挙します。

 <後付け証拠>
・乙7  迅速標本診断結果(inada)仮報告書
・乙8の1 長村報告書 平成8年10月3日作成
・乙8の2 長村追加報告書 平成8年10月16日作成
・乙12、22   ホルモン受容体検査と報告 1993年1月30日作成
・乙17      病理組織検査  1997年7月30日作成 

 <後付け主張(証拠なし)>
・初診(触診、マンモグラフィー)の所見
・迅速標本と永久標本の二つ標本を作る(平成8年6月19日付被告答弁書)
・ 喜納教授による病理診断
・ 乙18 年始廻りに来た塩野義製薬社員、武内浩三氏が永久標本を喜納教授に届けた

 原審判断の特徴は、この後付け証拠と後付け主張によって組み立てられており、後付けの証拠と主張に寄って立っているということであります。

 それどころか、原審被告の主張すらも無視して、記録にすらないような独自の事実認定すらしています。しかも、この独自の事実認定は事件の結論に影響を及ぼす事項にもあるのです。原審の判断がいかに杜撰なものであるかがわかります。
 ここでは一点だけもっとも重要な原審判決の独自の判断を記します。それは、“永久標本について、94年1月6日に多田医師が診断をした”という原審事実認定(原審判決11〜12頁)です。しかし、このような事実は被告の主張にもなかったのです。被告小坂も多田医師が1月7日に清水市立病院(当時)における病理の部屋で標本を診ていること、1月7日に病理診断をしていることを明確に認めています(原審小坂調書@303〜307項、同調書A59〜61、63項)。1月6日に多田医師は清水市立病院にいないのに、原審判決は多田医師が清水市立病院にいることを前提にした判断をしたのです。なぜこのような事実認定を前提にした判決が許されるのか控訴人には理解できないのです。(これ以外の独自判断の例は後述します)。

 医療の世界で重要なことは記録です。記録に反する不自然な主張はそれ自体として信憑性がありませんし、真実とはみなされません。ところが原審判決は、その信憑性判断を歪め、大きく客観性を損ねることになったのです。
 以下では、控訴人は、基本的に後付けの証拠ではなく、当時の本件の医療記録にしたがって主張いたしますが、その主張が正当であることは、これまでの主張や証拠の評価から、それがもっとも常識にかなうものであると確信しています。

第2.診療経過

 1.本件診療経過
  以下、本件診療経過について述べる。なお、下線で示した部分は当時、原告は知らされておらず、証拠保全によって入手した医療記録を見て初めて知った事実である。
  @ 平成3年12月26日(木)初診
           問診、控訴人竹下記入乳腺疾患予診カード(乙1号証3枚目)
           視診、異常なし(乙1号証2枚目、乳房精密検査票(1))
           触診、カルテに結果記載なし

           マンモグラフィー、カルテに結果記載なし
           エコー、「至急」依頼し、結果良性、経過観察と記載
                            (乙1号証38枚目)

           穿刺吸引細胞診なし

           生検手術の予定を組みカルテに記載
                  (乙1号証4枚目小坂調書@477〜484項)

           がん保険入院証明書診断確定日
                   (乙1号証39枚目、小坂調書@347項)

  A 平成3年12月27日(金)
           生検実施
           カルテに結果記載なし
           迅速標本結果(Inada)仮報告書(カルテに記載なし)
  B 平成3年12月28日(土)
           がん告知
           カルテに記載なし
           手術に向けての諸検査実施
  C 平成4年1月2日(木)
           治験対象者とされA法で薬剤投与指示カード記載
           
  D 平成4年1月4日(土)
           入院(有料の個室)
           外泊
  E 平成4年1月5日(日)
           20時帰院
           手術前チェックリスト作成
           抗がん剤UFT処方
  F 平成4年1月6日(月)
           夕方家族への説明
  G 平成4年1月7日(火)
           永久標本結果(Tada)
                   (乙1号証36枚目)
  H 平成4年1月8日(水)
           手術実施

 2.事実経過からわかること
   以上の事実からわかることは、被控訴人小坂は、問診、触診、マンモグラフィ検査、超音波検査の結果、乳癌と診断するだけの客観的な根拠がないにもかかわらず、初診の段階で乳癌と決めつけ(がん保険入院証明書)、初診日当日に生検の実施を決定している。さらには、永久標本の結果を待たずして原告に乳癌の告知を行い、切除術の日程を決め、切除術に向けての諸検査を実施し、抗癌剤の処方まで行っているのである。
   こうした事実は、被控訴人病院及び小坂による一連の行為の異常性を示す何ものでもない。

第3.本件診療経過に基づき控訴人竹下を乳癌と診断する根拠がなかったこと

 1.乳癌との診断根拠について

 (1) 初診時
  a 控訴人竹下が被控訴人病院を初めて受診したのは平成3年12月26日である。
    被控訴人は、以下のとおり、初診の時点で乳癌との疑いをもったと主張している。すなわち、
触診は1〜2分行い、さらに、超音波検査やマンモグラフィ検査の結果から、右乳腺外上領域に約2センチ大のしこりがあることがわかった。それにより乳がんの疑いをもったと主張するものである。被控訴人小坂の陳述書によれば以下のとおりである。

    「触診は1〜2分」「右乳腺外上領域に約2センチ大のしこりに触れる。しこりは硬く辺縁不整」「私は触診上、長年の経験から乳ガンの疑いをもった」(乙16号証3〜4頁)
    「触診、マンモグラフィの検査からみても90パーセント以上の確率で乳ガンと思われます。」(乙16号証9頁)

  b しかしながら、被控訴人小坂は初診時において、控訴人竹下に対し問診をしていないし、触診も「2〜3秒のひとなで」のみであった。(甲第1号証、同54号証)
    さらに、初診時において、レントゲン(マンモグラフィ)検査及び超音波検査を「至急」と指示し実施している。
    そして、マンモグラフィについては、被控訴人小坂は以下のように供述している。

    「マンモグラフィでは、右乳腺外上に腫瘤陰影を認め、同時にスピキュラ様の所見を認めた。」(乙16号証5頁)
    「診断として、画像診断的に診断がつけられたということです。そして、そういうことで判断したんです。」(小坂調書@347項)

    しかしながら、マンモグラフィ検査によって乳癌の疑いをもったのであれば、放射線科による画像診断の記録が存在し、その記録上乳癌を疑うような所見が記載されているはずである。ところが、被控訴人病院の診療記録上に何ら存在しない。このことは、マンモグラフィによって原告を乳癌と診断するだけの根拠が存在しなかったことの何よりの証左である。
    また、超音波検査については、「良性の腫瘍と思われますが、定期チェックを」と記載されており(乙1号証38枚目)、乳癌を疑わせるような所見はマンモグラフィ検査においても、超音波検査においても存在しないことは明らかである。

  c つまり、初診の時点では、問診においても触診においても、また、マンモグラフィ検査、超音波検査においても、控訴人竹下を乳癌と診断するだけの根拠は存在しない。

 (2) 被控訴人小坂による癌の決めつけ
    被控訴人小坂は、触診によって控訴人竹下に対し乳癌の疑いをもったと主張するが、精密検査表(乙1号証2枚目)には、腫瘤の形状や大きさについての記載が何もなされていない。
    記載しなかったことについて、被控訴人小坂は以下のように「記載もれ」と供述している。

    乙1号証を示す。
    「2枚目を示します。精密検査表(1)ですね。」
    「はい。」

    「そこは、あなたが記載したんですね。」
    「そうでございます。」

    「腫瘤の大きさについては、記載がございませんね。」
    「はい、ありません。」

    「どうして書かなかったんですか。」
    「これは、記載漏れだと思います。」

    「記載もれですか。」
    「はい。」

    「そうすると、当時、2センチぐらいあったというのは、あなたの記載根拠は何ですか。」
    「私の触診で、要するに、決めたわけでございますので。」

    「こんな大事なこと書かないんですか。」
    「これはですね、私の記憶はですね、超音波なりマンモグラフィと、両方の総合的な判断して記憶しておるわけでございますので。」

    「触診で2センチぐらいであったというから聞いているんですよ。」
    「そうですね、ですから、その当時の記憶をたどれば、今言ったように、2センチだということです。」

    「そこには形状とか硬度とか、境界がどうだとか、いろいろ書く欄がございますね。」
    「はい。」

    「そこも何の記載もございませんね。」
    「はい。」

    「どうしてですか。」
    「一つはですね、ほんとはこれ、全部書けばよろしいんですけれども、非常に外来が、乳腺外来というのは週300人ぐらい来ますので、そういう面で、全部書かなかったということだと思いますけれども。」

    「乳腺外来で患者さんがたくさん来るので書く余裕がなかったということですか。」
    「はい。それはほんとは書くべきだと思います。」

    「あなたは陳述書で、原告の腫瘤の大きさが約2センチで、硬くて辺縁が不整であったと、このように述べていますけれども、肝心の精密検査表にそれらの記載がないのに、何に基づいてこのように陳述書に書いたんですか。」
    「ですので、今も言いましたように、これは、当時の乳腺エコー、マンモグラフィというものを基にして、私の記憶でですね、そういうふうに書いたわけでございます。」
       (小坂調書@217項以下)

    しかし、触診で乳癌を疑った医師がしこりの形状・大きさ等を記載しないはずがない。また、「腫瘤の大きさ」という極めて重要な事実を診療記録にとどめることなく、記憶に頼るなど、医師としてあり得ないことである。被告小坂の陳述書(乙16号証)を作成した時期、それに基づく被告小坂の証言はともに平成9年である。6年も前の患者の腫瘤がどのくらいの大きさだったかについて、記憶に残っていること自体極めて不自然である。
    ちなみに、平成4年から平成9年までの6年間の乳癌手術件数は、94件、95件、93件、94件、89件、80件であるし、生検を含む乳腺その他の手術件数は年間200件前後にものぼるのである(甲42号証〜45号証、2002年3月4日付準備書面3頁以下)。控訴人竹下に対して手術が実施された平成4年には94件もの手術を行っている。診療記録上の記載がないにもかかわらず、記憶だけで詳細に論述する被控訴人小坂の供述は不自然であり、信用性に乏しいといわざるを得ない。
    すなわち、被控訴人病院の診療記録上、控訴人竹下を乳癌と疑うだけの根拠は何も存在しないし、乳癌との疑いをもったとの被控訴人小坂の供述はあまりにも不自然であり、信用するに値するものではない。

 (3) 以上のことからわかるのは、被控訴人小坂は控訴人竹下を乳癌と診断する根拠がなかったにもかかわらず初診で控訴人竹下を乳癌と決めつけ生検に誘導し、その後、控訴人竹下を乳癌患者として扱い続けることになるということである。

2 生検に関する説明

 (1) 被控訴人小坂は、生検の実施を控訴人竹下に勧め、生検に関する説明を控訴人竹下に実施し、控訴人竹下及びその夫の承諾書をとった旨主張している。
 (2) しかしながら、控訴人竹下は、生検の必要性に関する説明、生検で採取した組織から迅速標本・永久標本を作成するとの説明を被控訴人小坂から一切受けていない。(甲第1号証、同54号証)
    説明・同意書(乙1号証37枚目)が存在してはいるものの、例えばマンモグラフィについてどのように説明したかという説明内容については記載されていない。

     「説明は聞いてないんですけど、説明はしたんでしょうか。」
     「説明はしました。」

     「あなたの陳述書に書いてあるような詳しい説明をしましたか。」
     「しました。それは、外科の生検の説明と同意書の中に、乳腺エコーそれから触診、マンモグラフィの結果ということで、説明もしたということが記載されております。」

     「中身は書いてないじゃないですか。」
     「中身と言いますと、どういうことでしょうか。」

     「マンモグラフィをどのように説明したかという、そこは書いてないんじゃないんですか。」
     「その説明の内容は書かれていませんけれども、通常は、触診をした後にマンモグラフィと乳腺エコーを撮ります。そして、撮った後に、患者さんにもう一度外来に来てもらって、マンモグラフィの写真を見せて、そして、超音波のレポートが返ってきますので、その超音波のレポートを見せながら説明をするということにしています。」
                     (小坂調書@238項以下)
   
    医師が患者に説明し、その処置について同意書をとっているのであれば、その説明内容、つまり、マンモグラフィの結果がいかなる内容であったのか、検査結果からして何故生検が必要であるのか、を記載するのが通常である。しかし、そのような内容は一切記載されていない。
    前述したとおり、画像診断によって控訴人竹下を乳癌と診断することはできなかったのであり、だからこそ画像診断に関する所見が記録上何ら存在していないのである。すなわち、マンモグラフィの画像によって控訴人竹下を乳癌と診断するだけの根拠はなかったわけである。
    つまり、客観的なデータによっては生検の必要性を説明できない状況だったのであり、それ故被控訴人小坂は生検の必要性を原告に説明できなかったというのが、偽らざる事実だったというべきである。
    しかるに、被控訴人小坂は、初診の段階で客観的には乳癌と診断することができなかったにもかかわらず、切除手術を予定に組み込んだため、切除手術に向けて、いわば「アリバイ工作」のために生検をせざるを得なかったわけである。それ故、控訴人竹下に初診の検査結果について事実を伝えられず、生検に誘導したのである。これ自体が定型的な手法であったことはもちろんである。

 (3) 以上のとおり、控訴人竹下を乳癌と診断する根拠が何一つなかったにもかかわらず、被控訴人小坂は原告に対し、平成3年12月28日、以下のような説明を行った。

    「乳癌です。すぐ手術が必要です。」
    「しこりは1.8センチメートル、残念ながら初期、ゼロ期は通り越してステージT、T期の癌です。あなたの場合、温存療法と筋肉を残して乳房を全部取る方法とふたつのうち一つ選べる。だけど温存療法の方は、日本へ入ってきてまだ3年しかたってなくてデータがないし、放射線ときつい抗ガン剤をうつから我慢できない人もいる。たぶん、我慢できないだろう。命を取るか、危険を取るか、二つのうち一つ選べる。」
    「先生は、全部取る方をすすめる。」
                    (甲64号証7頁)

 被控訴人小坂の説明には、癌の性状、術後の治療計画、後遺障害の有無・程度等に関する説明は一切なかった。そうした事実を説明できるだけの客観的データに基づく根拠が何一つなかったのであるから、そのような説明になったのは当然のことである。

 3 乳癌に関する説明日の設定

 (1) 控訴人竹下は、被控訴人小坂から、平成3年12月28日の時点で、平成4年1月4日に説明するから被控訴人病院に来るよう指示を受け、同日被控訴人病院に赴いたが、被控訴人小坂は病院内におらず、説明を受けることはできなかったのである。
   つまり、12月28日に言われたことは
   「ベッドを確保するため平成4年1月4日(土)入院、1月10日(金)手術。1月4日の午後1時に家族に説明するから、入院の仕度をして来るように。」「1月4日は仕事始めの土曜なので、正面玄関ではなく、救急の入り口から入るように。」というものであった。
                       (甲64号証9〜10頁)

 (2) これに対し、被控訴人小坂は法廷における証言、及び陳述書において、以下のように供述している。

     「1月4日に家族と来てください、説明しますから、と言ったんではないんですか」「いえ、そうではありません。」(小坂調書@334項)
     「平成4年1月4日は、土曜日であり、しかも、仕事始めの半日(正午まで)ですので、私が時間外の午後1時以降に面談予定を入れることは考えられない」(乙16号証17頁)

 (3) しかしながら、以下のように、控訴人竹下の供述内容は極めて具体的であり、1月4日に来院を指示されなければ、当日このような行動をとることはおよそ考えられない。乳癌に関する説明を家族にすると言われた患者が、その告知日を間違えることはおよそ考えられない。

   「小坂から言われたとおり、4日の昼過ぎ、家族揃って救急入り口から入りました。その時知り合いの柴田修さん(医事課職員)が偶然私の方へ歩いて来ました。当時、柴田さんは平日には正面玄関カウンターの受付にいたので、初診依頼病院に行くたびに事情を伝えていました。柴田さんに用件を伝えて小坂をさがしてもらい、居合わせた看護婦にも頼んでさがしてもらいましたが、小坂がみつかりませんでした。約束の時間になったため、小坂がみつかったら連絡を柴田さんに頼み、とりあえず病棟へということになりました。小坂をさがしてくれていた看護婦がエレベーターを使って、4階病棟まで案内してくれ、病棟の看護婦に引き継いでくれました」。(甲64号証12〜13頁)

 4.控訴人竹下、及び家族に対する説明について

 (1) 被控訴人は、1月6日午後5時に控訴人竹下及びその家族に対して乳癌であることを説明する予定になっていたと主張している。

     「私は、病理科に、年末年始の関係上、平成4年1月6日午後5時から家族に説明することになっていることを話してありましたので、永久標本は、平成3年12月28日に切り出し包埋、平成4年1月4日に薄切及び染色し、同月(1月)6日午前中に作成されました。」(乙16号証19頁)

 (2) しかしながら、もともと1月6日に説明する「予定」になっていたことはない。
    つまり、12月28日に「1月4日入院、10日に手術。1月4日の午後1時に家族に説明するから入院のしたくをして来るよう」と言われていたのに、4日にすっぽかされ、控訴人竹下と家族は帰宅。1月5日の夜、外泊から病院へ戻った際、急ぎの手術の人が入ったから控訴人竹下の手術が8日に早まったと病棟の看護婦から知らされたため、翌6日の朝、控訴人竹下が家族への説明を催促したのである(甲64号証12〜14頁)。   

    被控訴人病院の1月6日付看護記録には以下のような記載がなされている(乙2号証40枚目)

     「(午前)6時 不眠だったという 早くムンテラをして欲しいという。」
     「13時 外出する 20時まで」
      (泉医師が許可者となっている「外出許可証」には、1月6日の12時から20時までの外出予定と控訴人が手書きで記載している)
     「17時 ムンテラのため、一時帰院 その後外出する」

    この看護記録の記載から明らかなことは、控訴人竹下が被控訴人小坂から説明を受けられない不安を看護婦に訴えていることである。説明が1月6日に予定されていたのであれば、午前6時の看護記録のような記載にはならないはずである。
    被控訴人小坂は、1月6日午後5時が予定されていた、1時間かけて説明した、と主張するが、そうであれば午後8時帰院を前提とする外出許可を控訴人がとるのは極めて不自然である。
    1月6日の17:00からの説明についての事実経過は、6日の朝に控訴人が要請し、そして、6日の午後に外出届を出し,帰宅する際に看護婦から知らされたものである。
    かかる事実経過も、永久標本などの病理診断について6日を前提に話をまとめようとしている原審判断の誤りを示すものに他ならない。

5.被控訴人小坂が癌ではない患者を癌と診断し治療を実施している事実

 甲41号証はまさに内部の資料によって乳癌ではなかった患者を乳癌患者として治療をしていた実態を示している。そして他の書証からもこのことが間接的に裏付けられる。
 甲46号証は清水市の議会議事録であるが、この中で西ヶ谷清水市議が質問をしているもので、その中に「私自身も、裁判をしたいという2件の相談を受けております。同時に市立病院で乳がんといわれ、他の病院へ行ったら乳がんではない。今、元気に暮らしている方が3名おり、いろいろな話が寄せられるわけです」と述べており(4-2左)、41号証同様に、被告小坂のもとで、がんでもない人が癌であるとされてしまい診療を受けていた事実を示している。
 同様のことはいのちジャーナル1998年12月号(甲29号証)の中にも指摘されている。友田紀子さん(仮名)が1998年1月29日に被告小坂の3度目の診察を受け、結果はがんではないとのことであったが、小坂は「長年のカンからすれば、移動性、流動性のがんですよ。がん細胞が動いているため、針を指したところになかっただけのこと。1ヵ月後にもう1回(細胞診を)やりましょう」と言われ、さらに1ヵ月後の細胞診でもがんは見つからなかったが、小坂は「長年の経験からすると、放っておける状態ではない。入院して生体検査(生検)で深く組織を切り取って調べてみましょう」と、あくまで乳がんであることにこだわり、そして生検を受診させようとしたのである。この友田さんは結果的に他の病院を受診し乳癌ではないことを確認され乳がん手術をされることなく、済んでいる(同16〜17頁)。生検まですすんだときに、がんであると言われて手術を受けなかったと誰が保証できるであろうか。
また、甲29号証の19頁の表にある、93年乳がん患者4人の初診日・生検・がん告知・入院日・手術日の推移をみても、いかに不可思議な診療が行われているかがわかる。(同号証には95年と記載されているが,これは事実と異なり実際には93年(控訴人竹下が手術を受けた翌年のことである)である。)
 ここに再現すると以下のとおりである。

(表2)

  A B C D
初診日 9月7日 10月19日 11月2日 11月17日
生検 9月8日 10月20日 11月4日  11月25日
がん告知 9月8日 10月21日 11月4日 11月25日
入院日 9月8日 10月20日 11月4日 11月25日
手術日 9月22日 11月1日 11月17日 12月3日

 この表からも判明するように、A・B・Cは初診の翌日(Cの場合翌日の11月3日は祭日をはさんでいる)にはすぐに生検がなされ、しかもすべての例においてがん告知と同日或いはその前日に入院扱いとなっている。いかに患者の取り込みが迅速であるかをこの表は示している。明らかに病理の結果が出ていない段階で入院の手続がなされているという異常な事態のもとで手術まで進められているのである。同じようなことは、イデアフォー通信22号(甲49号証)の久保山甲三氏の「妻の死に異議あり」にもあらわれている。ここに出てくるK医師はもちろん被告小坂である。久保山氏の妻は平成元年5月23日に初診、5月26日生検、29日入院、31日に病理結果が出て、6月5日に手術を受けている(同旨甲26)。さらに、都留かよ子さんも原告のほぼ同時期に、「12月17日か19日、初診の日に小坂医師から癌と言われて、次の日に検査と言われて、…12月25日には手術を受けて」おり(原告本人尋問156項)、この患者に対するやり方も同様の問題点を抱えている。従前の準備書面で明らかにしたように、触診をへてエコー、マンモグラフィー等という慎重な順序による観察を経ることなくたちまちのうちに手術に持っていかれている状況がこの推移をみても合理的に推測が可能である。
 さらに、甲50号証は、被控訴人告病院内部の人がいのちジャーナル98年11月号を読んでの通信である。11月号を読んだ病院内部の方が「小坂医師のひどさは10年以上も続いています。…(中略)一度外科で診た患者は死ぬまで市立病院で診る(外科)方針で、他の病院にまわしたことが発覚すれば、小坂は外科の売上が落ちると若いDrに激怒します。私の知り合いの女性(64才)も10年前小坂に乳房をとられ、5年前には「転移しているから抗ガン剤投与するので入院しろ」とおどされ、県立総合病院に行ったら、転移も何もないし、薬なんて必要ないといわれ今にいたっている。骨転移があって6年も何もなく生きている事があるわけないのだから、小坂は全くの誤診だし、薬を無理に飲まし続けようとした殺人行為にあたると思う」と述べているのである。このような小坂の姿勢は、本件においてもそのまま現れ、乳がんでないものを乳がんに仕立てて手術を実施したとみても何の不思議もない。
 以上の内容も近藤・西ヶ谷両氏と同様の指摘であり、控訴人竹下の主張している事実、つまり、被控訴人小坂が乳がんでもない控訴人竹下を癌と見せかけて手術を施した蓋然性を基礎付けるものである。
また、甲42号証〜45号証に示されているように、被控訴人病院における乳癌手術数は、被控訴人小坂が病院を退職してから減少している。それまでの手術数がいかに異常なものであったかを示すものである。控訴人竹下の主張はこれによっても裏付けられているのであり、被控訴人病院での異常なまでの診療行為を示している。

 6.まとめ
   以上論じたのは、被控訴人小坂の診断が乳癌に対する標準的な診療行為を著しく逸脱した異常な内容であること、すなわち、通常は癌の確定診断を行った後に手術を決定するものであるが、被控訴人小坂は初診時に乳癌と診断し、永久標本の結果が出る前に入院日・手術日をすでに決定していたこと、控訴人竹下を乳癌と診断するだけの客観的な根拠がなかったにもかかわらず、乳癌と決めつけ、生検の実施を決定し、永久標本の結果を待たずに手術日を決め、控訴人竹下に対して癌の告知を行ったことである。これは、被控訴人小坂が初診時から乳房切除術を控訴人竹下に実施することを目的として,そもそも診断の対象ではないにもかかわらず(甲109号証),生検で迅速診断をしていたこと、そして、その後は被控訴人小坂の目的を達成するために見かけだけの医療行為を行い、辻褄合わせを行ったにすぎないのである。こうした事実は、被控訴人病院及び小坂による一連の行為の異常性を示す何ものでもない。

第4.病理診断の不存在

 1.多田医師による病理診断の不存在
 (1) 被控訴人小坂による控訴人竹下及びその家族に対する説明について、原審判決は以下のように判示する。
「説明内容は、上記(2)の喜納教授、多田医師による診断結果を踏まえ、・・・説明がされた。」(原審判決12頁)

 (2) まず、原審判決は、被控訴人小坂が多田医師による診断結果を踏まえて控訴人竹下に説明したという事実を認定している点が問題である。
    なぜなら、被控訴人小坂が控訴人竹下に説明したとされる平成4年1月6日の時点では、多田医師の病理診断は存在しないからである。多田医師による診断書とは乙1号証36頁を指していると思われるが、この病理組織診断には「92年(平成4年)1月7日」と記載されている。
    この点で、原審判決は証拠に存在しない事実を認定している。

 (3) 次に、原審が上記のような事実認定をしたのは、「診断書作成が1月7日で、実際にはその前日である1月6日に多田医師による診断が行われた」と認定したということであろうか。原審判決の趣旨は極めて不明確であるが、仮にそのような認定であったとしても、以下で論じるとおり、それ自体証拠に現れている事実に反するものである。
    なぜなら、多田医師は1月6日には被控訴人病院に来ていないからである。病院に来ていない多田医師が、組織に基づいて病理診断などできるはずがない。
    そのことは、以下に指摘するように、小坂の法廷における供述に明確に現れている。すなわち、

    小坂調書@303〜307
    「この永久標本を多田先生が見たんですか。」
    「そうです。最終的にはそうだと思います。」

    「多田先生は、どこで顕微鏡をのぞいたんですか。」
    「清水市立病院の病理の部屋です。」

    「清水市立病院に来たんですね。」
    「そうです。」

    「それが何日ですか。」
    「カルテをみますと、私の記憶から想像しますと、1月7日になっていますので、1月7日にお見えになったというふうに記憶します。」

    「そうすると、多田先生は、1月7日に清水市立病院で永久標本を見て、癌だというふうに診断したわけですね。」
    「そうです。多田先生はですね。」

    小坂調書A59〜61、63
    「前回の法廷でのあなたの供述でも、多田さんが、その診断をしたのは1月7日であると、これは間違いないわけですね。」
    「間違いありません。」

    「そうすると、多田さんは、6日ではなくて、7日に来ていたと、こういうことですね。」
    「7日でございます。」

    「そうすると、多田さんの永久標本の診断が1月7日ということは、1月6日のあなたの本人と家族に対する説明のときには、この多田さんの病理結果に基づく説明というのは、なかったということですね。」
    「そういうことでございます。」

    「少なくとも、多田さんの診断が、1月6日になかったことは間違いないですね。」
    「そういうことです。ですから、1月6日は喜納教授です。」

 (4) 以上、指摘したとおり、被控訴人小坂自身も、多田医師が病院に来たのは1月7日であることを認めている。しかも、その他に、1月6日の説明時に、多田医師の診断に基づいて説明したと認定すべき証拠は一切存在しない。
    原審の事実認定は証拠に基づかないものであることが明白である。

(5) そればかりではなく、この点の事実誤認が判決全体に重大な影響を及ぼすものであることを指摘しておきたい。つまり、院内の病理医に基づく病理診断が出る前に、被控訴人小坂は控訴人竹下及びその家族に乳癌であることの説明を行っているのである。この事実こそが、小坂が客観的根拠に基づかずに乳癌であることを決めつけ、控訴人にその旨の説明を施し、手術に踏み切ったことを裏付ける大きな事実だからである。
    しかしながら、原審はそれを見逃した。原審は、証拠に基づかない、あるいは証拠に存在しない事実を認定し、誤った結論を導き出したとのそしりを免れない。

 2.喜納教授による病理診断の不存在

(1)平成3年12月27日における喜納教授による病理診断
  @ 原審判決はこの点につき
   「同日(平成3年12月27日)、この迅速標本(迅速標本は複数作製した)を浜松医科大学に持参し、同大学教授の喜納勇教授に診てもらった・・」
   (原審判決6頁)
「被告小坂は浜松医科大学の非常勤講師を務めており、同大学の機能教授とは知り合いで、日頃から喜納教授に意見を求めたり、講演を依頼したりしていた。」(原審判決7頁)
    また、
   「確かに、同教授(喜納教授)が診断をした結果としての診断書等の書面は存在しない。しかしながら、この点の被告小坂の供述等(説明)は筋が通っており、これを虚偽であるとする根拠はない。」(原審判決22頁)
   と認定している。

  A しかしながら、迅速標本に対する喜納教授の診断は存在しないというのが控訴人竹下の主張であり、このことは2003年10月9日付準備書面にて詳細に論じたとおりである。
   再度、要約して主張すれば控訴人竹下の主張は以下のとおりである。すなわち、
  a 当日、被控訴人小坂は喜納教授に会うために浜松医科大学に向かったとされているが、浜松医科大学に到着した時刻について、乙31号証(小坂陳述書)と法廷における供述内容が食い違っていること。
  b 当日の喜納教授の行動を客観的に見る限り、喜納教授と被控訴人小坂が浜松医科大学で出会い、標本を交付することは極めて困難であること。
  c 喜納教授の日記(甲83号証)の記載内容から判断して、被控訴人小坂が突然喜納教授を訪問して病理診断を依頼できるような間柄では決してなかったこと。つまり、年末の仕事納めのときに事前の連絡もなく病理診断を突然依頼することなどあり得ないことであり、誰の目から見ても非常識なことである。それだけでなく、標本を廃棄することを喜納教授に委ね、しかも記録を残さない、仕事始めの日に永久標本の病理診断までも約束させられるなど、喜納教授にすれば常識を逸した行動としか言いようがない。こうしたことが事実であれば、喜納教授は日記に書きとどめたはずである。しかし、喜納教授はこうした事実を何ら日記に書きとどめてはいない。また、日頃から喜納教授に意見を求めていたことを客観的に認定する証拠は何も存在しないし、講演の依頼はたったの一度きりである(1992年5月9日のみ)。しかも、喜納教授の日記(甲84号証)によれば「静岡県癌治療研究会へ・・・・これも又小坂(清水市立病院)がやっている。不思議だ。」と記載しているのであって、親しい間柄どころか、被控訴人小坂に対する不信感・嫌悪感を抱いている内容である。
  d 以上のことから推論すれば、被控訴人小坂と喜納教授が浜松医科大学で、当日の午前11時から12時の間に面会し病理診断を依頼するなどということはあり得ない事実である。

  B 控訴人竹下の上記主張に対し、小坂は、自分が浜松医科大学に到着した時間、及び、喜納教授が磐田総合病院に到着した時間について、矛盾した供述をしていることがわかる。
a 小坂調書A139、141、146、
「そうすると、いずれにしても11時半は過ぎていますね。」
「だから、先ほども言ったように、僕はこれ時刻表分かりませんでしたので、初めて見させていただきましたけども、11時過ぎから、遅くとも11時半ごろというふうに言ったと思いますけども。」

「11時半を過ぎたということでいいんですね。」
「そういうことです。その新幹線のあれから見ると。」

「あなたがおっしゃりたいのは、自分と会ってから、午前中に磐田病院に、喜納先生は着かれたのではないかということをおっしゃりたいんですか。」
「そういうことです。」

  b ただし被控訴人代理人からの問いには「a.m.イワタへ」への解釈について、被控訴人小坂は以下のように供述する。
   小坂調書A356
「私たちは、この文章を、要するに、出発した時間というふうに解釈しておりますけれども。そう感じておりますけれども」
   と答えて、喜納教授が磐田総合病院に到着した時間について、喜納教授の日記記載を勝手に出発時刻として主張し自らの矛盾につじつまを合わせる供述をしている。

  C 原審判決は、
    「(控訴人の主張は)確定されていない事実を前提にして一方的な推測をしているもので、採用できない。」と判断し(原審判決22頁)、喜納教授が残した日記の記載をどのように理解するのが合理的か、喜納教授の日記記載と被控訴人小坂の供述及び供述の不自然な変遷とのどちらが信用に値する証拠であるかを、何ら詳細に吟味することなく、控訴人竹下の主張を一蹴しているのである。
    しかしながら原審判決がいう「確定されていない事実」というのは、喜納教授が既に他界されているという一点に尽きるものであり、喜納教授に直接事実を確認できないから、それは「確定されていない事実」であると判断しているのと同じである。これは、まさに「死人に口なし」を利用した被控訴人小坂の主張そのものであり、喜納教授本人の供述がなければ控訴人竹下が主張する事実を認定しないという態度の表れである。それは、公平な立場から客観的に判断すべき裁判所の役割を放棄するに等しい判断内容である。

 (2) 平成4年1月6日における喜納教授による病理診断
  @ 以上のように、1月6日における控訴人に対する説明が多田医師の病理診断に基づくものではなかったとすれば、小坂の主張を正当化できるのは、喜納教授による病理診断である。
    原審判決は、喜納教授による永久標本の診断について、不当にも以下のように認定した。
    「同月(平成4年1月)6日、被告小坂は、前年12月27日に浜松医科大学の喜納教授に、原告の永久標本が作製されたらこの診断をお願いしたいと依頼済みであったので、・・・喜納教授は、この永久標本によって、浸潤性乳管癌、乳頭腺管癌と診断し、その結果を被告小坂に連絡した。」(原審判決11頁)
  A 1月6日の永久標本に対する診断は、12月27日に被控訴人小坂が浜松医科大学に行ったときに喜納教授に依頼したというのであるから、当然に12月27日に小坂が喜納教授に会っていることを前提とする事実である。
    しかしながら、前記第2の1で論じたとおり、また、2003年10月9日付原告(控訴人竹下)準備書面で論じたとおり、12月27日に被控訴人小坂が喜納教授に会ったとの事実は、認定できないものである。
    この点における原審の不当性は前述したとおりであるが、1月6日における永久標本の運搬についても、関係者の供述内容と被控訴人小坂の供述内容とが食い違っているものであり、これをもって被控訴人小坂の供述内容どおりの事実認定をした原審は批判を免れるものではない。
    この点を以下に論ずる。
  B 1月6日に標本を喜納教授のもとに運んだとされる塩野義製薬の武内浩三氏は以下のように供述している(甲87号証)。すなわち、
    「その際、小坂医師から預かったものは茶封筒(大きさはA4よりも大きくなかったと思います)に入れられておりました。その中身については、説明も受けておりませんし、私から内容を確認したこともありません。その中身がなんであるか特に意識しないまま助手席にその封筒をおいて浜松に行きました。」
    「以前に清水市立病院から依頼を受けて、陳述書に署名をしましたが、その文章は私自身が作成したものではなく、清水市立病院からその当時の塩野義の担当者を通して社内メールで送られてきたものでした。私としては何かを運んだことは事実でしたので、その中身が問題となっているとは知らずに、その送られてきた文書を読んであれは標本だったのかと思いつつ、そのまま送られてきた文書に署名をしたものでした。」
  C これに対し、被控訴人小坂の供述は以下のとおりである。
    小坂調書@291、293〜295
    「浜松医大までは、だれが標本を運んだんですか。」
    「武内浩三さんです。」

    「どういうふうに頼んだの」
    「検体を搬送してもらえないかということを頼んだわけです。」

    「なんの検体ですか。」
    「病理標本ですね。」

    「予備の標本だとか言って説明したんですか。」
    「ええ、これはもちろんスペアですので、予備の標本だということも説明しました。」

    小坂調書A(430〜431、436)
    「武内さんには標本を渡したという話になっているんですけれども、武内さんには、これは標本だといわゆるプレパラートだということをお示して渡したんですか。」
    「ケースがございますので、そのケースの中に入れて、お渡ししたというふうに記憶しております。」

    「そのケースの中に、そういうものがあるということを示してということですか。」
    「そういうことです。先生がさっきご覧になった大きいやつのあれの小さいやつです。」

    「中身は、武内さんに分からずに、これを浜松医大に届けてくれと。」
    「中身も教えないで届けるということは、別に武内さんに限らず、そういうことではありません」
  D 以上のとおり、武内氏の供述と被控訴人小坂の供述とは、その内容を異にしている。どちらかが事実に反する供述をしているということであるが、武内氏は、標本を喜納教授に届けたかどうかという点について、何ら利害関係を持たないいわば第三者的立場にあるのに対し、被控訴人小坂は標本が喜納教授のもとに届けられるという事実を作らなければ、その主張事実・供述事実を裏付けることができない関係にあるので、大きな利害関係を有していることになる。そうだとすれば、どちらの供述が客観的であるかは明白である。
    原審判決は、この点の認識を誤り合理的な認定を怠り、判決の結論に重大な影響を及ぼす事実誤認を犯したとの批判を免れない。

 3 長村教授による病理診断(乙8号証の1及び2)
   同号証は1996年9月12日の一審原告(控訴人竹下)の準備書面において、控訴人竹下がそもそも癌ではなかったのではないかという疑問を呈するようになって、初めて一審被告から提出されたものである。同号証が提出された経緯からして。はじめから結論が決まっていたことは自明のことであり、なんら客観性を持たないものである。しかも、同号証には並木鑑定書にあるような写真が何も貼付されておらず、客観性が担保されているとは到底言い難い。さらに、被控訴人は、永村教授に対して病理診断を依頼した経緯を何も説明できていないこと、病理診断の依頼書の提出を求めるも被控訴人は依頼書の提出ができなかったこと、長村教授の病理診断の対象が控訴人竹下のものであることが証明されていないこと、仮に控訴人竹下の病理組織であったとしても、一審の審理が継続中に被控訴人小坂が病理組織を勝手に持ち出していること、などからも長村教授の病理診断は極めて信用性に乏しいと言わざるを得ない。

第5 事実経過に関する原審判断の誤り
 1 以上のように、控訴人竹下の被控訴人病院における診療経過からしても、被控訴人小坂が控訴人竹下を乳癌と診断する根拠は何もない。のみならず、上述したように、原審は、@証拠に存在しない事実を認定する、A証拠に現れている事実に反する事実認定をする、B証拠の読み違いによって誤った事実認定をする、など、司法としてあってはならない数々の過ちを犯している。

   そして原審判決は、生検の実施、稲田・喜納教授による迅速標本に対する病理診断、控訴人竹下に対する乳癌の説明、多田・喜納教授による永久標本に対する病理診断などを事実と認定し(原審判決 第3)、「原告(控訴人竹下)は乳癌に罹患していたのであり」と判示している(原審判決24頁)。
   こうした事実認定は、診療記録の記載に基づくものは別にして、診療記録に記載されていない事実は被控訴人小坂の法廷における供述及び被控訴人小坂の陳述書(乙16号証及び同31号証)によるものである。
   しかしながら、本来、診療記録に記載されていない事実は存在しないものとして認定することが合理的である。原審の判断はこの合理性に欠けている。とりわけ喜納教授による病理診断の存在を被控訴人小坂の供述のみによって、しかも「筋が通っており」という根拠のみによって認定しており、控訴人竹下が提出した客観的な書証(甲61〜63号証、同55号証、同72号証・85号証・86号証など)に基づく合理的な事実認定を放棄しているのである。
   このような原審の態度は、明らかに偏頗な、かつ公平性を逸脱した事実認定として厳しく非難されなければならない。

2 原審判決には,その他にも杜撰としか言いようのない事実認定が散見されるのである。
(1) 原審判決13頁1行目から
「なお,同様の検査は,前日の6日にも,前々日の5日にも行われている(乙2 p11,p24」と判示しているが,1月5日は20時まで外泊中であり(乙2号証40枚目),しかも日曜日であった。日曜日の,しかも外泊から20時に帰院した控訴人竹下に対し検査など行われるはずがないのである。
原審判決が引用している乙2号証p11には12月28日に実施した術前検査の結果が記載されているのであり,同号証p24は日付が1月6日と記載されており、この日に実施した内視鏡検査の結果が記載されているのである。本件訴訟記録からは1月5日に検査が実施されたことを裏付ける証拠は何もない。
(2) 原審判決15頁1行目から
「そして,原告の場合,同年1月26日からは理学療法士によるリハビリが開始されたが,」と判示している。
乙2号証13枚目には1月26日にリハビリが開始された旨の記載がある。しかし、この日は日曜日であり、リハビリが実施される可能性はない。リハビリが開始されたのは1月23日からである。このことは、他の被控訴人病院カルテによっても明らかである(乙2号証44枚目、乙3号証3枚目・5枚目・7枚目)。控訴人竹下はその旨主張してきたものであり,また,被控訴人小坂の法廷での供述によってもリハビリが1月26日から開始されたなどとは認定できないはずである(小坂調書A216,217)。
原審が、当事者から提出された書証を検討していないことの現れである。
(3) 原審判決17頁7行目
「これが切っ掛けとなって,同月21日,原告は被告小坂と同人の自宅で,市の職員立ち会いのもと話し合った」と判示しているが,これは「同月12日」の誤りである。(甲1号証第十六項)。この点は被控訴人もなんら争っていない事実であるにもかかわらず,原審が証拠に基づかない事実認定,あるいは証拠の読み違いによる事実認定をしている。

3 以上のとおり,原審判決は取消を免れないのである。

以上

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